無能 立ち尽くす
ニルヴァは何か言おうとしたらしいが、薄く開いた唇からその後音が続かない。
黙り込んだままの彼女が、背中を向けてその場を立ち去ることすらできずにいれば、やがて亜人の方がわざとらしく肩をすくめた。
「しょうがないなあ。僕は親切だから、覚えてないならもう一回教えてあげる」
両手を合わせ、足を組む。少々キザったらしいポーズだったが、そんな何気ない仕草で威圧感を与えるように見えるのだから不思議だ。
「トゥラちゃんを連れてきて。そうしたら、パパと会わせてあげる。要求は結構シンプルだ。いくつかお膳立てもしてあげた」
二人の様子を窺っていたシュナは、きょとんと目を丸くした。聞き取った音の意味を変換できた瞬間、全身の血がざざっと引いていく。
何気なく、まるで世間話のように語られた言葉だが、聞き捨てならない内容ばかりではないか。
男の狙いがトゥラだったこと。
そのために、ニルヴァが脅されているらしいこと。
さらに、彼女の唯一の肉親、ジャグ=ラングリースも現在危険な目に遭っているかもしれないこと。
(そんな……そんな、こと)
だが、それをわかっても動けない。
だって、わからないことが多すぎる。一番解せないのは、心当たりがないことだ。
愛するのも、憎むのも、それだけ強く深い関わりがあればこそ。
赤の他人にいきなり強い感情を向けられれば、感情に対する感想よりも先に人間が得る気持ちはただ疑問である。
シュナとしてもトゥラとしても、亜人と無関係ではない。だが、最初からあちらが奇妙に絡んできているのであって、こちらの方から何かアプローチをかけた記憶はない。
そもそもどうしてあちらから関わってこようとしているのかだって、わからないままなのに。
「ところが君と来たら、ちゃんと接触できたと思ったら逃げだして、もう一度チャンスをあげたら、今度は手前で捕まる! まあ、一回目はお目付役がくっついてたからまだわかるんだけどさ。二回目も、ああ、人目がたくさんあったから? じゃあ今度は誰もいない状況をお膳立てしてあげなくちゃいけないのかな」
雷に打たれたかのように立ち尽くしていれば、男はさらに話を続けていた。
「二度あることは三度。ねえ、ニルヴァちゃん。君、やる気あるの? 死にたいの? 失態だらけで尻尾巻いて帰ってきて、どう言い訳してくれるつもりなのかな? それともああ、実はそんなにパパのこと好きじゃなかった?」
少女の顔はずっと白い。僅かに震える自分の身体を宥めようとするように、あるいは己の中の勇気の灯火をありったけかき集めようとするように、両手を組んでぎゅっと手に力を入れている。
「……随分、詳しく知ってるんだね。今日、さっき起こったことまで」
ようやく絞り出すように出てきた声は、シュナの知っている彼女のそれより随分と低くかすれていた。元々大声で話すタイプでもなかったろうが、無理矢理発声しているような音が痛々しい。
「言ったはずだよ、僕の耳はよく聞こえる。ああ、安心して? ドヘマは踏んだけど自白を踏みとどまったのも知ってるから、ジャグだってまだ生きてるよ。君が喋ったら鮫の餌だったけど」
「……あたし、ここに言い訳をしに来たんじゃ、ない」
「ん?」
「終わりにしよう。殺すなら、あたしにして」
(ニルヴァ!?)
シュナは悲鳴を上げたが、二人には聞こえない――いや、むしろ聞こえてはいけない。
それまで世間話をするように軽く、台本でも読んでいるかのように淀みなく言葉を紡いでいた亜人が、初めて虚を突かれたようだった。驚きに目を開けて、それから眉を顰め、首を捻る。
「んんん? 話がつながらないな。つか、なーんでそうなるかなあ」
「あんたは、人を殺したいんでしょ。殺すのが……ううん、いたぶるのが好きなんだ。あたしにすればいい。……きっとほどほどには満足できると思う。痛いのも苦しいのも、苦手だから、大騒ぎする。だから、それであんたを満たすから、父さんは解放して」
つまりニルヴァは、どうやらどこかに捕らえられている父親の代わりに、自分を殺せと言っている。
聞いているシュナの頭がかっと熱くなった。
(そんなこと……)
一方、亜人は一瞬何か考え込むかのように黙った後、少女の決死の覚悟を鼻で笑った。
「お前さん、絶望的なまでに頭悪いねえ。生きるのに向いてないんじゃない?」
(あなた、よくも――!)
「でも、そんなこと、とっくにわかっていたはずでしょ!」
シュナが思わず言い返す言葉を思いつく前に、少女が絶叫した。
俯いて、足下に落としていた視線を上げる。相変わらず真っ白な顔だが、目だけは異様な輝きを放っていた。
「運動ができるわけでもない、術士の適性もない、竜にも乗れない、勉強だって一番じゃない、元の頭の出来だってわかってる、会話だって上手じゃない。コネも、高貴な血筋も、恵まれた容姿も、財産も、これはあたしにしかできないって才能も、何一つない。あまり病気をしない、誠実で努力家なのは人一倍――でもそれも、他に何一つできることなんてないから、無能なりに自分は人並みですって証明がしたいだけ。そんなの――そんなのあたしが一番よくわかってる、誰かにわざわざ言われなくても!」
――血を吐くような言葉だった。
そしてそれは、誰よりもその場でこっそり事態を見守っていたシュナに突き刺さった。
何もできないシュナ。そう思っていた。
それでもとても恵まれている。自覚はあった。
本当に? わかっていた。つもり。一体何を?
(今も、昔も、わたくしは。塔の中、迷宮の中、お城の中――大事にされて、守られて)
ままならぬことの中で、精一杯、懸命にやってきたつもりだった。
だが、それならば今なぜ、自分は無力な少女の身を削るような叫びを、ただ聞いていることしかできないのだろう。
助けを呼ぶ? そのためにはこの状況から一度目を離さなければいけない。それが怖い。そうだ。
とっくの昔に事態は自分がどうにかできる段階を越えているけれど、今この場からいなくなっている間に、全てが終わってしまう――その予感もまた、恐ろしくて。
躊躇というよりは、思考の停止。
娘が何もできずにいる間に、けれど渦中の小娘は、愚かにも目の前の男に立ち向かっていた。
震える両足はまだ、折れていない。彼女はゆっくり息を吸った。
「でも、だから。そんなあたしが、父さんのことで脅されて追い詰められたところで、成功なんかするはずないって……特級冒険者様にわからないはずも、ないよね」
「本当にお前、絶望的なまでに生きるのに向いてないよ」
亜人が笑った。
この男はずっと微笑を浮かべているが、先ほどまでとまた異なる笑みだった。
ぞわり、とシュナは自分の肌が粟立つのを感じる。
男はふらつかせていた足を止め、高い椅子から飛び降りる。
振動に、ニルヴァの顔色がまた一段と悪くなった気がする。
少女は逃げない。逃げられない。
おそらくただ怒りだけが彼女を動かす力になっていて、それが尽きた瞬間、腰が砕けてしまうのだろう。
軽く埃を払い、掌を見つめてから、亜人はゆっくり、歩き出す。
「ニルヴァちゃんはさあ。そもそも、なんで僕はあの子に拘ってるんだと思う? ああ、あの子ってのはもちろん、トゥラちゃんのことね。今回の本当の標的」
唐突に自分の話題になって、シュナはびくっと身体がはねたのを感じた。
疑問の答えを、まさに本人が答えようとしている。
(でも……なんだろう、この、いやな感じは)
初めて会った時から、この亜人にはどうにも好意を抱けなかった。
ずっと警鐘が頭の片隅で響いている。
危険なのはわかる。
でも、危ないことがわかっても、ではどうやってそれを排除すればいいのか、逃げればいいのか、それとも――。
「……閣下が大事にしている方、だから」
「もちろん、それも一つ。でもそれだけじゃないんだよ。それだけなら、それこそ別に今までいっぱいいた誰かの一人で構わなかった」
ああそういえば、この男は足音を立てないのだ。彼が黙っている間、耳に痛いほどの静寂が、ふとそんなどうでもいいことを思い出させる。
「あの子、どこから来たか知ってる? 拾ってきた、ってデュランは言ってる。その通り、森で奴が拾った。じゃ、その前はどこにいたと思う?」
聞いてはいけない。
聞かなくてはいけない。
シュナの中で、相反する衝動がせめぎ合っていた。
男は歩き続け、少女の横にまでやってきた。
ちらりと不安そうに一瞥した彼女だが、それからも歩いて行く男に向き直ろうとはせず、足下に目を落とす。
「答え合わせ。その通り。おバカなニルヴァちゃんの言う通り。僕が本当に効率を重視するなら、これほど悪趣味で下手な悪手はない。お前にもかわいそうなジャグにも、わざわざこうやって手伝ってもらう必要なんか、これっぽっちもないの。だってお前らぶっちゃけ足手まといだもん。人質って管理クッソめんどくさいし、ここまで派手したらさすがに気取られる。相方さんにもこのあと締められちゃうカモ、まあお前は最後に料理してやるから座っとけって扱われ方してる気もするけど」
楽しくてたまらない、という様子で亜人は喋り続けていた。大げさに身振り手振りをして、それなのにやっぱり足音がない。
埃は痕跡を残すのに、存在感は圧倒的なのに、ただ物音だけがほとんどしない。
ちぐはぐな組み合わせが、思考回路をどんどん圧迫する。
「じゃ、なーんでザシャおにーさんは、わざわざそんな無駄ーな手間暇かけて、こんなことしてるんだと思います? 健気に暗躍して、交渉して、柄にもなく信心深くすらなってみて――知りたかったんでしょ? 教えてあげるよ? 理由はね、」
くるりと男が、片足を軸に優雅な弧を描いた。
回転し、向き直るのは、うなだれる少女の背中――その、首筋。
「これが一番、面白くなるからだよ!」
いつの間にか振りかぶられた刃物がギラリと光を放ち、一直線に振り下ろされた。
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