ヒトの娘 武者震いする
デュランがトゥラを選ぶと言った。
それはけして、シュナを蔑ろにするだとか、選ばないとか、そういう意味ではない。
最初から見えていた結論から、目がそらせなくなっただけとも言う。
人間は、人間と添う。それが自然で、当たり前だ。
たとえ素性の知れない、後ろ盾のない、取り柄なんて一つもないように思える娘とて、「人間の娘である」――それが、それだけで、価値になる。
デュランはそういう立場で、性格だった。
それが彼自身の口から、はっきりと告げられた。
ただ、それだけのこと。
ショックがないと言ったら当然嘘になるが、どちらかと言えば、このところずっと宙ぶらりんだった状況に芯が通ってすっきりした、という意識が強い。
どちらも、と言われて嬉しく思いつつモヤモヤが晴れなかったのと、同じで、真逆だ。
何にせよ後退したわけではない。一歩ずつ、非常にのろくはあっても確実に進んでいる。きっと、望む明日に向かって。
根っからのポジティブ思考とまでは行かずとも、シュナは元々しゅんとしても引きずりすぎず、すぐ立ち直る……少なくとも前向きに考え方を直す事ができる娘である。
それに、自分の事にしっとりクヨクヨ悩んでいるだけにもいかない、という状況があった。
というか、すっかり忘れかけていたのを、思い出させられることになった。
ほろほろ目から溢れる涙が落ち着いても、デュランはそれ以上何か言おうとはしなかった。
いや、何度か迷ったように口は開いたのだが、そこできゅっと唇を噛みしめる。
顔を拭かなければ、とシュナが思い出したタイミングで、そっと彼はハンカチを差し出してきた。それ以外は、じっと手を握っている。彼が馬車の中でしたことは、それだけだった。
そつのないハンカチレンタル。そういえば、前も同じような事があって、一体どこに閉まっていたのだろうと疑問に思ったのだったか。おかしく思えば目尻が緩んでまた一つ雫がこぼれ落ち、シュナは慌てて目元に当てる。
ちょうどその辺で、馬車が止まった。
(赤くなっていないといいけれど……)
と思いながら、シュナは急いで最後に顔を軽く押さえ、すん! とまた一度鼻を鳴らしてから、ハンカチをきゅきゅっと丸めて手の中に隠す。
いかにも微妙な空気で馬車から降りてきた男女に、
「ほらあ、だがらあ、おらはいっだだよう」
と扉を開けた御者がぼやいたのが聞こえて、娘はいたたまれず身を縮こまらせる。
しかし横の領主子息の方は涼しげな顔――というにはいささか渋かったが、わりあい平常心で黙殺した。
こういう辺りが、自分と彼の違いをひしりと感じる所でもある。
気を取り直して顔を上げたシュナは、思わずあんぐり口を開くところだった。
城の入り口で騎士達と共に出迎えに立っている中に、どうしたことだろう。なんと多忙のはずの侯爵夫人の顔が見えるではないか。
今日も地味系ドレス――襟の詰まった臙脂色の衣装に身を包み、ピンと背筋を伸ばして立っている。
デュランに手を引かれたシュナが少々慌て心地で(ただいま戻りました!)と挨拶をすれば、
「よく戻ってきました。さ、明後日に備えてもう一度お作法の復習をしましょう」
と眉一つ動かさず彼女は言い放つ。
明後日? と首を捻りかけて、シュナはざざっと自分の顔から血の気が音を立てて引くのを感じた。
シュナもトゥラも度々人生の修羅場が連続して襲いかかってくるため、目の前の事で一杯になってその他のことを忘れがちだ。今回もそのパターンだった。
(そっ……そうだった……! わたくしったら、何のために出がけに手帳にあんな大きなぐるぐるマークを書いたと……!)
割とがっつり重要事項を忘れかけていた自分をポコポコ叩いてやりたい。
トゥラにはこれから、ある意味舞踏会以上にハードルの高い大事なイベントが控えていたのだ。
そう──お茶会、である。
そもそもの話。
トゥラという娘は、先日御披露目の舞踏会であろうことか誤って飲酒し、ベロンベロンに酔っ払って危うく醜態を晒す所だった。
幸か不幸か、その現場に居合わせて適当に酔っ払いを転がしていたご令嬢が、サフィーリア=ユリア=エド=プルセントラ。
デュランの結構相手候補として最有力と言っていい女性、トゥラにとってはいわばライバルだ。
その彼女から、トゥラは「今度一緒にお茶をいただきませんこと」と優雅な招待状を受け取った。
額面通りに仲良くしましょうというだけの意図とは思わぬ方がよかろう。
貴婦人から貴婦人に当てた個人的なパーティーの招待状とは、時に友好、時に屈服、そしてさらには挑発や恐喝にも用いられるのだ。
「つまりこの場合、お嬢様は騎士風に変換すると手袋を投げつけられたも同然と言うことですな、フォッフォッフォッフォッフォッ」
と、ニコニコ顔の温和そうなマナー講師は震え上がる娘に散々、間違っているような正しいような、いずれにせよ割と偏りのある情報を吹き込んだのである。
「いいですか、トゥラ。殿方が戦うのが野外ならば、屋内は女の戦場です。知識教養、見た目、所作。それらは女の武器であり鎧である。役者が変わろうが舞台が変わろうが、やられる前にしとめる、最後まで立つ、これが重要なのです!」
とありがたく言い聞かせる侯爵夫人の追撃のおかげで、おっとり娘の中で、茶会とは女の戦場と心得られていた。
(出がけにあんなに色々たたき込まれたのに、結構抜けている気がする……そして今から、詰め込みが再開される予感がする……!)
度々城からの突然の出奔及び前振りのない帰宅を繰り返している不良娘に対し、アドリブに強い侯爵一家はもはやすっかり順応しているらしい。
具体的に言うと、娘は現在帰ってきたばかりなのだが、
「さ、最初は健康診断です。問題がなければ午後はまず、礼節の作法を、立ち居振る舞いから見直していきましょう。それが終わったら教養の復習です。プルセントラとはどんな家なのか――ご安心なさい、他のことで急がしくて忘れているだろうと思いましたから、きちんと要点をまとめた講義プログラムを組んでいますよ。ええ、ですから何も案ずることはありません。舞踏会だってなんとかなったでしょう? 今回もそうです。なんとかします。あたくし達とあなたで」
そんなありがたすぎて涙が出てきそうなお言葉を、侯爵夫人から賜ったところだ。
この涙が喜びの涙なのか、悲しみの涙なのかは審議を呼びそうな所である。
(…………?)
本能で走る小刻みな震えを感じつつも、(頑張ろう……)と神妙に静かに気合いを入れていた娘は、ふと周りの静けさに気がついた。
様子を見守っている騎士達が、何とも言えない表情でちらちらデュランに目を送っている。
どうかしたのかな? と思って自分もそちらを見ようとすれば、ちょうど夫人が口を開けた。
「何か言うことは? あるなら耳に入れますよ」
母親に促されれば、息子はやんわり微笑んで首を横に振る。
「ないよ。……よろしく、お願いします」
そう言って、そっと娘を母親の方に導く。
ぼんやりしていたシュナは、はっと息を呑んだ。
(デュランが、何も言わない……!)
この場に満ちている沈黙。
それこそが、違和感の正体だ。
つい先日までデュランは散々、自分の拾ってきた娘に何か負担がかかるのを大層嫌がる傾向があった。
たとえば侯爵夫人のあらゆるレッスンにしたって、「そんなに厳しくしなくても」「数が多すぎない?」「優しくしてあげて!」などと、言っても一蹴されるとわかっていながらも定期的に口を挟むことをやめなかった。
それが今、明らかな「これからしごきますよ」宣言を受けて、無言なのである。
どころか、推進するかのような所作まで見せた。
これはどういうことか? シュナは自分の頬に熱が集まるのを感じる。
(これが……トゥラが選ばれる、ということ)
トゥラの時、いつもあった過剰すぎるほどの甘やかし。
けれどもし、彼の隣に立つことを娘が真に望むなら、これが彼の応じる、という答えの一つなのだろう。
甘えてばかりの時代が、今確かに終わったのだ。
娘は身体を大きく震わせ、ぐっと顎を突き出すように顔を上げた。
これはきっと、おびえや恐怖、不安によるものではない。
武者震いだ――人間としてはじめて、認められたような充足感が、どこまでも彼女のやる気を後押ししていた。
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