第259話 入れ替わる光と影 14

 元のお話とは解離した物語の中で、揺れ動きながらも、お互いにはじめて出会った夢の中のように、再び相まみえた瞬間であったが、やはり理解し合うことはなかった。


「そのような危ないものを、女君が触れ……」


 葵の上は、彼がそう言い終わらない間に、「えいっ!」と言う掛け声と共に、刀でもって音もなく真横に一閃の光を走らせ、彼の頭上をぎ払う。光源氏は、驚きの余り思わず声を上げて、その場に崩れ落ちていた。


 先が切り払われた烏帽子えぼしは、そのまま床の上に転がり落ちる。


 葵の上は『あ、烏帽子えぼし!』と、例の事件を思い出し、パッと手を伸ばすと、残っていた部分を、女子平均の倍近い約50Kgの握力で、ぐしゃぐしゃにして、怒りを込め庭の遠くに投げ捨てた。


 篝火かがりびの周囲以外は、闇の支配する庭に、先の欠けた烏帽子えぼしは、吸い込まれて消える。


「ああ! なにをする!」


 彼が慌てて声を上げると、上から冷ややかな声が降る。


「第二皇子、いや光源氏、貴方あなたは、なんにも変わっていないのね。大学寮にも通わずに、いままでなにをしていたのかしら?」

「なにをと言われても……あんなところに通って、なにをどうしろと? わたくしには既に身につけた教えばかりなのに!」


 葵の上は、半分呆れ、半分は、変わらぬ光源氏に、そっと笑って、勝利を確信した。


 いくら葵の上が、幼い頃からの努力や、左府さふの指導によって、卓越した武芸の技を身につけているとはいえ、どう転んでも男女の基礎体力や筋力の差は、年齢と共に開く一方だ。ましてやいまは病み上がりの身。


 美貌だけでなく、すべての才能に恵まれた光源氏は、もし、既に武芸の講義を受けることが、必須になっている大学寮にさえ通っていれば、同じくらいの、あるいは葵の上をしのぐ、武芸を身につけていただろう。しかし言うまでもなく、彼はその貴重な最後のチャンスを、ふいにしていた。


「そう、身につけている教えばかりと言うのなら、次は、遠慮はしませんよ? その烏帽子えぼしの中身を、ふたつに割りましょうか?」


 そう言った葵の上は、あえて威圧するように刀を上段に構え、じりじりと光源氏に迫る。当然のことながら不登校で、時代に完全に乗り遅れていた光源氏は、震える以外なす術はなかった。


 彼は這々ほうほうの体で、なんとか葵の上の前から逃げる寸前、丁度復活して、お風呂に入れてもらおうと、やってきていた小さな花音かのんちゃんに、思いっきり鼻の頭をジャンピングパンチされて、自分が散々笑いものにしていた『末摘花の姫君』のように、鼻の頭が真っ赤になってしまう。


 光源氏が、痛さの余り転げ回っていると、騒ぎに駆けつけた紫苑に見つかり、当然のことながら大騒ぎがはじまり、「ちょっとは反省したらどう?」そんなことを、光源氏は見えない花音かのんちゃんに耳元で言われて、なにかしらの祟りに違いないと思いながら、命からがら徒歩で逃げ帰る。


 その頃には、もう外はすっかり明けていて、案の定、烏帽子えぼしを被っていない彼は、通りを行き交う、いわゆる下々の人間にも凝視され、大恥をさらしていた。庶民ですらなんらかの被り物をせずに、外を歩くことなどない時代であったから。


 それでもなんとか乳母の古びた家に逃げ帰った彼は、その一室で小さな鏡をのぞきこみ、一生治らなかったらどうしようと、誰にも会わずに、鼻の頭を真っ赤にしたまま、何日も熱を出して寝込んでいた。


「あ! アイツを逆さ吊りにするの、忘れてた!」


 小さな花音かのんちゃんは騒動のあと、ご機嫌で迎えにきた“伍”の手提げカゴの中で、うっとりと沢山のプリンに囲まれ、戦利品だとでも言うように、光源氏の切り落とされた烏帽子えぼしのさきっちょを、小さな烏帽子えぼしのように、頭に被ったまま、残念に思っていたが、あとで彼には朱雀帝が、凄まじい雷を落としたと聞いて、「それならまあいいか」そう思っていた。


「ま、これで大人しくして、反省してくれたら、一番なんだけどね……」


 葵の上は、追い返した直後は、大宰府に行け、大宰府! と、腹を立てていたが、しばらくすると、とんでもない目にあったとはいえ、自分に運命を変えられてしまった光源氏に、ほんの少しだけ同情して、今回だけは見逃すことにすると、少しでも寝ようと布団に潜り込む。


「まあ、肘の関節は、この時代だから、完全には治らないだろうし、光源氏は恥をかかせた方が、ダメージが強そうだから、烏帽子えぼしで相当こりただろうし、もうさすがに忍び込んでこないよね……」


 そんな独り言を、布団の中で言っていると、話を聞いて、宿直とのゐから、慌てて帰ってきた左府さふが現れる。


「ご無事か?!」

「追い返したから大丈夫です。あんな軽率な弱虫、相手にする必要もないですわ」


 葵の上は心配そうな顔から一転して、笑いをこらえた顔になった左府さふに、そう答えながら、まあこれが、最初で最後の情けだよね。


 そんなことを思い、左府さふの顔を見て安心すると、そのまま腕の中でスヤスヤと眠り、帝から厳重な注意があったとの話を聞いた左府さふは表向き、目を瞑ることにした。


 なぜならば、葵の上の部屋に再び戻っていた式神の小鳥が、光源氏にとって、なにを意味するのか、感づいていたから。


 案の定、光源氏が乳母の家に帰り、痛む肘を撫ぜていると、枕元に現れて、呪いをかけた者がひとり。


「化物! 誰か! 誰か随人を!」


 枕刀を手に光源氏は叫ぶが、誰も来ない。静まり返る空間に浮かぶのは、物の怪よりも醜い『真白の陰陽師』の“六”と呼ばれる男だった。


 あまりの異様さに硬直していると、彼はすっと手を上げる。ドロンとした目になった光源氏は、彼の色素の薄い瞳に魅入られたように固まっていたが、トンと額を指で突かれると、あっという間に眠りにつく。


 目覚めた時には誰もおらず、いつもの自分の部屋に、ひとりきりであったので、酷い夢を見たと思い、これもあの男女の機微を理解せぬ、浅はかな葵の上のせいだと思いながら、布団に横になり念仏を唱えていた。


 式神を通じて騒ぎを知った“六”は、光源氏を空に浮かべて、くびり殺してやろうと思い、彼のあとをつけて、密やかに部屋に入り込んでいたが、葵の上が事件に巻き込まれるのを恐れ、彼に少しばかり迂遠うえんしゅをかけていた。


しゅがかかるもかからぬも、足元の薄ら氷を踏み抜くも、踏み抜かぬも……お前次第だ光源氏……」


 彼は帰り道、そう独り言を呟いて陰陽寮に出仕し、無表情で自分の仕事を片づけて家に帰り、不気味な笑みを浮かべる。


「どうかしたの?」


 そんな“六”の家に、呑札を取りにきたついでに、昨日の騒ぎを面白おかしく話していた紫苑は、不気味そうな顔で彼を見ていたが、珍しく同情した表情を浮かべた。


「大火からずっと大変だったから、きっと疲れているのね……わたしも昨日の騒動で、すっかり疲れちゃって……無理にでも笑顔を作ると体にいいって聞いたけど、不気味だから貴方はやめた方がいいわよ?」


 紫苑はそう言うと、「一個しかないから半分こよ? 本当は夕顔の分だったけど、なんだか今日は食べられないっていうから」そう言って、プリンの入った包みを出す。


 普通、自分は我慢して置いて帰らないか?


“六”はそう思ったが、「甘いものを食べると、ちょっと元気になるわよね」そんなことを言いながら、勝手に食器を探してくると、なんだかんだと言いながら、世話を焼きだした、結局は面倒見のよい紫苑に、今度は面白そうに少し笑っていた。


「うしろに幽霊がいるぞ」


 その言葉に慌てて振り返った紫苑は、「なにもいないじゃない! 」そう言って唇を尖らせていたが、普通の人間なら見えるくらいに、くっきりとした幽霊がいるのだがと、“六”は、紫苑の鈍感力を、久しぶりに思い出していた。


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