迷宮 闇黒の間 前編

 飛び込んだ瞬間、全てが消え失せた。

 光も、音も、匂いも。

 かろうじて、体の感触だけが残っている。


 閉じた目を開けても映るものがない。周りに完全な闇が広がっていた。どこを向いても何も見えない。もちろん、少し前にくぐり抜けた出入り口も跡形もない。


(追いかけてもこられないし、戻ることもできない……)


 もうお互いに干渉はできないのだ、ということが感覚的に腑に落ちる。


 一瞬でも背を預けた仲間のことは、考えすぎぬことだ。彼女は身を挺してくれた。互いに助け合うことが叶わぬのなら、自分がなすべき事は、この先に進むことだ。


(とりあえず……ここも見えていないだけで、なにがしかの場所、仕掛けがあるはず。なんとかとっかかりを……)


 一面の黒の中では何も見えない。しかもどうやら、地面がない。少し前に経験することになった、空中を歩く――というか、放り出された感覚に似ている。それなのに落下するでもない。なんとも奇妙な体験だった。


(息ができる水の中って感じかな……)


 顔を庇うようにかざした腕を下ろす筋肉の動きは覚えがあるものだったが、どうにも上下の感覚がつかみきれず、いまいち立っている気がしない。腰の辺りを探ると、慣れた荷物の感触がして、そこでようやく少しだけほっとできた。


 そのまま何度か深呼吸を繰り返し、耳を澄ませるも自分以外の気配を全く感じない。


(まあ、光を出すか、音を立てるかすれば、闇に潜む魔物に発見されるリスクもあるわけだけど……)


 今度は腰ではなくもう少し上、胸の辺りに触れる。右胸の辺り、鎖骨の下辺りを強く押し込めばカチリと音がした。


 デュランはよく迷宮内で迷子になる男だ。チームで行動すればある程度慎重に進むが、彼はほとんど単独行動なので大体フラフラ適当に歩き回っている。すると突然暗闇に放り込まれるのも、これが初めてではない。


 だがこの後は初めての経験だった。簡易照明がいくら押そうと、点く様子がないのだ。もちろん迷宮突入前に、装備品の点検は済ませてある。


(このタイミングで故障? いや、どうだろう。今までの似たような状況と、何かが根本的に違う。自分が暗闇の中にいるというより、本当は周りにちゃんとあるものが、目隠しでもされて見えていない、ような……)


 いつもなら、簡易照明を手がかりに自分や周りの状態を確認して進んでいくのだが、早速出鼻をくじかれた。


 手で自分の周辺を探ってみれば、壁もない、天井もない、地面もない。歩くように足を動かしてみるが、体が進む感覚もなければ何の手応えも返ってこない。もう少し大げさに、激しくじたばたと手足を動かしても同じ事だった。


 屈伸しようと思えば膝や肘は思い通りに曲がる。だが蹴る場所が、触る場所がどこまでいっても見あたらない。手探りで思いつく限り道具を出しもしたが、いずれもすべて失敗に終わった。


(本当に、何もない場所だ……)


「誰もいないのか?」


 試しに声を張ろうとした。確かに喋ったはずだ。だが、


(うわ……目隠しの次は耳栓か)


 だんだんこの空間のことがわかってきた。闇黒とは、単純な暗闇ではなく、感覚を封じることを意味していたのだろう。


 ――闇黒の間は、女神に至る資格を得た者の前にしか現れない。ここは迷宮の他の場と明確に性質が異なると聞いています。


 ――例えば試練の間が肉体面への負荷ならば、闇黒の間は精神を追い詰めるのに特化した場所なのだそうです。


(なるほど……ユディスが言っていたのはこういうことか。今までは、とにかく魔物を倒して、奥に進めばそれでよかった。だけどここからは……どうやって次の場所に進めばいい?)


 しばし腕を組んで考え込んでいたデュランだが、大きくため息を吐き出した。


(……今、結構色々やってみて一段落したってところだ。次は何もせずにいてみようか。いや……その前に休息かな。できるだろうか?)


 さっき色々腰の荷物から出し入れしていたときに取り出した、おそらく携行食糧と思われるものを口にあてがう。


 ――が、一口食んだだけで思わず反射的に吐いてしまった。


「なんだこれ!?」


 手にした物に絶叫するが、やはり悲鳴は聞こえない。少し肌がぴりついた気がしたが、それも定かではない。


 しばし硬直した竜騎士は、恐る恐るもう一度口元に食糧を運ぶ。


 指は確かに、包装と中身であることを推測させる。だが舌に乗せた感触はおなじみのもののはずだったのに、ぱさついた粘土に噛みついた気分だった。もぐもぐと咀嚼しても、何の味もしない。ついでに鼻の辺りにぺちぺちくっつけてみても、匂いもない。


(味覚と……たぶん嗅覚もだ。そっか、プレーンにも味はあったんだな……)


 なんとか飲み込んではみるが、腹に砂でも仕込んでる気分だった。ついでに流し込むのに利用した水も、ただ液体が口から喉を通っていくだけの感覚に吐き気でも催したい気分になってくる。


(何が一番萎えるって……吐きたい気分なのに、体の方はどうやらまともな食事を食べたって感覚がしている所なんだ)


 再び吐き出した重たい息もどこかに吸われていく。

 ついでに、さっきうっかり口からリリースしてしまった携行食糧の残りを探してみたが、案の定見つけられなかった。包装を、ついでに手触りと大きさから投げても良さそうな物を見繕って同じように黒の中に放ってみるが、どこかに当たる音は聞こえず、手放せば二度と戻ってこない。


(こうなったら試しに剣を……いや、さすがにやめよう。戻ってこなかった時ショックが大きすぎて立ち直れないかもしれないし、普通にこの後の攻略で詰まるだろ、それ)


 もう何度目のため息だろう。ゆっくり頭を振った彼は、瞼を下ろした。


(仕方ない。こうなったら一回寝てやる。最悪何かあってもすぐ起きるはずだし、たとえ反応できなくても鎧が守ってくれる……はずだ。頼む。信じてるよ相棒)


 あるいは夢の中の方がまだ自由に動ける分マシだ、なんて魂胆も頭の片隅にあったのかもしれない。


 とにかく彼は寝た。三呼吸で落ちる特技を遺憾なく発揮し、そして意識は一度途切れた。


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