破滅の引き金
こんなものを見せられて――正確に言えば、勝手に見えていたのは自分の方なのだけど――それでも、黙っていることなんて、見過ごすことなんて、できるはずがなかった。
衝動のまま、シュナは手を突き出した。
浮遊感。身体が一瞬だけ軽く浮き、次の瞬間再び現実に戻る。
意識に身体を追いつかせる――別の言葉で表すなら、予備動作なしの転移だ。
飛び込む勢いのまま少女に体当たりし、突き飛ばす。
背後でビュンと空を切る物騒な音。
振り向きざま、シュナは両手を突き出し、大きく息を吸う。
(竜の時に――ブレスを吹き出すのと、同じように!)
掌から圧を放つイメージを念じれば、果たしてそこから大きな風が巻き上がり、男を飲み込んで吹き飛ばす。
だが、こんなことぐらいであの亜人を行動不能にできるとは思えない。
これはただの不意打ちによる時間稼ぎに過ぎない、それはシュナにもわかっている。
彼女の目的は、亜人を倒すことではない。この場から少女を逃がすことだ。そのために飛び込んできた。
「立って! 走って!」
少女に向かって叫ぶ。声は淀みなく、かつて自分のことを人間の一人と思い込んで生活していたときと寸分違わぬ調子で放たれた。
しかし、シュナの介入によって最も混乱したのは、庇われた少女の方である。
呼びかけられても何が起こったか理解できないようで、突き飛ばされたときに床に投げ出された格好のまま、呆然と突如現れた闖入者を見上げている。
ある程度力を使えるようになった今なら、多少は亜人を押さえていられるだろうか。
(……だめ、ニルヴァが動けないなら、連れて行くしかない!)
自分だけの転移なら確実に成功させられるようになっている。
誰かを連れて行くのはこれが初めてになるが、竜達にかつてシュナ自身が転移させられたこともあるし、不可能ではないはずだ。
ニルヴァの手に飛びついて、迷宮を思い浮かべようとした、その瞬間。
「ニールヴァ。パパはどうなるの?」
謳うような男の声がした。
すると弾かれたように、少女は両手を突っ張ってシュナを突き飛ばす。
(――しまった、そうだ、お父様の方も!)
この場の少女の安全だけに気が向いていたが、そもそも彼女は父親のことで亜人に脅されていた。揺すられたら、逃げられないのは当然だ。
だが、シュナならばきっと居場所の探知も可能である。
場所はわからずとも、幸い相手が接触したことのある人間だ。
個体データを検索して、位置を特定――迷宮領は全て知っているわけではないが、地図なら見たし、出歩いた場所もある。全く知らない場所で知らない人間を探そうとするよりは、遙かに高い成功率が見込める。
(場所が割り出されば、遠隔でも安全を確保することが可能なはず――)
心臓が、胸を内側から食い破らんばかりに高鳴っていた。全身が熱い。しかし思考する部分は冷えている。
彼女の頭が、探知を始めながら目の前の脅威への対処を計算しようとする、その刹那。
「ハアイ、トゥラちゃん」
風を起こしたせいで、土埃が激しく舞っており、ただでさえ夜の闇の中にあって、視界がとても悪い。照明も、シュナが飛び込んだ際に消えてしまっているようだ。
暗闇の中から、男の声が響く。ニルヴァを背にそちらを睨み付けるシュナに向かって、甘くざらりと耳に残る声が届けられる。
「完璧だよ。タイミングばっちり。正直ここで来てくれるかは完全に賭け、ぶっちゃけ勝算めちゃくちゃ低かったんだけどね? プランBの方が確実だったんですけどね? ここまでうまく行くとは、いやはや、自分の才能と運が怖い、怖い。君が適度にルールを破る優等生で、本当に助かった。感謝するよ?」
この男の言葉は、いつも虚を突く。
最初何を言っているのか理解できない。
否、理解したくないと本能が拒絶するのだ。
だって、それは。
今の言葉の意味は。
(まるでわたくしがこうやって飛び込んでくることを、わかっていた、ような――)
本人にすら想像できなかったことを、まるで元から知っていたことのように、流暢に。
ヒュン、とまた空を切る音がした。
次いで、パリン、と何か固い物が割れる音。
状況がわかったのは、飛来物や本人の踏み込みを警戒して構えるように広げていた両腕ごと、ぐるぐると胴に巻き付いた物に引っ張られ、身体が宙を浮いた瞬間だった。
鞭だ。
亜人が最も愛用する武器。
こしらえられていた防壁をあっさりと突き破り、獲物を絡め取ったそれは蛇のようにうねり、しなる。
(しまっ――)
――防壁を。
破られる可能性を、考慮しなかったわけではない。
シュナの状態でも、基本的に彼女を守るのはお供の竜達の仕事だ。
本人はさほど、防御の展開とやらの実践に慣れていない。
だが、それでも直撃する前に身代わりになってくれる不可視の盾があれば、多少の時間が稼げる。
その間に、逃げる算段を――。
そんな小賢しい手を、あざ笑うかのように、あまりにもあっけなく、特級冒険者は儚い抵抗を踏みにじる。
だが、シュナにはまだ手がある。
ふわりと浮かんだ身体が落下する寸前――何をされるのか予測できたのと同時、咄嗟に転移を試みる。
――が。
【エラー。接続に失敗しました。空間跳躍は不可能です】
返ってきた手応えは、あまりに無情だった。
かろうじてもう一度不可視の壁を出現させることはできた。しかし、急ごしらえの防御は容易に打ち破られ、叩き付けられた身体の衝撃で息が止まる。
「トゥラさん!」
硬直していた少女が悲鳴を上げているが、シュナは応じられない。
痛い。
痛い痛い痛い痛い痛い。
苦しい。気持ち悪い。吐きそうだ。動くことができない。息ってどうすればよかった?
「やっべ、つい。大丈夫? 生きてる? ああ、案外平気そうだね。ちょうどいい感じに沈められたのかな。さっすが僕、超優秀ー」
びくびくと身体を痙攣させたまま、倒れ伏していることしかできない彼女の傍ら、歩み寄ってきた男がしゃがんで、のぞき込む。
「で? のぞき見っ子ちゃんは、どっから聞いてたの? まあ僕の勘だとニルヴァがここに入ってきてからだけど、様子がおかしかったから尾行でもしてたのかな。でも、もっと何もできないくせに正義感だけは人一倍状態で来るかと思ったら、案外やるじゃん? 保険をかけておいてよかった。あの辺ちょっぴり想定外で、思わず割とがっつり応戦しちゃったよ。まあ最悪死んでも蘇生させますけどね、そう簡単には逝かないと思ってるけど」
せり上がってくる不快感すら凍り付く。
シュナは霞む視界の中で、唖然と目の前の亜人を見上げた。
何なのだ、この男は。
余りにも彼女の常識を飛び越えている。
何より、なぜ。
「ああでも、そうでもないのか、だって」
男は倒れ伏す彼女の顔に無造作に手を伸ばすと、前髪を掴み上げて強引に顔を上げさせる。
「君の本当の名前はシュナ、だもんな?」
視界にばらばらと広がるのは相変わらず黒だ。つまり、黒い髪。トゥラの色。
今この場でシュナ本来の姿に戻ってしまったということはなさそうだ。
だのに男の金色の瞳は、確信を持って犠牲者を射貫いている。
――なんで。
どうして。
一番大事な人に打ち明けてすら、たどり着かれることのなかった真実に、こうも易々と、全然、知らない人が。
「さてと。とは言え、さすがに騒ぎすぎた。趣味の遊びはここまでにしておこうかな」
亜人が片手を一振りすれば、そこから伸びていた鞭がシュルシュルと音を鳴らしながら戻っていく。
解放されたシュナの身体は動けない。頭の方も、情報過多でうまく回ってくれていない。
――ただ。
「それじゃあ、ニルヴァ。せっかくだから、最後にもう一つだけ、役に立って終わろうか」
にっこりと笑んで立ち上がった男の視線の先。再び彼が鋭利に光る刃を取り出した。暗闇の中でもよく見えるのは、差し込む月明かりのせいか、シュナの目が暗がりに適応して状況を認識しているのか。
少女は相変わらず動けないでいる。無理もない。そもそも暗くて見えていないのかもしれないし、父の単語を出されれば動けなくなる気持ちはよく理解できる。
そう。
誰も他にいない。父だけが家族の無力な少女。
他人事とは思えなかった。
一方的にこちらが興味を示しているだけ。かもしれない。だとしても。
彼女だけは。
他の全てに失敗しても、せめて彼女だけは。
昔、何もできない中で、誰か、誰か助けてほしいと叫んだ自分と同じ、彼女だけは。
せめて守らねばと、強く思考に焼き付いて。
(知っている。父を失った娘がどんなに辛かったか。娘と引き離された父が、どれほど悔しかったか)
自分の目の前で、同じ事など絶対に繰り返させない。
だから。
気力を振り絞って、手を伸ばす。
男がもう一度刃を向けるより、少女の姿が消える方が――シュナが彼女を強制的に転移させる方が、早い。
(行き先、ちゃんと、選べない、けど)
あの子を安全な場所へ、と願った。
それがきちんと、叶えられていることを願ってから、限界を迎えたシュナの意識はぶっつりと切れて闇に飲み込まれた。
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