迷宮 闇黒の間 中編

 誰かに囁かれた気がして瞼を上げた。


 一面の黒。何も見えない。


 ここは夢の中なのだろうか。それとも現実なのだろうか。


(我々が集団で現実と思い込んでいる世界も案外ただの夢の集合知なのかもしれない……学者先生の好きそうな議題だな)


 肩をすくめた彼は、軽く腕を回してふと思う。


(考える頭と動く体があるから、なんとなくこれが「今」の「俺」であると思える。だけど……この闇の中で、一体何が本当で何が嘘なんだろう)


 両手を顔の前に持ってきた。……はずだ。そういう感覚がする。なのに何も見えない。何も聞こえない。


(触覚まで失せたら本格的にまずいな)


 だがそれも時間の問題のように思えた。

 無駄な抵抗、という言葉が頭の片隅に浮かびつつ、彼は闇の中で思いつく限り片端から行動を開始する。


 歩いてみる。しゃがんでみる。ジャンプする。転がろうとしてみる。手を伸ばす。広げる。走る。飛ぶ。構える。道具を取り出して試す。しばし考えて、片っ端から呪文っぽい物を頭に浮かべて唱えていってみたりもする。


 一つ一つ、試している間は少しは気も紛れた。だが何の変化も訪れないうちに、ぽつりぽつりと選択肢は確実に減っていき、やがて万策が尽きる。


 途方に暮れた彼は二度目のふて寝を決め込むべきか考えようとして、はっと気がついた。


 いつの間にか、手足の感覚がわからなくなっていた。



 ***



 案外とデュランは冷静だった。


 ……というより、自分の鼓動すら聞こえないので、淡々とした感情しか抱けなくなっていると言う方が正しいのかもしれない。

 なるほど確かに体感覚がなければ人は感情を変化させることができないのだ。顔から血の気が失せていく感覚だとか、高鳴る鼓動の音がなければ、自分自身が動揺しているとは感じられない。実に勉強になった。


(いや、できれば一生学びたくなかったことだけど。それにしても体を動かすことどころか、体表や筋肉すら感知できなくなったとは……いよいよ自分が本当に生きているのかもわからなくなってきたな。一応うちの領だと、死後は皆女神様のところに行って、生前の行いによって居住区を振り分けられて……)


 雑音で思考が見出された。


 眉をひそめた(と思っているが、感覚が反映されないのでちゃんと表情が動けているのかは謎だ)彼が目をこらし耳を澄ませば、誰かが笑いを押し殺して駆けていく。たぶん子供だ。


 ――人は無に耐えられない。やがて夢を求める頭が、己の内面から虚像を作り出す――。


(ああ。さっき囁かれた気がしたのは、ユディス=レフォリア=カルディの言葉を思い出していたのか。で、これがそれか)


 眠っている時ですら、生き物は外界から様々な情報を受け取っている。膨大な渦の中からごく一部、関連があり重大そうな物だけをピックアップして頭は処理をしている。


(不思議に思ったことはないかい? 周りに大勢人がいる場所で、連れの言葉だけ聞き取る。あれがまさにそう、取捨選択の瞬間だよ。逆に寝不足で集中できないと、雑音に紛れてうまく話を聞き取れなかったりするだろう? そういうときはね、うまくより分けができずに全部受け取っちゃってるから、そうなるんだ。いちいちこの世の全部にまともに取り合えるほど、私たちの頭って賢くできてないのさ)


(――これは学者先生の講義だったかな。それとも先生が言いそうな事を、俺が記憶の中から掘り起こして組み立てているのか)


 また足音だ。デュランは顔をしかめた(はずだ)。聞き間違えだと思うが、もし仮に耳も頭も正常なんだとすると、あの声には覚えがある。が、絶対に今この瞬間は聞こえない。だからあれはたぶん、いわゆる幻聴という奴だと思う。


(盲点。私たちは世界の全てを見ているわけではない。ただ世界の全てが自分には見えているはずだと、思い込んで生きているんだ。取捨選択に加えて、補っているんだよ。見せない世界を、見ていると思い込ませているんだ。わかるかい?)


(……また先生の言葉。いや、先生っぽい言葉?)


 くすくす笑いがもっと口を開けた笑いに変わった。声変わりする前の少年の声――少年だった時のデュランの声だ。


「エゼ! エゼレクス!」


 まだ背も小さな少年が、目一杯手を振って走る。すると高い音が聞こえて、碧色の体躯の竜が降りてくる。少年はその背に飛び乗り、すぐにくるくると回転しながら上空へ。風を感じて目を細めた。彼らは、彼は風になる。鮮明に思い出せる――。


(私たちの頭は日々情報の暴力に晒されている。その中で、必要な事だけを選んで意識に上げる。だけどもし、仮に情報がぱたりと消えてしまったら?

 焦らさずに答えを言ってしまおうか。あのね、作り出すんだよ。あたかもちゃんと刺激を受け取っているかのように、錯覚し始める。自動的に妄想しちゃうんだ。情報の多い世界に置かれている普段の自分を。

 別の言い方をするとそう――幻覚を見るってことさ。でも刺激がないなら、誰もそれが偽物か本物か証明できない。一体何が現実で、何が夢なんだと思う?)


 またデュランは走っている。今度は草むらの中。深森の間……いや、もっと明るい。迷宮領のどこかだろうか?


「若様!」

「未来のご領主閣下!」


 開けたところに出ると、収穫を控えた黄金色の畑の中から手が振られる。

 見慣れた顔ぶれだ。父や母もいる。今よりも若い。


(――いや、おかしいだろ。そもそもこんな広い畑、あるとしたら王国……)


 違和感を覚えればすぐに光景はかき消えて、今度は鎧を身につけた青年が大剣を振り回し、飛びかかる魔物達をなぎ払っていく。


「それがあなた?」


 不意に、背後から声をかけられた。


 それでデュランは、自分が自分の幻覚を俯瞰して見ていたらしいと気がつく。あるいは主観として思い出していたのだが、今話しかけられたことで分離した。


 ああ、何も感じられないけれど、感じないはずがない。可愛らしく澄んだ彼女の声。聞いて思う事がない、そんな事態こそあってはならない。


 ひんやりとした小さな手が、腕の辺りに添えられる。腕がある。血が流れ出す。心臓がひきわ強く自己主張した。


「それがあなた?」


 再びシュナが尋ねてきて、竜騎士はごくりと喉を鳴らした。

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