狂乱 前編

 鎧の男を取り囲んだ種々の術は、その身の中に飲み込んで、押しつぶして、彼の動きを完全に封じ込む。すると静寂が鼓膜の奥まで貫き通した。


 聖堂に集う神官達は、皆一様に暗い色の外套に身を包み、フードを目深に被って顔を隠している。ユディス=レフォリア=カルディのみ、いつもと変わらない。


 一方、彼女の一番弟子であるルファタ=レフォリオ=プルシは、寝間着に上着だけ引っかけてきた、という風情だった。構えられる杖の輝きが、痛々しささえ感じさせる。


「なぜですか──どうして」


 勢いよく割って入ってきたものの、少年の顔は蒼白だった。自分の目で今見ている物を信じたくない、という考えがありありと表情に浮かんでいる。神童とたたえられる一流の術士であろうと、未だ成人していない彼の顔が、闇夜の中にあどけなく浮かんでいる。


 同胞でもある闖入者の出現に、神官達は警戒の構えを取るものの、不安の眼差しを枢機卿に向ける。


 一瞬だけ呆けたようにじっと弟子に魅入っていた彼女もまた、誰よりも重たげな自らの杖を掲げた。


「どうしました、プルシ。目的があってここに来たのでしょう。それともなんです、この時間にただ、わたくしに会いたくなった、とでも?」


 杖を向ける。それは術士にとって、宣戦布告と同義だ。加えてユディス=レフォリア=カルディの静かな声は、冷ややかな微笑みと共に放たれると尋常でない圧を放った。


 少年が怖じけるように一歩足を退く。


 彼が師への答えを見つける前に、この場における序列最上位の人間が下した判断に神官達は従った。つまり、師と弟子の間に割って入る。


師匠マイスタ!」

「――確かに臣は、以前貴方に言いました」


 絶望的な悲鳴に、あくまで淡々と、上位神官は答える。


「考えなさい。そして納得がいかないのなら、臣達の道は違えられるべきなのでしょう、と。答えが出たから、ここに来た。違うのですか?」


 法王ヒエロに次ぐ序列。数少ない、選ばれた人間のみが与えられる称号。助言役であり、次代法王候補でもある。


 その彼女の半分しか未だ人生を知らぬ弟子は、耐えかねたように、あるいは答えを探すように目をそらした。


「師匠──いいえ、レフォリア=カルディ。こんなことは今すぐやめて、戻って下さい」


 彼が苦痛に満ちた眼差しを向ける先には、娘の姿がある。

 五感すら奪われたのではないか、と思ってしまうほど、彼女は目の前の騒乱に何の反応も示さない。


 他人行儀な呼びかけをされて、わずかに師が表情を歪めた。

 杖の矛先は不肖の弟子に向けたまま、もう片方の手を、床の上で体を丸めてうめいている神官にかざす。先ほど娘を先導させようとした男だ。目くらましの術をまともに受けて、眼球が潰れでもしたのだろうか。顔を覆う両手からは、たらたらと赤い雫がしたたっていた。


「……お前がそのようなことを言うのは、これが可哀想に見えるからですか?」


 いや、錯覚だったかもしれない。仮面のような顔からは、今は何も読み取れない。


 ユディス=レフォリア=カルディは、娘を指して、というより、娘になした自らの仕打ちについて問いかけているようだ。


「道を外れては星の光は得られない。あなたの教えです……師匠マイスタ。いいえ――いいえ、違うんです。違う。ぼくにとっては、本当に正しいか、間違っているかじゃないんだ……」


 なぜここに来たのか。どうしてこの場所に在るのか。ともすれば立ち尽くし、挫けそうになる己を叱咤して、少年は考える。


 ――考えなさい。それが貴方の力になる。


 初めて会った時だって、そう言われた。


 それを思い出した瞬間、彼の口から言葉が溢れた。


師匠マイスタ――ぼくにはわからない。わからないから、ここにいるんです。なぜ、どうして、ぼくは、あなたは――あなたが。信じてくれと。ぼくにあなたのことを、信じろと。禁術を用い、個人の想いを断ち切ろうと、ただ一言――信じてついてこいと、言ってくれたなら。それだけだ、たったそれだけ――ぼくは、あなたの目指す場所が、たとえ地獄だろうと構わない。


 しどろもどろだった彼の口から、堰を切ったように、まとまりきっていない感情の渦が流れ出す。


 師は動かない。しかし、師と弟子を隔てる信者達は、徐々に徐々に少年に向かって距離を縮めている。


「ぼくはあなたの一番弟子だ。それは違っていたのですか? 間違いだった?」


 一度言葉を切って、少年はかすれた声を囁く。


 そのとき、鮮烈な光に目を焼かれていた神官が、恐る恐るといった様子で目を覆っていた手を外した。


「いつものように――かつてのように。僕に胸を張って、素晴らしい世界なのだと。そうしないのは、なぜですか。光を恐れるように、地下に潜り、闇に紛れ、正体を隠し――そんなあなたを、見たくなかった。あなた自身、信じきれていない正義に……どれほどの価値が、あるのですか?」


 返答はない。だが答えはあった。


 顔をしかめ、しょぼくれた目を何度も瞬きする神官に、枢機卿は手を行け、の方向に動かす。


 泣きそうにくしゃっと顔を歪めた弟子が、杖を構え直す。


 だが、娘の手を取ったのは法国の人間ではなかった。


「急ぐなってユディちゃん。パーティーは始まったばっかだろ?」


 一体どこに隠れていたのか――答えは目で見ればわかる。


 猫のように軽やかな足をもたらし、どんな鋼鉄を仕込むより重たい蹴りを繰り出す。

 熟達すれば火の中、水の上、空すら渡ってみせよう。

 対価は利き腕。願いは自由。報酬の形は靴。


 一つの宝器の噂の、真実と嘘が明らかになった。

 真は言うまでもない、たった今空を蹴った男が示したその力。

 嘘は形状――どうやら靴ではなく、アンクレットの方が本命だったようなのだ。


 ザシャ=アグリパ=ワズーリは娘の脇に降り立った。正確には、命じられるまま彼女を連れて駆けようとした神官の真上。


 ぎゃっ、と短い悲鳴が上がり、次いで鈍い音が響いた。

 いかに慰術に優れ、常ならば不可能である蘇生すら実現させうる術にも限界はある。呆気なく一人の首をへし折って退場させた亜人は、じゃらっと鎖の音を鳴らした。


 どうやったのか、足の方はどさくさに紛れて外してきたようだが、両手首をつないでいる方はまだ健在らしい。ピンと張った鎖で娘の首を捕らえ、彼女ごしに亜人はにっこり微笑んだ。


「どういうつもりです?」

「手枷足枷ひっつけといてその言葉はないんじゃねーのかなあ、笑い所? 服だの装飾品だの剥がれなくてこっちは結構助かったよ? まあ全裸にされたらそれはそれで真面目に誘惑方向で考えますけれドモ」

「臣に? 冗談でしょう」

「そっちこそ自惚れなのかなあ、世の中お前より可愛い人間いくらでもいるんだよ? あっこの弟子とかさあ」


 亜人と神官がにらみ合う背後では、弟子達の戦いが始まっていた。


 ザシャによって崩された静寂の均衡は、術と術が飛び合う光と爆発音の応酬に取って変わっている。

 ユディスが動じる様子を示さないのは、彼女の周りにうっすら見える不可視の壁に守られているためだろう。


「ああ、なるほど。理解しました。ですか。つくづく忌々しい」

「いやまあ別に余裕ぶっこいててもいいっすけど、さすがに数多いし今相当心にキてるはずだからさあ。お弟子くん、案の定袋だたきになってない? 助けに行かなくていいの?」

「……ここで果てるなら、それもまた運命です」

「スパルタ? やせ我慢? まあ僕はいいんだけどね。どっちでも」


 術士同士の争いにおいても、多い数が有利になる原則は変わらない。

 師と同様、目に見えないガラスのような膜のような防御壁をまとい、時に杖同士の打ち合いもこなす少年だったが、快勝どころか早くも追い詰められている気配すら見せていた。


 一人が振り下ろした杖を受けていた彼の後ろから、別の者が殴りかかる。避けはしたものの、体勢を崩して倒れ込んだ少年に向かって、三人がばらばらに杖を向け、光を放つ――。


 それを、遠くから放たれた一閃がなぎ払った。


「おおおおおおおおおおっ!」


 叫ぶ男の声と共に、大剣が振られる。割かれた空に描かれた斬撃がそのまま飛んでいき、かまいたちとなって神官達を襲った。


 術士同士の戦いに夢中になり、間合いと意識の外から飛んできた不意打ちに完全に虚を突かれたらしいフードの集団が、衝撃で吹き飛ばされ、打ち付けられた体はそのまま伸びて動かなくなる。


「これで借り一つ返し、だ!」


 圧殺せんばかりの呪いの重ねがけを突破し、ついでに倒れている少年の周りの人間達を吹き飛ばした男が、吠えるように宣言する。


 だがさすがに至高の術士とその弟子達にありったけ呪われて無傷というわけにはいかなかったのか、たなびくマントは千切れ、鎧の所々は傷ついてひび割れ、顔の一部が見えるようになっていた。


 剣もよく耳を澄ませば、振られる度にギシリミシリと嫌な音を立てている。


 鬱陶しそうに頭から流れる血に片目をつむっている鎧の騎士に、ヒュウッと亜人が口笛を吹いた。


「やっぱいい男だわアイツ、推してて良かった。そう思わない?」


 首に手をかけられてふっとささやき声を吹き込まれても、相変わらず娘は何の反応も示さない。


 代わりに騎士が、激高した。


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