七章:迷宮の至宝 目覚める
虜囚 予告される
痛みは消えていたが、身体が重かった。全身が石にでもなってしまったみたいだ。
何か夢や幻を見ていたような気もするが、はっきりとしない。
瞼が重たい。腫れているのだろうか? わからない。確かめられないのだ。腕が上がらない。
(ここは……)
気分は悪い。視界も思考も霞んでいる。
起きた、眠りから覚めた、とわかっても、いつまで経っても身体のスイッチが入らないままとでも言おうか。
それなのに頭の方は、シュナが身体が重い、と感じ始めてからずっと、早く立て、このまま寝過ごすと大変なことになる、とうるさく騒ぎ続けている。
もう一度手を動かそうとしたところで、無機質な金属音が響いた。次いで、ああ自分自身の問題というより、戒められているから自由が利かないのだとようやく気がついた。
(手……足も……?)
両手は背中に回っており、どうやら柱か何かに括り付けられているらしい。いや、椅子に座らされている?
ぼんやり見下ろせば、見覚えのない服を着せられた身体に、何か模様が描かれた布のような紐のような物がぐるぐる巻き付けられていた。
いや。全く知らないものだらけと思ったが、そうではないかもしれない。
服。そう、この服。身体のシルエットが出にくく、ローブに似ている。どこか似たような物を、前に──。
(……寒い)
服の事を考え込んでいる間に、足下から這い上がってくる寒気に気がついた。
ブルッと身体を震わせれば、まるで水面に広がる波紋のように空気がさざめき、それが誰かの押し殺した笑い声なのだと間もなく知覚する。
「や。元気?」
音の元を追い、頑張って顔を上げてみれば、薄暗い部屋の壁にもたれかかり、頭の上に二つ獣の耳を生やした男が微笑を浮かべていた。
暗がりに向かう少女。
卑怯な脅迫。
乱闘と、そして。
なぜこの状況になっているのか、一瞬で思い出した。
気安く手を上げる男の様子に、シュナの中に鋭い怒りが芽生える。
だが強い感情が頭によぎった瞬間、バチバチと音を立てて首元に紫電が走った。
怒りの咆哮も、驚きの悲鳴も噛ませられた金属に吸い込んでいき、ただ空気が喉を通る音だけがヒュウヒュウ虚しく響く。
冷たい金属は、無味のようでなんとも形容しがたい嫌な味がした。
男は一連の流れをひとしきり見守ってから、彼女の首元を指差す。
「それ。旧文明の遺産なんだってさ。万が一、こういうことがあった時のための保険? 骨董品みたいなもんだから雰囲気作りのアクセサリと思ってたけど、実用でも使えるとか笑えるねえ」
シュナが反抗の意思を示そうとした瞬間、罰するように電撃を放ったのは、首元に嵌められた石の輪のような物だった。寒気を感じた原因の一つでもあると、冷たく固い感触に震える。
また紫電が走った。男は声を上げて笑い出す。
「あはは、無駄無駄! 詠唱封じ、あらゆる術の制限、身体の拘束、思考能力の低下に……まあ僕、術の事はよくわかんないけど。とにかく今持てる技術を総動員して、絶対に逃げられない状態になってるんだってさ。同じことされたら、さすがの特級冒険者もいったん諦めるレベル。それに仮に万が一そこを突破できたとして、僕がそのまま見逃すと思う? 本当に思われてるんなら心外だなあ、行かせるはずないでしょお?」
ケラケラという音はやけに頭の中に籠もるようで、大層耳障りだった。
しかし、一方でよく喋る男は貴重な情報源でもある。
「でも安心して? ずっとその状態って訳じゃないし。ほんの少しの辛抱だよ?」
身体が動かないなら、せめて頭をと念じる。
考えろ。受け取った情報をまとめ、精査して行動しろ。
(ああ……そうか。音が聞こえない。いつもわたくしを案内していた、あの無機質な機械音が、全く聞こえない。だから、こんなに笑い声が大きく聞こえるのだわ)
なるほど違和感の理由の一つはこれだった。
いつもならこの辺りで「起動」だの「エラー」だの「確認中」だの、淡々と騒々しくしているはずのあれが、うんともすんとも聞こえない。
それは非常に端的に、今の彼女がまた何もできなかった小娘の頃に戻された事を示しているようだった。
だが打つ手がない、と示されても、すぐに大人しくなる気持ちにはなれない。
悔しさに歯噛みしてせめて睨み付けてやれば、余波なのか予兆なのか、小さな光がパチリと首元で爆ぜて小さな痛みをもたらす。
「カワイソーだからちょっとだけいいこと教えてあげる。君はね、この後二つの選択肢を与えられるよ。幸せな不自由か、不幸な自由か。ああ、まあ、どっちにしろ移動は制限されるけど、それは仕方ないよね? だって迷宮の至宝を野放しにするわけにはいかないもん、誰かが管理しないとねえ」
じっとりとした湿度を感じさせる目で娘を見つめる男は、壁に重心を預けたまま、時折腕を組み替えながら喋り続ける。愉快でたまらない、という様子に顔を歪めた。
「もし幸せな不自由を選ぶなら、君はほとんど苦労しない。それこそお姫様みたいに大事にしてもらえると思うよ? 敬われて、敬愛されて、宝石みたいに扱われて。ただ一点の喪失、それだけ耐えればどうってことはない。身体だってもちろん清いままさ。善に生きる――素晴らしく穏やかで誰もが退屈だ。こっちの人生を通るならね」
いまいち本調子でない思考を叱咤し、鈍く、ともすればそのまま止まってさえしまいそうなほど鈍重な回路を働かせる。
不快感と嫌悪感の中に混じる、違和感。それを慎重にたぐる。自分は今、男のどの言葉を気にかけている?
確かにこの亜人は得体が知れず、薄笑いを浮かべたままなんでもやってしまえそうな雰囲気はあったが、そういえばニルヴァと話していたときから気になることを言っていた。
――相方さんにもこのあと締められちゃうカモ――。
(そうか……協力者が、いるのね)
一つの答えは連鎖的にもう一つの違和感と回答の組み合わせを導き出す。
今、こうして言葉を交わしている間、男は部屋の隅、たぶん入り口近くの壁にもたれかかったまま、こちらに寄ってこようとしないのだ。
なんとなくだが、この男本来の性質のままシュナを嬲ろうとするなら、接触過多になるのではないかという予感がある。というか、実際に初めて会った時噛まれたぐらいなのだ。
わざわざニルヴァにあんなことをさせたのも、もしかするとその協力者の事情とやらが絡んでいるのかもしれない。
(そして、どうやらその相手は、わたくしを酷い目に遭わせることが目的ではない。でも……)
「もう一つ、不幸な自由を選ぶなら――」
少し間を置いた後、男は再び話し始めた。
拘束された囚人の注意がちゃんと自分に戻ったのを確認してから、彼はゆっくりと続ける。
「君は僕を選ぶってことになる。きっと生まれてきたことを何度も後悔するだろうね。とても綺麗なだけでは生きていけないよ? 僕は君を犯す。徹底的に。頭のてっぺんからつま先まで、産毛の先端から骨の髄まで」
甘いのに冷え切っている。そんなしゃべり方なんていうものが実在するのか、なんてどうでもいいことにふと感心を覚えた。少しかすれた声はどろりと垂れる蜜のようで、けれど口に含めば毒の味がするのだろう。
「だけど君の心は、君が望む限り綺麗なままだ。僕は僕を憎み、あるいは無関心すら発揮するかもしれない、そんな未来の哀れな君を認めよう。最後まで自分らしさを貫こうとする、心の自由を許してあげる。君が何者で、何を誰を想っていようと、気にしない。どうなっても構わないんだよ、僕が楽しいなら――」
「釈明があるなら一応は聞いておきましょうか、ワズーリ」
唐突に男の声がぶつりと切れた。
新たな声は、扉を開ける音と共に割って入る。
「やあ。謝罪? 何に対してだろう。僕、ちゃーんとトゥラちゃんをここに連れてきたよ? むしろ感謝される所じゃない?」
「それも無傷で、という約束だったはずですが」
「どうせ死んでても天下の呪術使いが直すんだから大差ねーじゃんよさあ」
傍らに現れた人物に、特に驚いた様子もなく、亜人はにこやかに話しかける。
だが、シュナの方は違った。頭の回転に制限がかけられた状況ですら、愕然とする。
亜人は一体誰と手を組んだのか。
その答えが目の前に現れても、にわかには信じがたい。
ああ、同時に着替えた服がどこで見たもので、ということはもしかするとこの場所の見当すらついてしまうのかもしれないけれど、まさか、そんな、あり得ない。
彼女はあらかじめ聞かされていなければ最初男女どちらか判別に困るような、中性的な容姿をしている。それは身体の線を隠す服装や、顎の辺りで切りそろえられた緑がかった髪が原因と思われる。
表情はいつも硬くて滅多に動かないが、笑わないわけではないのだとシュナは――いや、トゥラは知っている。
最初に会った時は少し怖くて、二度目には助けてもらった。一緒にご飯を食べたことだってある。
(それなのに、どうして――!)
ユディス=レフォリア=カルディ。
神聖ラグマ法国の枢機卿にして、当代随一の術士とたたえられる女性。
何度瞬きをしても、そこにある現実は、亜人の横に立っている人物は、変わってくれそうになかった。
新規登録で充実の読書を
- マイページ
- 読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
- 小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
- フォローしたユーザーの活動を追える
- 通知
- 小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
- 閲覧履歴
- 以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
アカウントをお持ちの方はログイン
ビューワー設定
文字サイズ
背景色
フォント
組み方向
機能をオンにすると、画面の下部をタップする度に自動的にスクロールして読み進められます。
応援すると応援コメントも書けます