第11話 葵の君覚醒 3

 毎日幾度も、紫苑を筆頭に女房たちは、口々に競うように、わたしを絶賛する。


 まあ、雇用主の娘の悪口は、絶対に言わないだろうけれど……。


 紫苑は最後の二枚格子を開け、葵の君の側にやってくると、朱塗りの洗面器(角盥/つのだらい)で顔を洗おうとする姫君の横で、絹で織った布(タオルの代わり)を別の女房から受け取り、顔を洗い終えるまで、横で待機しながら、嬉しそうにニコニコと、姫君が顔を洗う様子をながめていた。


 病から回復されて、ここしばらくは、いろいろと心配しながら、お仕えしていたが、すっかり立ち直られて、元通りどころか、最近では倒れる以前よりも、お元気そうに見えて、一安心する紫苑であった。


(それが地味過ぎる葵の君の努力の賜物たまものであるのを、彼女は知らない。)


 彼女にとって回復した葵の君は、もはや『薬師如来の具現』、後光が差しているような尊い存在である。


「………」


『町内の回覧板か?』


 一方、顔を洗う葵の君の頭の中には、そんな台詞せりふが浮かんでいた。


 あまりに早いうわさの回り具合に、更にもうひとつ考えが浮かぶ。ひょっとしたら、礼状を兼ねたわたしの手紙は、御所の廊下にある掲示板にでも、大きく貼り出されているのかもしれない。


『左大臣家姫君、快気祝い礼状』とか横に筆書きをされて……まさかね、知らないけど……』


 内心そう思ったが、苦笑するだけにして、丁寧に顔を洗う。


 思い返せば『早い目の源氏物語』の世界で目覚めて以来、朝がくるたびに体を起こし、目に入る美しい十二単じゅうにひとえの女房を見て、夢じゃなかったと、内心がっくりしながら、とりあえずできることを、一生懸命にこなす毎日だが、これも運命なんだろう。


 用意された朱塗りの角盥つのだらいの水面に浮かぶ、元の世界とは違う小さな子どもになった自分の顔と、ゆらゆらと揺れる長い髪を凝視したあと、葵はいまの現実である自分が『葵の君(葵の上)』であることと、目の前に立ちはだかる、いずれは自分が祟り殺される、源氏物語の世界を含む平安の世界を受け入れて、のちに訪れる運命を回避して、改革してゆくことに、全力を注ぐことを、改めて決意したのであった。


(筋トレばっかりしていたんじゃなくて、ちゃんと悩んでいたんだよ?)


『一人では・決めない・会わない・約束しない』


 そんな、特殊詐欺防止の警察署にかかっている標語のような言葉が、頭をよぎるのは仕方がないことだと思う。


 なにせ途方もない話である。


 そう言えば小さな葵の上は、今頃どうしているのやら。いや、いまは自分が『葵の上』いや『葵の君』か……。


「お願いもされたことだしね……」

「姫君?」

「なんでもない」


 しみじみと、なにか考えている自分を見る、けげんな表情の女房に、ぽつりと答えた。


 食をはじめ生活全般を『薬師如来の御告げ』と言い張って体質改善に励み、密かにストレッチや筋トレに励み、うたげも近づいたある日の朝は、『葵の君』の腹をくくったともいえる特別な朝であった。


『よし来い!』


 わたしは幼い頃より合氣道の稽古に励み、なんとか大学に潜り込んだあとは、地獄の夏合宿を無事クリア。


 ついこの間(もう別の世界だけど)は、全国学生合氣道演武大会に、すぐさま出場できただけあって、本番に合わせて体を整えられる、心の強い武道系女子だ!


 葵の君は鏡に向かって、泣き出しそうな気持を押さえ込み、自分にそう暗示をかける。


 そして開き直りとも思える、明鏡止水、澄み切って落ちついた心境で、今日も紫苑や女房たちに身支度をしてもらった。


 単衣ひとえを身につけ、重ねのはかまという、丈の長いはかまと身丈の表袴うえのはかまを重ね履き、上半身には、複雑に地模様が織り込まれた あこめと呼ばれる表着うわぎを数枚重ね、更にその上に、汗衫かざみと呼ばれる二十織ふたえおりされた、十二単じゅうにひとえ唐衣からぎぬのようなころもをあてる。


 それを帯で結んででき上がり、完成。冬なので薄く綿を入れてもらっている優れモノだ。


 ほぼ十二単じゅうにひとえ、ひとりで着られないのは、お分かりいただけることと思う。(わたしはYoutuberでもないのに、一体誰に喋っているんだろう?)


 今日の色合いは、今様色いまよういろと呼ばれる、少し淡い紅色を汗衫かざみもちいた、実に愛くるしい重ね色コーデだった。(母君曰く)そして相変わらず重い。


 数カ月に及ぶ寝たきり生活で、すっかり足の筋肉は、なくなっていたが、初めの内は紫苑に手を取ってもらい、布団の周りをゆっくりと歩くことから始め、遂には特別に几帳きちょう立てした、北の対とつながっている渡殿を歩き、母屋である北の対にたどりつくまで回復し、支障なく日常生活を送れるまでに至ったのである。


 自分の記憶と共に、葵の上の記憶が、外づけHDのように入れ替わった自分の中に残っているのも、不幸中の幸いだ。


 一年間の大学生活で知り得た、優しい単位の取り方の知識は、まるで役に立たなかったけれど、部活の経験をいかした食事と体力回復に関しての知識、地味に継続し続けることができる根性は、半端なく役に立ったのであった。


 真面目に生きていれば、人間なんらかの幸せが、やって来るものである。


『この世はすばらしい。戦う価値がある。The world is a fine place and worth the fighting for.』 ―byヘミングウェイ― 


 頭の中を前世に覚えた名言がよぎった。



「今日は、きっとびっくりすることがございますよ?」

「まあ、なにかしら?」


 源氏物語の中に転生した出来事より、驚くことなんてないけどね! そんなタカをくくりながら、葵の君は紫苑にたずねた。


 紫苑は姫君に、いたずらそうな笑みを浮かべる。実は今朝、大宮の側仕えの女房が、北の対から大宮のことを運ばせているのを見かけたのだ。


 どうやらうたげの夜には、大宮が久しぶりに、こと御披露ごひろうされるらしい。今日から東の対にて、本格的に練習なさるようであった。


『なんと姫君と連弾されるおつもりらしい!!』


 ことを用意していた女房が、そんなことを言っているのを、紫苑はこっそりと聞いていた。


「恐れ入ります……本日より大宮が、姫君と共にことを弾きたいと、ご伝言にございます」

「えっ……?」


『来た!!』


 大宮からの伝言を持ってきた、北の対の女房の発言に、驚く葵の君をよそに、紫苑は心の中で大喜びだった。


 YouTubeどころか、なんの録音機器もレコードすらもない時代。美しい音楽を耳にできる機会は、そうそうなかった。


 ましてや大宮のような、音に聞こえた名手とたたえられる方の、実際のことの演奏を耳にできるのは、本来は大宮が住まう左大臣家の母屋に勤める者の、楽しみのひとつであり、特権ですらあった。


 まだ姫君の体調が心配な大宮が、東の対へことをお移しになり、姫君とことを弾くとの話を聞いた途端、姫君の側仕えの女房たちは、飛び上がって喜んでいたのである。


 いつもはチケットも取れない、有名ミュージシャンのリハを聞ける。そんなどうしようもないくらいのドキドキ感が、朝から東の対に広がっていた。


『かんべんして下さい……』


 葵の君は内心そう思いながらも、本番当日まで、母君の指導を受けることに、あいなったのでした。


「あっ……!」


 なぜだろう、脳内の外づけHDの記憶通りに、ことを爪弾こうとしては失敗する。


「いままで寝込んでいたのだから、仕方がないわ、気にしなくてよいのよ、初めはゆっくりした曲にしましょうね」


 楽器の演奏は、毎日の復習が大切なので、記憶の中にあることを弾く方法は取り出せるけれど、おとろえた体と同様、指が記憶通りについてゆかず、おぼつかないこと、この上なかった。


 かくして葵の君の生活は回復と共に、ことの猛特訓が生活に追加される。


 自分はやればできる武道系女子だと、暗示をかけながらとなえていた、前世に覚えた力強い名言は、あっという間に、平安時代の綺麗な星空の彼方かなたに飛んでゆく。


 深夜にひとり、葵の君は心の中で、夜空にまたたく星の数ほど、泣きごとを並べていたが、やがて気を取り直して、布団の影に隠れて、気晴らしに黙々と腹筋を始めていた。


『楽器なんて、カスタネットとリコーダーしか知らんから!』



 *


〈 後書き 〉


 唐から伝わった箏は、君子の楽器とされ、日本に伝わったあとも、高貴な人の聖なる楽器と言われていたそうです。高雅な趣味である箏は、歴代の帝や女御にも数多くの名手がいて、名前までつけて自分の箏を可愛がっている人もいたそうです。(光源氏もそうですよね)


『中務卿と箏/小話』


六「弾けるんですか?」中務卿の家に囲碁に誘われて遊びにきたら、通りがかりの一角に、箏が出してあった。

中「一応は弾けるが? あとでなにか弾こうか?」

六「……」雑な性格だけど、やっぱり元皇子だなと思っている。

囲碁を終えて、夕飯後、箏を弾く中務卿。

六「……」素人の自分にも、うるさいだけなので、果物(菓子)を食べながら、話を振るんじゃなかったと後悔している。


六「耳が……」次の日になっても、耳の中で中務卿の箏の音が、ガチャガチャして、仕事がはかどらないのでした。

壱「???」


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