迷宮 最深層――絶体絶命
女神の突きは一つ一つが鋭く、重く、そして尋常でないほどに速かった。
普通に応戦していたら、まずさばききれない。
デュランはほとんど勘だけで、最初の猛撃をしのぎきった。
吠えながらやや力任せに振り払うと、女神の姿が遠のいた。構え直しながら、間合いを量っているらしい。
既に鎧の下では、冷や汗がびっしりと浮かんでいた。
(さすがに強い――試練の間の連中より、更に厄介だ)
あの女の細腕のどこに一体そんな力が隠されているのか。
細身な見た目にそぐわぬ凶悪な攻撃と言えば亜人を彷彿とさせるが、彼らにはしなやかな筋肉がある。
一方、女神イシュリタスは、特に鍛えているような姿には見えない。
それに矛を構え直すとき、重さか長さに振り回されるようにふらりとよろめく、いかにも素人じみた動きも見せた。
だのにいざ攻撃に転じれば、どの熟練者よりも強く正確に、奥まで衝撃を通してくるのだ。
(なんだろう、こんなのは初めてだ――こなれているかと思えばそうではなくて、気は抜けないけど本気になりすぎるとそれもまた不正解と言われているような――)
睨みながら息を整えている間に、また姿が消えた。備えた瞬間、殴られたような衝撃にさらされる。
今度は斬撃。右、左、上、下――ありとあらゆる方向から、刃が襲いかかってはしなり、返し、デュランに猛攻を浴びせかける。
(突きの時も何度か受け損ねたけど、更に精度が増している――!)
特級宝器、無双の鎧でなければとっくに体に風穴が空くか、分断されていたことだろう。
だが鎧の方も、矛の刃が触れる度、ギシギシミシミシと嫌な音を立て始めた。
(ここに来るまでにも無理をしている――頼む、持ってくれ!)
集中を研ぎ澄ます。
真正面からやってくる一撃の軌道を読み切って、わずかによけつつ相手の懐に――入ったつもりが、女の姿は消え、背中から突き飛ばされた。
カッと燃え上がるような熱は、おそらく痛みだ。ついに傷を作られてしまった。
(――信じられない)
だが今の失敗で、一つ自分の勘違いを理解した。
イシュリタスの連続攻撃を受けている時、まるで複数方向から襲われているかのような錯覚を覚えることがあった。
それはおそらく、彼女の刃を扱う素早さがもたらしたものなのだと、今までの戦闘経験からデュランは自然と思い込んでいた。
だが、違う。事実だ。彼女は実際に、一振りで複数の場所からデュランを攻撃していた。
(気のせいじゃ、ない。転移術で攻撃を飛ばしてきている――しかも、手数を増やしている!)
デュランは特級冒険者、かつ元超一流の竜騎士。修羅場には慣れていて、戦闘経験も豊富だ。戦う相手ごとに戦術も戦略も存在し、同じ手などという甘い考えではいつか足下をすくわれることも理解している。
だが、それでも鳥肌が止まらなかった。
目にも止まらぬなどという、そんなかわいいものではない。
ここは迷宮最深部。
そして彼女は迷宮の主。
(ならば彼女がこの場の常識であり、かつ常識破りでもある……)
そして自分はこれを超えていかなければならないのだ。
どうやって?
再び交戦が再開され、思考は打ち切られる。
受けているだけでは駄目だ。こちらから攻撃に転じねばならない。
だが隙を見て反撃しようと、容易に倍で返される。
攻撃が止まり、引こうとするのを追いかけてこちらから仕掛けても、全く決定打を与えることができない。
きらきらと、ちかちかと、遠くで無数の光が瞬いていた。
デュランを見つめる無数の目。
問いかけ続ける銀色の眼差し――。
自分の喘鳴が聞き苦しい。体が重くなると、心まで同じく沈みそうだ。
既に顔の半分が見えて、腕や足も露出している。腹部も押さえる手を離したら、ぼろりと塊が剥げて落ちた。
限界で、絶体絶命だ。
だからデュランは、大きく深呼吸した。片手を滑らせて、顔に当てる。
(落ち着け。大丈夫だ。過去何人もの冒険者が迷宮に挑み、そして最奥まで至って願いすら叶えた者もいると聞く。俺が今着ているものはなんだ? その証だ。少なくとも、最低一人は勝っている。前にできた人間がいるなら、俺にできないはずがない)
イシュリタスが目を細め、また姿を消した。
どこから次の手が飛んでくるかはわからない。
今見えているものが本物かも定かではない。
だが――。
(相手がこちらに触れるとき、こちらも相手に触れられる。つまり――)
「ここだっ――!」
迫る気配、刹那に目を開き、全神経を集中させて向かってくる方に手を突き出した。
胸のあたりが大きく抉られて、鎖骨に刃の先が引っかかる。それと同時に、まさぐったポケットから出して口の中に放り込んでいたポーションを飲み込んだ。
(――感触は、ある!)
いわゆる肉を切らせて、という奴だ。
翻弄しているだけならイシュリタスは全くの無傷でいられようが、冒険者に触れるならば、彼女もまた冒険者に触れられている。
見込み通り、決死の一撃は深々と女神の脇腹に突き立ったようだった。
甲高い女の悲鳴が鳴り響き、彼女は矛から手を離す。
デュランもまた、大剣から手を離し、飛びすさった。
自分に半ば突き刺さっていた矛がぽろりと落ちたのを拾い上げて、今度はそれを構える。
女は顔を覆い、ブルブルと大きく震えていた。
剣が落ちて、折れる。
赤い血がどくどくと体からあふれ出す。
空を振り仰いだ彼女が、大きく。
鳴いた。
否。
咆吼した。
土のような石のような固い床が、まるで沸騰した湯のように泡立ち始める。
女神の足下から泥がせり上がって、みるみる彼女の体を覆った。
ぼこり、ごぼりと音を立て、人一人を飲み込んでできた沸き立つ泥の塊は、やがて脈打ち、蕾のような、蛹のような形に変化した。
それはぶくりとたわみ、弾ける。
中から黄金色の液体を撒き散らせながら、一体の青い竜が現れた。
今まで見たどの竜よりも――アグアリクスよりもずっと大きい。
冒険者達が何日もかかって、何人もで挑んで倒す、
それほど大きな竜には、手足が存在していなかった。それはいわば翼の生えた蛇だ。だが角を持ち、火を吐き出し、尾を体をくねらせて産声を上げていた。
怪物の銀色の双眸は、憎しみと怒りに燃え上がっている。
なんとか泥に埋もれずに済んだ竜騎士に、酷薄な視線が向く。
《
(――あ)
聞き覚えのあるフレーズに、頭が真っ白になったような気がした。
それが耳に届いた瞬間、パン! と音を立て、騎士を守っていたたった一つの薄く、けれど何より心強い壁が弾けて消えた。
鎧がなくなれば、身を守ることも、剣をふるうことも、飛躍的に高めた身体能力を利用することもできない。
ただ、一人の男のデュラン。
それだけの状態で、巨大な竜の前に立たされる。
(――まだ。まだだ)
卑小なる被食者を、いっそ慈愛の目で捕食者が見つめる。
だがデュランはうつむき、膝を屈することはなかった。
じっとはるか頭上の女神の顔を見据えたまま、考えようとする。
(終わっていない。まだ、諦めていない)
竜の形に変じた女神が、目を細めた。
すると呆気なく、デュランの足下が崩れていく。
翼を持つ彼女は、悠然と宙にとどまる。
デュランは? 落ちるしかない。元々鎧にだって、飛行能力はついていない。
だが鎧がなければ、落下後にとても無事でいられるはずはない。
ポーションで閉じたはずの背中の傷が、じくじくと痛む。
(――だけど、まだ)
落ちていく。空に手を伸ばす。
胸元で笛が揺れた。
青い鱗はまだそこにあり、ほんのり温かみを放ってデュランに添い続ける。
(ここまで来て、こんな所で終わってたまるか)
加速する。地面はどこだ? 衝突まであとどのぐらいだろう。いや、そもそも本当に底があるのだろうか。
死に物狂いで荷に手を突っ込んだ時、はっと見下ろす視線と目が合った。
ゆったりと遠い場所で空を仰いでいる竜が、こちらに大きく口を開く。
真っ暗なそれが、光を帯び――そして、まっすぐこちらに向かって放たれる。
一瞬、すべてが止まったかに見えた。
(だけど――全部、無駄だったのか?)
瞼を下ろす。その瞬間。
誰かが遠くで、自分を呼んだ気がした。
か細く、今にも消えそうな声で。
迎えに来て、と泣いている。
彼女の泣き声が聞こえた。
彼女の。
(まだ何か、できることが!)
強風に今にも消え入りかけた灯火は、以前に増して強く燃え立ち、煌々と光り輝く。
デュランは自分を包もうとする光の中で、何かを強く握りしめている自分に気がついた。
それを迷わず咥え込み、魂を込めてありったけ吹き込んだ。
《――よ、色男。久しぶりにちょっと飛ばしてく?》
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