姫 怯える
術士、というものについてシュナは詳しく知っているわけではないが、魔法使いと類似するような意味だろうと解釈してよさそうだった。
自らの体内から見えざる力を引き出し、変換し、外部世界に働きかけて奇跡を起こす。そういう才能を持つ人々だ。元々の素養に加え、知識を得て修練することが必要。誰しもなれる職業ではない。
ユディスが杖をとんとつくと、そこに光り輝く幾何学模様の入った円陣が浮かぶ。
(魔法陣、だわ! 初めて見た!)
シュナが目を輝かせる一方、ユディスに促されて男達は下がった。円陣の中にはユディスとシュナだけが取り残される。中央にシュナを誘って座らせると、術士は何事か口の中で唱えながらシュナの周りを回り始めた。
時折色を変える光や歩くユディスにそわそわするシュナだが、ふと目をやった先、外で彼女よりよっぽど落ち着きのないデュランの様子が視界に入ると……なんかこう、力が抜けた。
「プルシ、こちらに。手伝って下さいませんか」
ユディスは数度シュナの周りを巡ってから、一度足を止めて弟子と紹介した少年を呼んだ。
彼は素早く円陣に入ってきて、師と同じようにシュナの周りを回る。袖をまくったのはやる気の表れだろう。どうやら彼は師に従う自分を、そして師に声をかけられることを喜んでいるらしい。そういう印象をシュナは受ける。
少年は最初熱意の籠もった真剣な顔でじっと娘を見つめていたが、やがてそこに困惑の色が混じり、最後には何とも言えない、苦虫をかみつぶす一歩手前、とでも表現しようか、そんな顔になった。彼は初めとは一転して意気消沈した様子で、師の方を振り返る。
「カルディ……」
「何か見えましたか?」
「いえ、その……」
「……なるほど。結構です。助かりました」
ユディスの方は顔色が変わらないので全く考えていることが読めない。ただ、眉の辺りに少々力が入っている様子からして、何かしら芳しくないことが予測できた。難しい顔をしている二人の気配に、シュナも、デュランも緊張の面持ちが解けない。
最後にユディスは正面にやってきて膝をつき、じっとシュナの目を覗き込んだ。
まるでシュナの奥深くまで暴いてしまおうとするような視線の強さに、ぞわ、とシュナの首筋が粟立った。
(やっぱり、この人、どこかで……)
「もういいだろう。何かわかったことは?」
シュナが何とも言えない不快感で及び腰になったのと、デュランが声をかけたのはほぼ同時だ。
ユディスはすっと身体を引く。すると床の円陣も消え、急に部屋の中が暗くなったような錯覚を覚えた。
デュランが大股で歩み寄ってきてシュナの後ろに位置取るのと同時に、ユディスは重たげな口を開いた。
「そうですね……一つだけ、わかったことがあります」
「……それは?」
「この呪式は我々には理解できず、また解くことも不可能ということです」
枢機卿の肩書きを持ち、最高の術士と呼ばれる女は淡々と、しかしきっぱりとそう言った。
デュランは言葉を失ったようだった。シュナもどう反応したらいいのかわからない。こっそり部屋の中に目を彷徨わせると、ユディスの弟子も戸惑いの表情で師を見守っていた。
「……聞き間違えていたかもしれない。俺は今、あなたが……トゥラにかけられている呪いが、解除できないどころか、そもそも分析も不可能だと、そうあなたが言ったように聞こえた」
「その通りです。
デュランが少しの沈黙の後、静かに口を開いたユディスはやはり、この場の誰よりも落ち着き払っていた。感情というものと縁の薄そうな女性だ。傍らの弟子と言えば、師に褒められた瞬間、しゅんとうなだれていた顔をぱっと上げて嬉しそうになり、直後そんな自分に恥を覚えたかのように、顔を赤くしたまま俯いているのに。
「それはつまり……どういうことなんだ? すまない、俺も呪いの類についてはそこまで詳しいわけではないから、ええと……」
「臣に読み取れぬ人の業は存在しないと自負しております。けれど彼女を縛る術式は、同時に彼女を守る盾にも思えます。影が覆い隠して、見えないのです。深い所が」
困惑するのみだったシュナの心臓がどきりと跳ねた。彼女が身体をより一層硬くするのと同時に、ユディスの目がひたりとこちらを見据えた。
「無垢なる子鹿よ。貴方には美しい魂が宿っている。只人には思えぬほどの輝きです。貴方の手足は華奢ですが、やがて鋭き爪を有し、また誰よりも遠くまで疾く駆ける翼となりましょう。貴方の目は知性と勇敢を宿し、やがて額には雄々しき角が芽吹くでしょう」
ぞわぞわとシュナの身体のあちらこちらが不快感を訴えている。
「けれどなぜでしょう? 貴方には影があります。その影が、あなたの正しい姿を、輪郭を隠しているのです。無数の闇に誘う手が――」
――これ以上喋らせてはいけない。シュナは直感する。
角を持ち、爪を持ち、翼を持つ生き物――当代最高の術士の名は伊達ではない。わからないと言いながら彼女は、シュナの正体をほとんど言い当てかけているではないか!
シュナの感情が高ぶるのに呼応して、身体の内側で何かがぶわりと大きく膨れ上がり――シュナの胸を突き破って外に勢いよく飛び出した。
室内に轟音が響き渡り、揺れる。
「トゥラ!」
「カルディ!」
「お下がりプルシ――閣下、貴方もです!」
気がついたとき、シュナは漆黒の鎧をまとった青年にぎゅっと抱きかかえられていた。
震えながら見回すと、シュナを中心に何か衝撃波のような物が広がったようで、家具は倒れたり壊れたり、酷い有様だ。まるで部屋の中に嵐でも起きたかのよう。
ユディスは輝く杖を掲げ、もう片方の手で弟子を庇うように立っていた。何かの術を作動させたのだろう、家具達の惨状に比べて無傷である。少年、ルファタの方は両手で目の前に杖をつき出し、驚愕の目でシュナを見つめている。
シュナの中でまた不安と脅威の排除の衝動が暴れそうになるが、ぎゅっと抱きしめたデュランの低く優しい声がふと耳に入ってきた。
「トゥラ、大丈夫だ。大丈夫、怖いことなんてないよ……」
彼の声はいつでもとても落ち着く。繰り返されているうちに、シュナの中の凶暴な感情は引っ込んでいって、後には怯えて震える娘のみが取り残された。
「ほら、トゥラ……泣かないで。どこか怪我した? 見せてみて……うん、大丈夫。大丈夫だよ、ほら。ね……?」
ぽろぽろこぼれ落ちる涙を拭い、彼女の頭を優しく撫でるデュランがきっと睨みつけると、ユディス=レフォリア=カルディは――わずかな静寂の後、膝をついて頭を垂れた。どの国でも共通であろう、謝罪の姿勢だ。
確か彼女は事前にかなり偉い人と聞かされていた人物だったはず、それがここまであっさり頭を下げたことにシュナは驚く。デュランの方も同じらしく、何事か言おうと開いた口はそのままぽかんと放置された。
「カルディ!?」
「失礼致しました。臣が軽率だった。踏み込みすぎたようです」
弟子の方はオロオロしてから、デュランの方をにらみ返す。彼を庇っていた手を今度は押しとどめるような形にしたユディスは、頭を下げたまま続けた。
「
ユディスの鋭い瞳からシュナを庇うように、デュランは腕の力を強めた。衝撃波が放たれた際、真っ先に娘に向かって走り、今もなお迷いなく彼女を守り続ける若者に瞬き一つない目を向けたまま、術士は固く問いかける。
「若き獅子よ。この方をどこから連れていらしたのです? 眠れる竜を起こしたならば、その怒りを受けるは道理というものです。貴方は近すぎて時折錯覚するようですが、かの物は彼岸の生き物、この世ならざる存在。あるべき場所に収めておかねば、宝は必ず人心を惑わし、災いを誘き寄せましょう――歴史の示す通りに」
「トゥラはファフニルカ侯爵で保護すると決めた人間だ。今更放り出すなんて、その方が無責任だろう」
竜騎士と、神聖ラグマ法国の人間達とは互いに火花を散らす勢いで見つめ合い、一歩も引かなかった。しかしそれほど経たず、騒ぎを聞きつけた屋敷の人間達が駆けつけてきたので、緊張は一度緩む。
「今回竜の尾を踏んだのは臣、責は負いましょう。けれど、呪術の専門家として忠告はしましたからね、若人よ」
ユディスは最後にそう言うと、止める間もなくあっさりと、メイド達と入れ替わるように部屋を出て行ってしまった。
部屋の惨状に声を上げるメイド達にてきぱき指示をした後、デュランはもう一度シュナの顔を覗き込み、肩をつかんでしっかりと言い含める。
「大丈夫。君がどんな困難の中にいても、見捨てたりなんかしない」
――彼の言っていることに縋ってしまえたら、楽なのだろう。
けれどその資格は自分にあるのだろうか?
自分の正体もわからず、明かせず、それどころか今回、自分でもわからないまま周囲を攻撃する存在という可能性まで出てきたのに、この親切な人の好意に甘んじるだけでいいのか?
誰かに縋り付いて抱きしめてほしいけれど。
一体誰ならそれが許されるのだろう。
シュナが視線を下げると、拭いきれなかった涙がまたぽたりと一つ床に落ちた。
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