恋乙女 キスをされる
遠くから足音が聞こえてきたのは、彼女が寝入ってから大分経ってからだった。
扉の前でひそひそ話す声があってから、小さく蝶番が軋む。
「……もう寝ちゃった?」
囁く声に応答はない。注意深く部屋をのぞき込んでいたらしい彼が、まもなく苦笑を漏らす。
「ちょっとだけ、いいかな。あの体勢だと、きっと明日が辛い」
今夜の当直担当らしきメイドにそう一声かけて、騎士は部屋の中に滑り込む。
一番明るい照明は落ちていたが、寝ていようと頑張っていたためだろうか、ベッド近くの机の上のテーブルランプが仄かにオレンジ色の淡い光を放っていた。
まっすぐ歩いてきた彼は、はみ出している足からそっと履き物を取る。
そのままベッドに足を上げようとしたが、掛け布団がうまくいかないことに気がついたのだろう。
だが、斜めに寝ているのはやはりどう考えても辛そうだ。
ひとまず全身を柔らかなマットレスとシーツに戻して、掛ける物をどうするかはその後考えよう。
……いや、一番最初にやるべきは、やっぱりよだれをどうにかしてあげることだろうか。
気持ちよく寝落ちしたのは結構なことだが、やっぱりこう、年頃の娘としてそのままにするのはまずい気がする。
そう思って動き出そうとしたらしい彼の前で、もぞもぞと音が鳴り、うーん、と小さく声が上がる。
「あ……ごめん、起こしちゃったか」
散らばった黒い髪の中から騎士を発見したらしい娘は、ぱっと身体を起こした。少々のけぞって硬直する彼の前で、ぐしぐしぐし! と口元と目元をそれぞれ別の手で猛烈にこすっている。
「ちょっと、そんなにしたら赤くなっちゃうよ」
大分時間が経ってしまったはずだが、まだお酒が抜けきっていないのか、あるいは時間が時間だ、寝ぼけている状態なのか。
どちらにせよ、と柔らかな表情になった騎士は、未だ少し眠たそうな娘の手を取り、口元に近づける。
「約束通り、貴方の騎士がちゃんと帰ってきましたよ」
「う!」と短く聞こえた音は、きっとそれに応じる言葉なのだろう。
彼が声をかけると、彼女はばふばふ! と勢いよく自分の隣を叩いた。
察するに、ここに座れという意味なのではなかろうか。
少々迷った仕草を見せた騎士は、「ちょっと待ってて。水を持ってくる」と一度離れる。
すぐ戻ってくることを伝えたためだろうか、今度の彼女は大人しく待っていた。コップを取って戻ってきた彼が差し出した水差しの中身も、従順にこくこく喉を鳴らして飲み込んでいる。
癖なのだろうか、物を持つときいちいち両手で抱えるのだ。実に小動物感があふれていて、イイ。
緩みっぱなしの口元に気がついた彼は、ぺしっと自分の頬を叩く。
飲み干したコップをどうしようかと思っているらしい彼女から受け取り、近くのテーブルまで置いてまた戻ってくる。
彼女はまた、自分の隣を手で叩いていた。ちらりと背後の扉を向いた彼だが、結局は望まれる通りにすることにしたらしい。
一歩、二歩。酷く注意深く歩み寄ってから、ゆっくり腰を下ろす。
二人分の体重でベッドが軋んだ。
娘は相変わらず眠たげではありつつも、デュランを見つめたままだ。何か問いかけるような目をしているようにも見える。
「……ドレス。似合ってたよ。いや、今言うなよって話だよね。うん、ごめん。あの、ただ……ようやく俺も落ち着いてきて」
膝の上で両手を組み、何を言ったものか、と考えていたらしい彼がようやく声を上げた。
娘は最初首を傾げたが、あっさりと自分が褒められたことに気がつくと目を大きくし、それからさらにむっとしたような表情に変わってしまう。
「あれさ。もうちょっと後に、贈るつもりだったんだ。君がもっとちゃんと家に迎えられて、もしかしたら華やかな場所にも出て行きたいって言うかもしれなくて……そういう時のために。別にそうじゃなくてもいい。ただ……俺が見たかったんだ。本当に、綺麗で可愛かったから」
最初抗議するように娘は口を開いたのだが、デュランの言葉を聞いているうちにどんどん表情から険が抜け、代わりに戸惑うような色合いが増す。
「だから、その……父さんと母さんが、ちょっと強引に今日を舞踏会にしたのもびっくりしたけど。まさかあのドレスを着させるつもりとか思わなくて……うん。びっくりしたんだ。でも……だからってあの態度はないよな。ごめん……」
つまり、心構えのないサプライズをされたから非常に動揺した、という趣旨の説明に、シュナはおろおろ視線を彷徨わせている。
あのつれない態度に傷ついたのは確かだが、なんとなく彼の気持ちもわかったような気がするのだ。
たとえばシュナにとって、普通の日だと思ってたらいきなり「今日は舞踏会ですからそのつもりで」と当日告げられたような、そんな感覚だったのではないか。
あるいは、隠していられていると思っていた物をいきなり人前に出された、というか。
いつも余裕です何が来ても大丈夫ですという顔をしている彼だが、限度はある、ということなのだろう。
もしシュナが同じ立場に晒されたら、恥ずかしすぎてどうにかなってしまいそうだ。
そう考えると、色々と責め立てるのも違う気がして、でも嫌だと思った気持ちは嘘ではなく確かなわけで……。
だからシュナは、こういうときどういう顔をすればいいのか知らない。せめて言葉が話せれば、このいかんともしがたい気持ちを全部拙いまま伝えることもできただろうに。
「……あのさ。トゥラ、もしかして……俺が他の女の子達と一緒にいて、嫌だった?」
しばらくの静寂の後、デュランがふとそんなことを言ってきた。
ちょうど(ドレスのことはなんとなくわかったからもう言わないけど、女の人達と一緒にいたのはなんだかやっぱりまだ嫌なままだわ!)とか考えていた娘は飛び上がる。
露骨に図星を突いたことを知った青年はふっと笑みを零した後、真面目な顔になった。
「そっか……じゃあ今度からしないようにする、って言えれば、きっと君は安心するのだろうけど。残念ながら、それはできない。あそこにいた人達は、うちの大事なお客さんでもあるんだ。ここが自給自足できる土地柄ならよかったんだけど、土地は狭いし豊かでもなし、迷宮で取れる飲食の素材は大体代償が必要だから……どうしても、ここで生きていこうと決めた人間達が食べて行くには、他国の力を借りないといけない。俺がちょっと笑って、少し褒めてあげるだけで皆が明日の心配をしなくていいなら……きっと安すぎるぐらいだ」
デュランは組んだ自分の両手に目を落としたまま、静かに淡々と喋っている。最初は彼の顔を見つめていたシュナだが、ふっとそらし、自分も同じようにした。
その通りだ、と納得する思考と、それは寂しい、と思う気持ち。
(シュナなら、わたくしのデュランと言ってもいいのかもしれない。でも、トゥラはそうじゃない。だから……今のわたくしには、きっとそんなことを考える資格はない。はず、なのに……)
けれど。でも。
嫌なものは嫌だ。
他の人と楽しそうに踊る彼を、何もできずに隅で黙って見つめているなんて。
そんなことは嫌な自分に、気がついてしまったのだ。
ならばお前は幾多の彼女たちより優れているのか、と問われれば口を閉ざすほかない。
それでも――。
「でも……そうだな。俺も君に、他の余計な奴に話しかけてほしくない。君ももしかしたら、一緒なのかなって、今日思ったんだ。あのさ――」
手元から相手の顔に。
視線を移したのも、息を呑んだのも、ほとんど二人とも同じタイミングだった。
パチリと視線が交錯したのと同時、何かがカチリと噛み合う音が聞こえたような気がした。
(やっぱり、わたくしたち、逆鱗同士だからかしら。ちょうどわたくしも今、同じ事を考えていた、の……?)
無邪気に喜んでいた彼女の顔が、黙り込む青年を見つめているうち、困惑に変化する。
「……あのさ」
一度言葉を切った彼が続きを話したとき、シュナは思わず身体を震わせてしまう。ギシ、とまたベッドが鳴った。青年が少しだけ身を乗り出し、娘はどこか怯えるようにのけぞる。
「今までずっと……いや、本当に、こんなこと初めてで。俺も、俺のことがわかってなかったけど……ね、これって……そういうこと、なのかな?」
デュラン=ドルシア=エド=ファフニルカ。
彼はシュナの逆鱗で、竜騎士で、ファフニルカ侯爵家の一人息子で、次の侯爵様だ。
明るくて、人懐こくて、偉ぶってはいないけど、真面目な時はちゃんとしていて、抜けているところもあるけど、頼りになってかっこいい――。
シュナとしても、トゥラとしても、色々な彼に接してきた。様々な彼の顔を見てきた。それでもまだ、知らないことばかりだろうと、薄々は思っていた。
でも。
(知らない……こんなデュラン、わたくしは知らない……!)
シュナとトゥラの関係を疑われた時も、見知らぬ彼に接して緊張した。
だがあの時ともまた異なる。全く違う。同じはずで、何もかもが。
手を握られる。最初は探るようにちょんと触れ、ぴくっと反応した彼女がそこで止まっているとぐっと大きく力強いデュランの手が指先から手の甲をなぞりあげるようにして重なる。
嫌ではない。舞踏会で見知らぬ男に手を触られたときは怖気がしたが、デュランに触られてそうなるわけではない。
痺れるような感覚が身体を駆け抜けた。
不快ではないが、もどかしい気持ちについ逃げ出したくなる。
いつもならそれをすぐわかって、察して自由にさせてくれるはずの彼が、今は許してくれない。
「……そうか。ああ、やっと……わかった。たぶん、俺は君が好きなんだ」
何度も見てきた大好きな瞳は、果たしてこんな色をしていただろうか?
暗闇の中で微かな照明を受けて揺れる。そこにはけして、シュナの知らない何かが宿っている。
シュナは答えられなかった。縦にも横にも首を動かすことができなかった。
好きだ。好きか嫌いで言ったら好きだ。大好きだ。
だけど、きっと今のデュランは、彼女の知らないデュランだ。
だから――。
(嫌じゃない……嫌悪ではない。でも――!)
不安。あるいは恐怖。
そんな感情を、最も信頼している相手に向ける日が来るとは、引きこもりの娘に予想できるはずもない。
そもそも自分が一体何をそんなに恐れているのかわからない。
だが。
ただ。
何もしなければ、何か変わってしまうような、確かな感覚があった。
「君は? トゥラ」
抱き寄せられる時、ドキドキ高鳴る胸は、高揚と恐慌がない交ぜで。
「――少なくとも、嫌ではないって、思っていいよね?」
何度も見た顔が、見たことのないほどの距離まで近づいてきた。
トゥラは、そしてシュナは。
まるでそうされることを望むように――あるいは処理しきれない現実から逃げ出してしまおうとするように、目を閉じる。
最初は触れるように、柔らかな物が重なり合う、感触。
想像よりずっと軽かった。だから彼女は安堵しつつ、と同時に油断して、うっすら目を開く。
その瞬間身体が倒された。驚きで目を見開くと、覆い被さってくる男の大きな影が視界に映る。
二度目のキスはもっと深かった。
重なるだけではない。
まるで貪るように口が動き、押し当てられ、探られ、舌が隙間を割って入り込んでくる。
抵抗も、抗議すら忘れた。
気持ちいい。
苦しい。
期待。
不安。
好き。
――ちょっぴり、嫌い。
感情はあふれて飽和し、経験不足の娘は今や半分ほど魂が抜けかけている。
ようやく怒濤の呼吸封じが終わったかと思えば、彼は頬に、こめかみに、それから耳に愛撫の先を変えていく。
「……耳。弱いの?」
ちゅっと音を立てて口づけられた瞬間、露骨に反応が変わったのを見て彼が一度動きを止める。
(そっ……そうよ!? 耳はダメって、前も言ったでしょ!)
顔を真っ赤にした娘は顔で全力で訴えかけているのだが、男の目には優しいのではなく怪しい光が灯った。駄目と言った場所を、彼は避けるどころか、執拗に唇で弄び始める。
今の彼はやけに意地悪だ。だけどそれが――信じられないことに、経験したことのない快感をもたらしているではないか。
(シュナの時なら、逃げることもできるのに……!)
人間の男女の具体的な差と言う奴を、このときようやくシュナは体感した。腕を突っ張ったところで効きやしないのだ。向こうがやめる気になってくれなければ。
どうしようどうしよう。きっと考えなければいけない所だけど、すっかり全身のぼせてしまって、どこもかしこもまるで使い物にならない。
何かこういう時のために言われた言葉があったはずだが、耳に軽く歯が立てられると全くそれどころではなく、変な声の出そうになる口を必死に手の甲で隠して、なんとかぞくぞく走る感覚をやり過ごそうとする――。
日頃の行いとはこういうことを示すのだろうか。
救いは訪れた。
コンコン、と控えめにノックする音が、部屋の中にやけに大きく響き渡ったのだ。
「若様? もう充分寝顔は堪能できたでしょう。あまり若い女性の部屋にとどまっているものではありませんよ」
落ち着いたメイドの言葉に、シュナはぎくりと身体をすくませ、デュランはピタリと動きを止める。
「――ごめん。今出るよ」
ややあって応じるデュランの声は、低くはあるが、震えることもなくしっかりしていた。
「おやすみ、トゥラ」
最後に一度だけ娘の額に口づけて、優しく髪を撫でてから、名残惜しげに身を離す。
テキパキとベッドの横で少し乱れた服を直してから、何事もなかったように――ついさっき、彼女を置いて舞踏会に戻ったときとほとんど変わらない様子で、いやもっとあっさりと、彼は部屋を出て行く、行ってしまう。
外で少しだけ話す声が聞こえたが、それもすぐ落ち着いて、まもなく夜の静寂が辺りを包み込んだ。
眠気も酔いもすっかり飛んだ娘は、もう眠れそうにない。
(なに……今のって一体、何なの? 何だったの!?)
彼女はベッドの中に逃げるように潜り込み、枕を抱え込んで丸まって――朝までずっと、声にならない悲鳴を押し殺すことになった。
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