居候 靴と廊下と朝ご飯
デュランに手を引かれたシュナは、おっかなびっくり部屋を出た。
彼女が今集中しているのは足下だ。更に言ってしまうなら、慣れない靴にちょっと苦戦している。
(そうか、普通の人達はいつも外を歩いているし、お部屋の中……お部屋というか、建物の中でも靴を履くのが普通だわ。少し考えれば当たり前のことだったけれど……なんてこと!)
確かに塔の中で育ったシュナも、さすがに裸足でペタペタ室内を移動していたわけではない。しかし彼女が最も多く使っていたのは、踵がなく足の先だけを覆うタイプだった。ヒールがついてきゅっと足全体を包む靴も――例えばそう、お誕生日のドレスを着たときだとかに経験がないわけではなかったが、ほとんど一瞬で普段用には履いていなかった。
(ずっとこのままだと、踵が痛くなりそう……! 世の中の女の人達って皆毎日こうしているの? 皆すごいのね……!)
なんて神妙に感心もしてしまう。
デュランが優しく支えてくれるのと、床に柔らかな敷物があるおかげで歩く方の心配はすぐになくなった。すると彼女の興味はあっという間に周囲に移り、きょろきょろ辺りを見回しながら廊下を進んでいく。
(すごい……廊下が長い! 扉がいっぱい! 窓もたくさん! 広くて明るいわ! お城の中……わたくし、今昔読んでいた絵本の中にいるのね!)
お城。王様と女王様と王子様とお姫様のいる場所。素敵なおとぎ話の舞台。広いと言えば迷宮の中もそうだったが、ここにはあの場所には決定的にないもの――憧れ続けていた太陽の光が降り注ぎ、まぶしさに目を瞬かせつつも高鳴る動悸を抑えきれない。
デュランに手を引かれていなければそのまま走り出していってしまったかもしれないシュナだが、ふと歩いている内に思い当たることがある。
(そういえば……わたくし、今まであまり気にしていなかったけれど……確かリーデレット様が、デュランのことを侯爵と呼んでいたような……侯爵様って、貴族様よね? デュランは貴族なの? 竜騎士だとは名乗っていたけれど)
シュナが知っている貴族とは、国を治める王の周りにいる高貴な方々だ。王を支える臣下のような貴族もいれば、王同然に自分の領地を持ち力を持つ貴族もいるとあったはず。
(確かこのお城……今までのデュランや周りの人達の態度からして、デュランのお家……なのよね……? こんなに広いお家があるって……あまり意識していなかったけれど、もしかしてデュランって、わたくしが思っていたのよりもずっと、偉い人なんじゃないかしら……?)
なんてこっそりもじもじ竜騎士と名乗っていた青年の顔を窺ってみるが、いざあちらに視線を返されると慌てて目をそらしてしまう。
たとえ言葉が話せたとしても、ではいざ正面から正攻法で「デュランってとっても偉いの?」なんて聞くのも……なんかこう、駄目な気がする。本当に偉い人だった場合そんな質問をしたこちらに向こうがどれほど幻滅するかわからないし、実はそうでもなかったとしたら、それはそれで相手が答えに困るだろう。
いや、無知なシュナでもわかる。この期に及んで実はそうでもありませんなんて選択肢はない。どう考えてもデュランは貴族だし――たぶんあれだ、しかも跡継ぎとかその辺の立場の人だ。
(わ、わたくし、どうすればいいのかしら……というか仮にもし、いえ仮にというか冷静に今までのことを思い出してみればほぼ確実にデュランは次のこのお城のご主人様ということになるはずだけれど……そんな人が、あんな風に迷宮に潜っていてよかったものなのかしら?)
昔見た絵本には冒険譚もあったし、高貴な方が旅に出る物語も存在した。が、なんというかデュランのそれは彼らとまた違うと言うか、シュナの記憶が正しければ一人息子と言われていたはずで、それがあんなシュナの眠っていた所のような迷宮の奥深くまで日常的に潜っているとなると、ご家族の心労もすごそうというか、シュナがそうならものすごく心配するというか……。
(竜のシュナには、早く戻ってくるなんて言っていたけど……)
この人本当に大丈夫なんだろうか、の要素がまた一つ増えたところで、またも変化が訪れた。
人がいる。メイドのコレットと同じような服装の女性達に、男性もいるようだ。デュラン達がやってくると、皆が一斉に頭を下げる。
シュナが思わず立ち止まり、デュランに引かれていない方の手でドレスの裾をつまんで軽くお辞儀を返すと、驚きざわめく気配が伝わってきた。
「まあ……!」
「あたしたちに返して下さったわ!」
「お綺麗な方ねえ……」
頬を紅潮させたメイド達が囁き交わしているのを、えへんと年かさの人が咳払いでたしなめた。
(……いけなかったかしら?)
デュランを不安な顔で振り返ったシュナは、彼が目を丸くしている様子を目に入れてしまう。が、すぐに騎士は優しい笑みを浮かべ、周囲の人達に開けられた扉の中に彼女を導く。ひとまず自分が失敗をしたわけではないらしいと思って、シュナはほっと胸をなで下ろした。
中には広いテーブルとたくさんの椅子、それに食器が並べられている。
食事をするところなのだというのはわかったが、その部屋の広さにもまたシュナは目を丸くしていた。
デュランがどうやらシュナが座るための席まで案内し、座らせてくれる。
もしかしてそのまま一人取り残されるのかと一瞬しゅんとなったシュナだが、彼は机を回り込んで正面の椅子に腰を下ろした。
自分の後を追いかける視線が明らかに動揺と安堵で揺れたのを見つけたのだろうか、彼は少しだけ困ったように眉を下げ、それから穏やかに言った。
「……置いていったりしないよ、トゥラ」
パッとシュナが笑顔を見せてニコニコしていると、彼はなんだか妙な咳をしている。すぐに控えていた人達が動いて食卓に料理が運ばれてきたので、合図だったのかもしれない。
シュナはずらずらと何皿も並べられた料理と、その周りと取り囲むカトラリーの群れを見回して、再びデュランをこっそりうかがい見る。
(多い……こんな何皿も、きっと食べきれないわ……!)
(そもそもわたくしが食べても大丈夫かしら……? 紅茶は大丈夫だったけれど……)
(そもそも食べるとしても、この後どうすればいいの……?)
なんとなく、素手は基本的に使わず、カトラリーを使って食事をすればいいというのはわかる。何なら父親とおままごとなるごっこ遊びに興じたこともある。
――が。実際いきなりさあやってみろと言われるとなかなか難題だった。
(ええと、ええと! 確かこういう場合、一番外側から取っていくのがマナーだったはず……!)
「女神イシュリタスに感謝を」
脳内の知識と記憶を総動員しようとしていた彼女だが、デュランが一言言って手を組んでいるので、慌てて真似をする。
(そうか、食事の前のお祈り。ここでは迷宮の女神様にお祈りを捧げるのね)
そういえばシュナの父親は、祈りの形に手を合わせてはいたが、何も言わずじっと目を閉じているだけだったろうか。おっかなびっくりデュランを盗み見して同じことをしようとしていると、目が合ってまたぴゃっと鳴く。
「さあ、遠慮なく食べて。マナーとかもそこまで気にする必要はないから。……トゥラ?」
促しつつ早速自分の分に取りかかろうとしたデュランが、色々躊躇を隠しきれないシュナ――ではなく、彼にとってはトゥラ――を見て、そっと手を動かした。
無言で何か始めた彼に、もしかして無知さをがっかりされてしまったのだろうかとおろおろしていたシュナだが、時折手を止めては温かい眼差しでこちらを見ている彼の動きに、間もなくお手本を見せてくれているのだと気がついた。
いそいそと見よう見まねをしてみると、彼は備えてあったナプキンで手を軽く拭き、それからフォークとナイフを手に取ってゆっくりと動かす。
(ああやって動かして、切り分けるのね……)
シュナがぎこちなくも同じことをすると、彼は野菜――たぶん、緑色が多いから、野菜……?――をフォークで口に運び、ぱっくりと食べて咀嚼してから飲み込む。
「……うん、大丈夫。美味しいし、毒も入ってないみたいだよ」
おどけたように軽く言って見せた彼に、シュナは頬を赤らめ、俯いていそいそと後に続いた。
(毒なんて……そんなこと思っていなかったのに……でも、気遣ってもらえたのは嬉しい……)
すぐに彼女の興味は、歯で噛みしめる感覚と、口の中に広がる味覚に移る。
(……!?!?!?)
「あれ、トゥラ……口に合わなかった?」
たぶんものすごい顔をしていたのだろう。心配そうに言ってきたデュランに、ぶんぶん力強く左右に首を振って否定の意思を示す。
彼女の頭の中は、未知の体験――味と言葉と意味を連結させるのに忙しい。
(野菜。おいしい。しゃきしゃき。ふわふわ。甘い? しょっぱい。すっぱい! ……苦い! 苦いのはおいしくない……)
あっという間に食べ物に夢中になり、口の中に食べ物を運んで目と頬を丸くしながら次々と表情を変える。
向かいのデュランがまた少し驚いた顔をした後、ふっと笑いの声を漏らした。騎士はそのまま自分も食事を再開したが、合間に時折手を止めてはなんとも柔らかい表情で彼女を見つめている。トゥラの方がその視線に気がつくことはなかった。
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