第42話 女叙位 4

〈 後宮の話 〉


 帝の后妃こうひたちが主に住む後宮は、七殿五舎の十二の殿舎でんしゃ御殿ごてん)が存在し、主に実家の身分を配慮され、割り当てられたそれぞれの御殿ごてんに、それぞれの身分の后妃たちが住んでいる。


 帝が昼間の生活の拠点とする清涼殿せいりょうでんに近い弘徽殿こきでんをはじめ、殿舎と呼ばれる大規模な御殿には、実家の身分の高い、女御と呼ばれる后妃たちが中心に住み、七殿よりも間取りの小さい五舎には、実家の身分がそこそこの、更衣こういと呼ばれる后妃たちが住んでいた。


 中務省なかつかさしょう所属、皇后宮職こうごうぐうしきは役所ではあるが、後宮での職務が主であるので、後宮内の殿舎のひとつに場所が設置されている。


〈 女叙位にょじょいの日/紫宸殿ししんでん/皇后宮職こうごうぐうしきの別当 〉


 年末に、左大臣家の姫君の尚侍ないしのかみとしてのご出仕の話を聞いてから、直接の所属先になる皇后宮職こうごうぐうしきの別当は、ほぼ休みなしで様々な手配をしている。


 彼は相変わらず痛む腹のあたりをそっと手で押さえ、隅の方で女叙位にょじょいの行事に出席していた。


 華やかな行事が目の前で繰り広げられているが、彼は上の空で、自分が巻き込まれた尚侍ないしのかみ出仕騒動を脳裏に浮かべる。


 あの時、上司である中務卿なかつかさきょうに見せて頂いた、帝の署名が入った勅令には、可能な限り左大臣家の希望は、融通するようにとの旨がしるしてあった。


 その上、なぜか右大臣まで、わざわざ皇后宮職こうごうぐうしきに顔を出すと、「尚侍ないしのかみの案件には格段の配慮を」と、自分に声をかけてきたのだ。神経を使わない方がおかしい。


 小心者ながらも、極真面目な男である別当は、そのあとすぐに、二通の手紙をしたため、左大臣に使者を立てていた。


 一通目の左大臣宛てには、尚侍ないしのかみとして姫君に入っていただく殿舎(御殿)は『登華殿とうかでん』ではどうかと、最初にうかがいを立てていた。


 登華殿とうかでん弘徽殿こきでんの北隣、帝が住む清涼殿から最も遠いが、妃に立つ予定はなく、公務のために出仕なさるとのことなので、最適であろうと思われた。


 広さも格式も弘徽殿と同じくらいで、母屋おもや九間に、ひさし四面、最上級の御殿のひとつである。


 深い事情は知らないが、彼は上司である中務卿なかつかさきょうに、内密に姫君には公務での負担はかけず、皇后宮職こうごうぐうしきで全力を上げて、陰で支えるよう厳命されていたので、登華殿とうかでんは直接の所属先である皇后宮職こうごうぐうしきにも隣接している好立地だと思った。


 もし姫君が身分の低い出自であれば、他の后妃たちが黙ってはいないであろうが、姫君は関白の孫娘、摂関家の姫君であり、その上、母君は帝と同腹の元内親王であらせられる。


 正直に言えば、入内前の弘徽殿女御こきでんのにょうごよりも、後宮にいるすべての后妃方と比べても、家柄も血筋も誰よりも遥かに高い地位にいらっしゃる。


 女御はおろか、中宮、皇后すら望める、臣下の姫君の中でも最高位に立つ存在ゆえに、弘徽殿女御こきでんのにょうごをはじめ、どの后妃たちからの反対意見はないと踏んだ。


 来世、現代人に生まれ変われば、彼は有能な不動産の営業マンになったことであろうと思われる。


 上司の言う内密な話を聞いた時、公務の円滑を打ち出して、尚侍ないしのかみに就任して頂くと聞いていたのに、裏に回れば真逆の中務卿なかつかさきょうの指示に、どういうことなんだろうとは思ったが、平穏無事を一番に心がけている彼は黙って了承していた。


 上層部には上層部の思惑と事情があるのだろう。藪は突つかずに暮らすのが一番である。なにより姫君は、あの関白の孫なのだ。


 先日の大納言の左遷は、関白が直接なにも口に出さなかったにも関わらず、右から左に書類が流れてゆき、あっという間に彼の大宰府ゆきが実現していた。恐ろし過ぎる話である。


 あと一年もあるかないかの関白の引退までは、否、彼が彼岸ひがん(あの世)へ行ったと確信するまでは、たとえなにがあっても関白を怒らすんじゃないと、正月に久しぶりに顔を見た、実家で隠居生活している父君に、くどいほど念押しされた。


『極力、顔を会わさずにやり過ごそう!』


 そう彼は正月早々に決意していた。


 ただでさえ左大臣家に、ご用聞きといった呈で、腰低くうかがった時に、なぜ関白までいるのかと冬なのに汗をかき、頭が真っ白になりながら、姫君の後宮で送る生活に関する希望をうかがう羽目になって、一度、面倒ごとに巻き込まれている。


 姫君からは風呂殿の増設と、母君のご同行という『たったふたつだけの控えめな希望』と横柄に言う関白と、横で鷹揚に構えている左大臣の前で、彼は深々と平伏し、左大臣家の風呂殿を目にしてから、建設にかかった費用を聞いて真っ青になり、工期が間に合うのかと、倒れそうになった事を思い出す。


 風呂殿は皇后宮職こうごうぐうしきが、用意すべき後宮設備であろうと、関白が言い放ち、予算を考えて、青ざめて硬直する自分を憐れんだ左大臣が、こちらの我儘だからと、かかる費用は負担すると、請け合ってくれたのは、人生に舞い降りた奇跡だった。


『左大臣万歳!』


 そして彼が送った二通目の手紙の宛先は、左大臣家の姫君、葵の君であった。


 気づかいと挨拶を書きつづった手紙ではあったが、形式的に自分は上司になる訳で、なにひとつ知らない姫君のご様子や人柄を、頂けるであろう返事越しに、わずかでも確かめたかったのが、手紙を送った理由の中で一番大きい。


 左大臣家にうかがったその日、姫君にもご挨拶をと思ったが、生憎と姫君は博士の講義中とのことで、ご挨拶はかなわず残念であったが、左大臣家からの帰りぎわに、自分宛の唐紙の手紙と、椿の花が添えられた美しい塗箱を、姫君の側につかえる女房から受け取った。


 尚侍ないしのかみは、皇后宮職こうごうぐうしきに所属する、れっきとした官職。


 とはいえ中務卿なかつかさきょうの念押しもあり、周囲の期待はともかく、お仕事の件はご心配せずに、後宮でお過ごし下さいと、上辺の気づかいを手紙で伝えていた彼に、姫君は美しい筆の跡で、額面通り『尚侍ないしのかみの職務を、自分の力の及ぶ限り果たします』とのお返事を、丁寧に書きつづられていらした。


 末尾には『世間を知らぬ身ゆえに、ご苦労をおかけするかと思いますが、出仕後は、よろしくご指導のほどを』との内容で締めくくられていた。


 添えられていた美しい塗箱は、御弁当と干菓子。手渡してくれた女房が言うには、左大臣家へ出向くことで、仕事が遅れるのではと、姫君からのお気遣いとのことであった。


 皇后宮職こうごうぐうしきの別当となってから、後宮のあらゆる后妃たちに接することの多い彼だが、そろいもそろって気高くも気位も高い娘ばかり。


 彼は、日に々々、悪くなる腹痛の原因は、彼女たちではないかと、たまに思うことすらあった。


『上司も怖いけど』


 大貴族の姫君の集まりだから、悪気はないし仕方がないとは思うが、(桐壺更衣きりつぼのこういは違うけど、彼女は后妃になれたのが不思議な、ギリギリの身分出身なのではぶく。)そんな風に常日頃、后妃たちの対応に、苦心惨憺くしんさんたんする日々を送っていた彼は、姫君の優しさに、思わず涙がキラリと零れたのを覚えている。


 正直、『尚侍ないしのかみ』への期待で一杯の殿上人たちは、夢を見過ぎているのではないか?


 後宮という華やかながらも、げに恐ろしい世界を担当している彼は、内心そう思っていたが、姫君に頂いた手紙には、拍子抜けするほど、少しも頼りなきところは見当たらず、むしろ兵部卿宮ひょうぶきょうのみやではないけれど、明日からのご出仕をお願いします!


 そう言いたいくらいに、心優しく気品に満ちた、うわさ以上の才が溢れる内容であった。


 姫君は、内親王であった三条の大宮の姫君、そして自分の上司である中務卿なかつかさきょうは、その三条の大宮のうしろ盾あって、いまの地位に就いている。


 彼はきっと大宮に気を遣うあまり、姫君の公務を完全に補佐するように、自分に命じたのであろう。


 その時の別当は、そう得心して、久々に腹の痛みを忘れ、後宮への帰路についていた。


 案の定、残業になり、手渡された御弁当を食べていた彼は、ふと思うことがあり、内裏からの帰りに寄り道をして、大内裏の中務省なかつかさしょうにある、中務卿なかつかさきょうの曹司を夜中に訪れていた。


 この人、大内裏で生活してるんじゃないだろうか? いつでもいる気がする。


「また、後宮で騒動か?」


 うんざりした顔の上司に、心が折れそうになりながら、彼は勇気を出して意見を具申した。


「あ、あの、左大臣家の姫君の件でお話しが……」

「どうした?」


 彼はその日、珍しく上司に褒めてもらうと、翌朝、宮中の食事をつかさどる大膳職だいぜんしきの責任者を呼び、数名を選抜して左大臣家に研修に行かせるように命じた。


 姫君が帰りぎわに、ご用意下さっていた、美しき彩りと風味が溢れる美味な『御弁当』から察するに、とても大膳職だいぜんしきの料理は、姫君の口に合わぬであろうと思ったのだ。


(後宮の食事は、いわゆる内親王時代の母君の食べていた、お塩たっぷり&見栄えに全振りの料理が用意される手配であった。)


 そんなこんなを別当が思い出しているうちに、関白が左大臣家の姫君の代理として、堂々と尚侍ないしのかみの宣旨を受け、無事、姫君の尚侍ないしのかみの着任は正式に決定した。


 儀式が終わり、うたげがはじまる。うたげの賑わいが遠くから聞こえる中、彼は再び後宮に戻ると、美しく整えられ、あとは調度を整えるばかり、そんな『登華殿とうかでん』に足を運ぶ。


 それから関白から届いた登華殿とうかでんに入れるための調度品の目録を手に、すでに運び込まれていた豪華絢爛な調度品を、ひとつひとつ頭の中で、御殿の中に大まかに配置をする。


 姫君がご出仕なさるご予定の、春の終わりまでに、新しく用意する畳が予定通りに届き、横の庭のひと隅に増設している、風呂殿の完成を待って『登華殿とうかでん』の体裁は整いそうな様子であった。

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