第39話 女叙位 1

〈 政治/まつりごとの話 〉


 平安京を中心としたまつりごと(政治)は、二官(神祇官じんぎかん太政官だいじょうかん)と、太政官だいじょうかんが総括する八省(中央官庁)の二官八省で構成されている。


 実質的には祭祀を担当する神祇官じんぎかんも、関白、左右の大臣らを頂点とした太政官だいじょうかんが統括していた。


 重要でない案件は、数人の公卿くぎょうと中納言以上の審議で、事務的に処理ができたが、重要な案件の意思決定は、多数決でも公卿の統一見解でもなく、みかど、もしくは、関白だけが決定することができた。



〈 翌年、正月八日/女叙位にょじょいの日/紫宸殿ししんでん 〉


 その日、紫宸殿ししんでんで、女叙位にょじょいの行事に参加していた、怨霊騒動などつゆ知らぬ、情報に取り残された右大臣は、近頃の受難と災難に、内心では大いに頭を抱えていた。


 なんなら、関白が京に戻って以来、ため息のつきっぱなしだ。上がらぬ税収に、はかどらぬ仕事、そして未だ解決しない連続殺人事件。(これは管轄外ではあるが、世の中の空気が悪くなるのは、人心やまつりごとの乱れを呼ぶ。)


 桐壺更衣きりつぼのこういが実家に里帰りしてくれたのが、せめてものなぐさめであった。娘である弘徽殿女御こきでんのにょうごが少しは静かになってくれる。


「実は少し早いことではあるのですが、息子を通して縁の深い右大臣には内々にと……。我が家の姫君を、来年には行儀見習いがてら、尚侍ないしのかみとして内裏に出仕させようと思います。母である大宮が、後宮の華やかさを知らぬままに結婚させるのも、あまりにも不憫と言い出しまして。大宮たってのご希望なので、来年の秋の除目のあたりには色々と整えて、出仕させたいと考えており、お力添えを頂ければと思います」


 いまにして思えば、左大臣の発したあの言葉が、あれが受難のはじまりだった。


 彼は予定通りに運んでいる行事に、重々しい顔で参加しながら、とりとめもなく自分の記憶をめぐる。


「なんとまあ! しかし、姫君は裳着もぎすらまだでは? 汗衫姿かざみすがた尚侍ないしのかみなど、聞いたことがありませぬぞ?」

「姫君がすっかり健康を取り戻したので、来年の春の終わりには、裳着もぎ(成人式)を済ませようかと思っております」


 公卿などにはじまる上流貴族社会の頂点に位置する摂関家としては、定石である姫君の入内を、やんわりと否定するかのような左大臣の言葉に、その時の右大臣は絶句していた。入内してもらわねば、自分の後々の計画が水の泡である。


 摂関家の定石として、いずれ左大臣は東宮になったどちらかの皇子(もちろん第一皇子でなくては自分的には困る)に姫君を嫁がせる心づもりと思っていたが、帝や左大臣の実父であった関白の懇願に折れて、しぶしぶ左大臣家にご降嫁された大宮が、ご自分の姫君を無理に女御や中宮に押す考えがないのだと考えた。


 そして左大臣が大宮の言いなりなのは、京中の貴族が分かり切っている常識であった。


 いっそいまここで、第一皇子の外戚として、姫君と第一皇子の婚約を申し込もうかと、その時の彼は素早く考えていたが、続いた言葉に目を見開いたのを覚えている。


「今度の件は、姫君を大層可愛がっているわたくしの父、関白にも後押しをお願いしております」

「え……関白?」


 思わず声を漏らした右大臣に、左大臣は関白に頼んでいる推薦状をもらってくると言い残し、内裏をあとにしていた。


 が、その情報があっても驚いたのが、その数日後に起きた『関白の内裏襲来事件』であった。


「なにが起きたんだ!」その時、右大臣は心の中でそう叫び、最近すっかり少なくなってきた、烏帽子えぼしの中にある自分の髪が、はらりと抜け落ちるのを感じていた。


 内裏の入口の門を全部、閉めておけばよかった!


 いまだに右大臣は、そんな馬鹿な妄想に取り憑かれている。


 あの日は元々、いつも通り、昼御座ひのおましに帝のお出ましもない予定で、大臣や公卿たち、殿上人の重鎮が集まって、総ざらい兼反省会とでもいう、年末の朝議の予定であった。


 彼は左大臣の先手を打って、姫君の幼い年齢と、急過ぎる話を理由に、姫君の尚侍ないしのかみ出仕に対する内裏の空気を『左大臣の横暴』という風に持ち込んでおけば、さすがに関白の推薦状があっても、話は立ち消えるであろうから、その間に自分から、姫君と第一皇子の結婚話を持ち出そうと思っていたのだ。


 それでなくても、なにかと問題にするべき議題は山積していた。『勝てる!』その時、右大臣は思っていた。


 左大臣の姿は、まだ見えなかったので、右大臣はそれとなく『尚侍ないしのかみ』の人事について、出席している公卿たちに意見を聞き、出仕を断念させる方向に内裏の意見を誘導しようと思いながら、おもむろに口を開いていた。


「そういえば、空位のままの尚侍ないしのかみの地位なのだが、来年の秋に、帝の姪にあたられる、左大臣家の姫君に就任して頂くのはどうであろうか? あくまでも、まだ『仮』の話であるが」


 尚侍ないしのかみなど、政治的には、なんの役にも立たぬ名誉職、ましてや来年の秋といえば急すぎる話である。公卿たちは驚き苦言を呈するかと思われたが、どこからか聞こえた返事は、予想外の内容であった。


「それはよきご提案にございますな。帝が病平癒の祈願にと、第一皇子を代参させるほどに大切に思われている、左大臣家の姫君に尚侍ないしのかみとして出仕して頂ければ、帝には、いまより格段に、臣下の声に耳を傾けて頂けるかと思います」


 中務卿なかつかさきょうが、さり気なくそう言いながら、集まっている公卿たちの顔を見渡していた。


 いまにして思えば、彼は既に、うしろ盾である大宮からの説得済だったのであろう。その証拠に、彼の準派閥ともいうべき八省の長たちは、打合せでもしていたかのように、なんの反対もしなかった。


 紫宸殿ししんでんに響き渡った楽器の音色に、一瞬意識を現実に戻した右大臣は、斜め向かいに真面目な顔で座している中務卿なかつかさきょうの顔に、苦々しく、突き刺されとばかりに強い視線を向け、手にしているしゃくを強く握りしめた。


 時折カンに障る存在ではあったが、臣下に降りたとはいえ、元皇子という尊き血筋であり、その有能さゆえに、存在を黙認してきた自分の甘さを後悔する。


 晴れわたる冬空から差し込んだ光が、勝利の祝福とでもいうかのごとく、彼が着ている紫黒色しこくしょく束帯そくたいにそそいでいた。


 いささか鋭すぎる印象はあるが、どこから見ても、誰も文句のつけようのない素晴らしき姿である。


 首筋にある蛇が這ったような不気味な火傷の痕が、それらすべてを台無しにしていたが。

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