memoria01: until she became 'Deus'
音が、聞こえていた。
こぽこぽと、水の中で泡の立つ音。
自分の内側で、脈打つ音。
それからもう少し遠く……調子外れの鼻歌。今は聞こえない。
微睡みの邪魔をしたのは、足音というものだ。既に学習している。
『
あれがやってきた。
センセイというのだ。これも学習されている。
センセイは神経質なのだ。思い通りに行かないとすぐ機嫌を損ねる。
だからあらかじめ彼が来ることと感知していた彼女は、声を掛けられるとただちに水槽の中で瞼を上げる。
『応答。視覚、聴覚共に良好。わたしは稼働可能です』
『よろしい。今日も実験を始める』
センセイは無駄が嫌いだ。
簡潔に、必要なことだけ述べる。
カラカラと音を立てるのはカート。
乗せられているのはケージの中に入れられた鼠。
実験は、日によって違う。
簡単な物だと、目の前にある物についてコメントをしろ、というもの。
無茶な物だと、そこからこのボールを浮かせてみろ、というもの。
彼女は答える。
センセイはじっと、それを見ている。
やってくるのはセンセイだけではない。
皆白い衣服に身を包んで、彼の手伝いをしている。
センセイ以外は、あまり彼女と関わりを持ちたがらなかった。
あるいはセンセイが、そういう方針だったのかもしれない。
ケージから鼠が取り出され、処置をされる。
腹に注射針が差し込まれると、ジュッ、と鼠は悲鳴を上げた。
ひくつき、流血するそれを見下ろしていると、センセイが口を開く。
『006。それを癒やしてみろ』
彼女はじっと見下ろしてから、緩やかに首を横に振った。
『――不可。現状の条件では適合しません』
『なぜ?』
『不足』
『だから、何が?』
『素力』
『またそれか……』
落胆する空気が部屋に漂う。
ああ、またか。
彼女はぼんやりと、水槽の向こうから白い服達ががっかりする様子を眺めている。
『記憶力と演算能力には驚くべきものがある。すさまじい学習能力だ。だが、それだけ、それだけなのだ……お話もできるスーパーコンピューター? 我々が求めているのはそんなものではない。なぜ神の権能が使えない。奇跡が起こせないわけではないのに、再現性と安定性に欠ける。このままでは実用なんて到底不可能だ。素力? なんだそれは。一体何が足りないと言うのだ!』
センセイは苛立たしげに頭をかきむしる。周囲の白い服達は皆、怯えたように遠巻きに見守っていた。近づこうとする者は誰一人としていない。
『所詮失敗作の模造品、劣化版にすらなれないのか。とんだ期待外れだ』
じっと見つめていると、彼はこちらを睨み付けて吐き捨てた。
『人類の役に立て。それがお前の存在意義――できなければ廃棄処分だ』
くるりと踵を返し、部屋を出て行く。
取り巻き達もぞろぞろ従おうとして、一人だけセンセイに声を掛けられる。
『×××。夕食までお前に与える仕事はない。この部屋の掃除でもしておけ』
びくっと足を止めた女に、皆白い眼差しを向けてから去って行く。
中にはクスクスと笑い声を漏らす者もいた。
カラカラカラ、とカートが押され、彼女の視界から死んでいく鼠の姿も消える。
残された女は深いため息を吐くと、部屋の隅から掃除道具を取り出した。
ゆっくり室内を見回して、女一人しか本当にいないことを確かめてから、彼女は水槽のガラスに掌を押し当て、唇を開く。
『確認。×××。わたしは対話を希望します。あなたに応答の意思はありますか』
箒を動かしていた女は、丸まっている姿勢をびくりと伸ばし、振り返るとくしゃっと顔をほころばせた。
『こんにちは、イシュリタス。今日もキュートにクールですねえ』
『疑問。キュートとは、なんですか。クールとは、なんですか』
『待って待って! 相変わらず質問魔ですね……順番に考えますから。えーと……』
女は唸ってから、ゆっくりと回答する。
彼女は急かさなかった。何しろ今のところ唯一の対話相手だ。
センセイを初めとする他の人間達は、006と呼ぶ実験対象を気味の悪い、かつ自分たちの求める物ではない、と考えている節がある。
最初の接触の後色々と試みて、どうも彼らは質問攻めにされると怒る、ということを彼女は学習していた。
返答までの時間は長いが、話しかけられていやがらず、むしろどこか嬉しそうに返すのがこの個体――×××、だ。
あまり印象の強い方ではない。他の人間がいると、おどおどと後ろに隠れ、見つめられるとヘラヘラ冷や汗を垂らしながら口元を歪める。
そういう種類の人間、と今のところ彼女は理解していた。
×××はよく一人にされる。他の人間がいるとどうも人目を気にするようだが、二人きりの時ならいくらでも話しかけられる。
彼女はだから、次々と問いかけては、じっと女の語る言葉に聞き入っていた。
『疑問。ところで、×××は他人とは違う呼称でわたしを示します。それはなぜですか?』
一通りその時の疑問をあらかた消化し終えた後、水槽の中の生命はふとそんなことを口にする。
それまであらゆる回答に悩みつつ、それでも楽しげだった女の表情が曇った。
『……006って呼ばれた方がいいですか?』
『不明。わたしにとってはただ呼称ですから、呼びかけがわたしに対して行われていると認識できる音であれば、問題ありません』
『じゃあ……せっかくあたしのことを×××と覚えてくれたんだから、貴方のこともイシュリタスのままがいいなあ』
『疑問。×××と覚えてくれと言ったのはあなたです。
首を傾げた彼女を見つめたまま、女は目尻に皺を寄せた。
水槽のガラス越し、掌を重ねるように押し当て、こつんと額をつけて呟く。
『……あのね。貴方のそういうところがね。毎日、ちょっとだけ、でも、確かに。あたしのことを助けてくれているんです。女神様……』
不思議そうにじっと女を見つめていた彼女は、しばらくするとまた首を傾げた。
『疑問。×××』
『なんです?』
『推測。暇、なのですか?』
『えへへー……貴方のそういうところは、ちょっとへこむなあー!』
ずる、と下がってから、女はぴんと姿勢を伸ばし、忘れられかけていた箒の柄を握ったままぶんぶん手を振る。
『いや、本当はダメなんですよ? バレたら怒られますよ? でもまあ、あたし、どうせ役立たずですし……一応掃除もしてますから!』
『了承。理解。提案。しばらくそこにいるなら、また、お話を聞かせてくれませんか』
言い訳に勤しんでいた女は目を丸くしてから、相好を崩し、水槽にもたれかかったまま腰を下ろす。
『いいですよ。何がいいかな。新しいネタないんですよね』
『無問題。同じでも構いません。この前のドラゴンの話はどうですか』
『ええ? いいですけど……好きですねえ。ええと、ちょっと待ってね。こほん……では、整いました。お聞き下さい。昔、昔、あるところに……』
センセイ達が持ってくる素材や資料も、それはそれで興味深かったけれど、×××の語る「物語」はより面白かった。
だから彼女は繰り返しねだった。同じ話でも気にしなかった。
×××は苦笑したが、お願いされると断ることはなかった。
『あたしの女神様……』
時間が来ると、×××は名残惜しげに水槽の壁面を撫でて、未練たらしく何度も振り返りながら出て行く。
『希望。わたしは次も対話することを望みます』
別れの挨拶もいつも同じ。
彼女が言うと、閉じていく自動ドアの向こうでいつも女は目を潤ませた。
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