ヒトの娘 出立する

 舞踏会の時もそうだったが、侯爵夫人は基本的にスパルタなので、課題を課されているときは自然とそこに集中せざるを得ない。


 無礼のないように、また笑われないように、もてなされる側の作法を学び直し、それが終われば怒濤の知識詰め直し、である。


 トゥラの場合、口がきけない(ということになっている)ため、会話で機転の利いた返答をすることなどはできない。

 それでもやはり、全く知らないで話を聞いているのと、多少は知っていて話を聞くのでは、全く得られる情報の量も心構えも違うだろう、というのが侯爵夫人の方針であるらしい。


 プルセントラ公爵家とは、どんな場所にいつから存在し、どんな人達で構成されている所なのか。

 そしてそれが、どう迷宮領と関わっているのか。


(頭がぐるぐるしそう……)


 迷宮領との関わりならばまだシュナもイメージしやすいのだが、プルセントラ家はヴェルセルヌ王国の有力貴族、つまり王国の話なしに公爵家の話もできない。

 その辺りのおさらいをしつつ点と点の知識をつないでいく作業は、興味深く面白くありつつも、なかなか難しい所もたくさんあった。


 特に名前が一番の曲者である。

 新しい固有名詞が多々登場すると、それだけで気が遠くなりそうになる。

 が、貴族と関わるならば、名前と経歴、加えて会った事があれば見た目と印象、そういうものも覚えていて当然――だ、そうである。


 少なくとも、侯爵夫人と、あと侯爵閣下の方もきっと、関わった人物のことはよく覚えているのだろうな、とシュナは感じる。


 舞踏会の際、横でなんとなく見聞きしていただけの身ではあるが、


「おお、先日はワインをありがとうございました。今年も酸味と辛味のバランスが絶妙で素晴らしい」

「やあ、これはどうも。ご子息はお元気ですか? 先日お風邪を召されていたとか。よろしければよい医師を紹介致しましょう」

「お久しぶりですな! その後いかがです? 何、まだ始めたばかりなのです、今から焦っても仕方ない。ここは我慢のしどころですぞ。仕事に打ち込みすぎるのもよくない。今日は気晴らしと思ってたっぷり飲んで食べて、それで帰ったらぐっすりお眠りなさい。細君が案じておられたようですよ、気が抜けたときにバタンと行きそうだとか――」


 など、相手の顔を見た瞬間、次々と口から出てきて淀みないのだ。

 それでいて、自分ばかりが喋るのではなく、むしろ途中からはずっと相手に語らせ、ほどよいところで次の客に切り替える。


(これが迷宮領当主。侯爵閣下……)


 とこっそり感心していたものだ。



 あの時はただ、すごいなあ、という感想で終わってみたが、あれは未来のデュランの姿でもある訳だ。

 そして彼が本当にトゥラを迎える気構えがあるということは、その隣に自分がいずれ立つ、ということ。


 霞む目をこすりながら、シュナは膨大な知の波に挑むことをやめなかった。


 十八年塔で暮らし、百年眠っていた人間は、この世界の人並みになろうとするだけでも苦労するだろう。

 それでも歩みを止める訳にはいかない。


 彼が差し出した手を、他の誰でもない、彼女自身が取りたいと思っているのだから。



 さて熱心に講義に打ち込んでいるうち、あっという間に時は過ぎ、いよいよ今日は茶会、という日になった。


 舞踏会の時も、本番は夜開催だったが、午後からずっと準備に明け暮れたものだ。

 当日やることなんて服を着て多少見た目を整えるだけでは……と思うのだが、この服を着る、見た目を整えるというのが一大事、それなりに重労働なのである。


 今回の茶会の準備もなかなか気合いが入っていて、午後の予定のために早朝にたたき起こされることになった。


 またあれをやるのか……! と眠たい頭のまま身体を緊張させた娘だったが、出されたドレスを見て思わずほっと胸をなで下ろしてしまう。


(よかった……今回は露出が少ない……)


 パッとした印象では、普段着ている服をもう少し華やかにした、という雰囲気だろうか。


 そういえば講義でも、昼と夜で服装が変わる、と説明されていた。

 女性の場合、昼間は襟ぐりがさほど深くなく、袖もきっちりとついているドレス、夜は逆に、大胆に肌を見せるドレスが正しいのだと聞いている。


 ちなみに男性側もお召し替えはあるのだが、露出度にはさほど変更がない。彼らはもともと上下ぴっちり着ているし、むしろ夜の方が着込んでいるまである。


(なぜなの! 誰なの、女性は脱ぐ方が正式衣装なんてルールを決めたのは!)


 肩が出ているぐらいならシュナとて少々寒いかも、で済ませるが、胸元がっつり、背中パカーンの前回のドレスはなかなかこう……着るだけで気力を持って行かれるというか。


 よかった常識的なドレスで。これなら素直に着こなしに集中できる。周りの視線に必要以上に萎縮することもない。


 憂いなく娘が薔薇色のドレスに身を包み、化粧を施せば、今回も着付け部隊で一番走り回っていたコレットがほう、とため息を漏らす。


「本日サフィーリア様は群青色のドレスを着る、ということでしたから、暖色にしよう、となりましたけど……」


 メイド達は散々、綺麗だの可愛いだの褒めそやしてくれる。

 それを気恥ずかしく思いつつも、シュナはじっと鏡の中の自分を見つめた。


(わたくしが着飾ってもらえるのは、ただ皆がそうしたいから、だけではない。綺麗でいることが、わたくしに求められている役割の一つなのね)


 なんとなく、わかってきた。

 賢く、美しく。

 そのどちらもが、きっとデュランの隣に立つ女として求められるのだと。


 元々自分が成り上がりの家であるファフニルカ侯爵家は、人の生まれは参考にする程度。今ここにいる人間が、どこをめざし、どう向かっていこうとして、どんな成果を出しているのか。彼らが見ているのは、そういうところだ。


 ならば、何も返せないのに、と恐縮するだけでは駄目だ。全然足りない。何も示せないし、どこにも行けない。


 うん、と自分で納得するように頷いてから、シュナはドレスに手を滑らせ、部屋の中の人間達に礼を取る。


(わたくしには――トゥラには何もないかもしれない。けれど)


 目で見ることをやめない。

 耳で聞くことを躊躇しない。

 触れることを恐れない。

 そして何度失敗してでも立ち上がってみせる。

 ここにいていいのだと、自分と、周囲と、両方を納得させるために。


 感謝と、それから彼らの仕事の成果を無駄にはしない、きっとうまくやってくるという、決意を示すために。


 そんな、私どもに勿体ない、というような言葉は上がらなかった。

 静かな自信を胸に秘めて微笑んだ娘の所作は、はにかむいつもの様子とは違って、周りを圧倒する。


 ただ、可愛くて、かわいそうなだけの拾い子ではない。

 だからこそ、侯爵一家が早くから確保して、大事に大事に手をかけてきたのだと。


「お嬢様の準備はよろしいですか?」


 娘が頭を上げてからも呆然と立ちすくんでいたメイド達が、様子を見に来た執事の言葉ではっと我に返る。


「ええ、ええ……ばっちりです、もう……」


 しどろもどろにメイドが応じれば、付き添いの騎士がエスコートにやってきたようだ。

 部屋を出て行こうとする彼女の後ろ姿に、いつになく真面目な顔をしたコレットは深々と頭を下げる。


「いっていらっしゃいまし、ご主人様」


 控える者達の恭しい態度に、シュナは微笑んで頷き、そしてその場を後にした。



 なんとなく、予感があった。

 馬車に乗り込む手前、彼女は足を止め、連れの騎士に少し待ってくれないかと目で訴える。

 くみ取ってくれたらしい彼が一礼して下がったのを確認してから、シュナは惹かれるように近くの物陰に近づいていく。


 果たして、そこには赤毛の竜騎士がこっそり身を潜ませていた。

 彼は知らないが、逆鱗同士で繋がっている身なのだ。

 この程度のかくれんぼなら、すぐにシュナは見破ることができる。


「いや。別にね。サボってるんじゃないんですよ。仕事はね? 今ちょっと、中断して……見送るだけだからって……」


 毎度毎度大げさにしては怒られるし、ちょっと距離を取ると決めた手前、こっそり見送ろうという算段だったのだろうか。

 見つかってばつが悪かったのか、もごもご口で言い訳をしていた男だが、じっと大きな黒目に見つめられているうちに言葉が消えていく。


 軽く頭を振ってから、彼は金色の目を細めた。


「……いってらっしゃいの、」


 ごく、と唾を飲み込む音が聞こえる。彼女は一つ、ゆっくり瞬く。


「キスをしても、いい?」


 娘は言葉を話さない。

 代わりに目で語り、表情で返し、そして仕草で誘惑する。

 にっこり微笑んで、すっと目を閉じ、わずかに顔を上向かせた。

 紅で彩られた艶やかな唇が、ほころびかけのつぼみのようにわずかに花開く。


 男は彼女の肩に手を置き、顎を支えるか迷ってから、そのままゆっくりと注意深くかがみ込む。


 触れるだけの口づけは、それでもとても甘かった。

 柔らかな温もりが一瞬だけ重なり、離れれば違う熱の余韻に名残惜しさを覚える。


 緊張した面持ちで男が息を呑んでいると、娘がゆっくり瞼を上げた。

 うっとり夢見心地な黒い目が、ぱし、ぱし、と長いまつげに何度か覆われる。


 彼はまた顔を近づけようとするが、何かに口元を阻まれた。娘が手にしていた扇子である。


「う!」

(これ以上はだめ!)


 顔を上気させたままちょっと怒るように声を上げてから、彼女はくるりと身を翻し、馬車の方に駆けていった。若干こちらに来ようかどうか迷う仕草を見せていた騎士が、ほっとした顔で出迎え、車内に誘う。


 それを大層間抜けな顔で男は見守る。無意識にだろうか、指が口を、そこに残るわずかな熱をなぞっていた。


 馬車が動き出せば、見送り部隊が一斉に頭を下げる。

 離れていく刹那、ガラスの窓からひょっこり顔をのぞかせた彼女が、行ってきますというように手を振った。

 他の誰でもない、赤毛の騎士に向かって。


 それを見てようやく数歩、追いかけるようにふらふらと踏み出すが、追いつくわけではない。

 彼は手を振り替えそうとしたが、上げた時には既に馬車が角を曲がる所、中途半端な位置で手を彷徨わせる。


 そのまま彼らが消えた方向をいつまでも見つめているものだから、しびれを切らした門の騎士の一人がそっと歩み寄ってきて脇腹を小突いた。


「若様。顔――」


 なんてだらしない呆けた面してるんですか、と続けようとして、男ははっと息を呑む。


 確かに少し前までは、いかにも幸せボケしていそうな雰囲気を纏っていたのに、今はなぜだろう。強ばった顔が作る表情は、虚脱ではなく何かの懸念である。


「……どうかしましたか? 気になることでも?」

「いや……」


 そっと尋ねられれば、若い未来の侯爵は首を振る。

 いってらっしゃいと送り出した、ただそれだけ。半日後にはまた会える。夕食の時までのささやかな離別。


 けれどもう一度娘の去った方を見る視線には、本人にもはっきりとは言い切れない、漠然とした不安が込められているのだった。

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