迷宮の姫 二人きりになる 後編

 さて気合いを入れたはいいが、車内はしばらく無言だった。


 空間に静寂が満ちている場合、シュナの方から状況を変える事は難しい。だって喋れない(ということに、少なくともなっている)のだし。


 さあどこからでもかかってこい! と鼻息荒く備えていた娘は、思わぬ拍子抜けっぷりに力が抜けるのを感じた。


(……なんだか随分と静かなデュラン。わたくしの思い過ごしだったかしら?)


 車内の対角線、一番デュランから距離が取れるかつ入り口に近い方にじりじりいざってポジショニングなどもしていたのだが、杞憂に終わりそうだ。


 彼はずっと、カーテンの締まった窓の方を、頬杖をついて見つめている。


 しかし何かが始まりそうな物々しい気配を醸していたように思えたのに……とこれはこれで釈然としない娘がもう一度自分の手元から目を上げた瞬間、金色の瞳に射すくめられた。


「ぴゃっ!?」

「……そんな不審者見たような反応」


 叫んで思わず座席にへばりついた彼女を見て、若干傷ついた様子のデュランがぼやく。


 カタカタプルプル震えている娘に彼が近づくと、ぎしっと音が鳴った。


「トゥラ……」


 勇ましく「今回のわたくしは一味違うわよ!」と意気込んでいても、いざ修羅場(仮)に遭遇すれば「は、はうう……!」となってしまう温室育ちの悲哀である。


 こうきたらああして、こう! という事前のシミュレーションもどこへやら、いつの間にか角際に追い詰められているしそっと手も取られている。



 ちょうど「なんだ何も起こらないのか」なんて気合いが抜けた時に迫ってこられたのもよくなかった。色々構えていたときには大人しかったくせに、とんだ番狂わせ、わざとやっているんじゃないか? と疑いたくなるほど、ある意味でタイミングばっちりな仕掛け方である。


「……あのさ。俺、ちょっと反省したんだけど」


 物々しく話し始めた態度にこちらも神妙な傾聴姿勢になるが、若干気になるワードに内心「ん?」と首を傾げている。


 いったんは置いておいて、まずは相手の情報を手に入れるところから! と意気込んだ彼女の顔をじっとのぞき込んだまま、領主子息はのたまった。


「俺……冷静になってみたら、あの時ちゃんと、君に正式な許可を取ってなかったなって」

(…………)


 たっぷり数秒間目を点にしてから、シュナは唖然呆然、淑女の嗜みを一瞬忘れきって口をあんぐり開いてしまった。


 彼の言うあの時にはばっちり心当たりがある。

 もちろんシュナが今回寝込んだり迷宮に慌てて帰って竜や母に泣きついたりする原因になった、あれのことで間違いないだろう。


 ひとまず忘れられていなかったのは、よかったのか悪かったのか。まあよかったと思っておくことにしよう。


「あの時のことは一時的な気の迷いなのでやっぱナシで」


 なんて言われたら、さすがの穏健派シュナとて人生初平手打ちをお見舞いしかねない。



 しかし、改めて言われて気がついてしまった問題がある。


(それはやっぱり、あの時自分は本来踏むべき手順をいくつかすっ飛ばしました、ってことよね!?)


 物知らず温室育ちと言え、キスは思いが通じ合った事を確認しあった男女がするものだという認識はある。


 物語の中には、気持ちがわからないまま唇を重ね合うような展開もないわけではないが、そういう場合お互いに心にしこりを残すことが多く、要するに最終的にはやっぱりしっかり合意を取ってからの行為が手を替え品を替え形を変え推奨されているわけだ。


 ではデュランはきちんとその通りにしたか? 割と間の大事な所をポーン! と飛ばしていた気がする。


 いや、なんかこう、彼の中ではたぶん納得があって事に及んだのだろうが、シュナ視点では割と急激に迫ってきたと言って間違っていない状況だった。


 気持ちの整理がついていないまま事が進行してしまったから、翌日考え込みすぎて熱を出すような事態に陥ったりもしたのである。


 よーく思い出せば「たぶん、俺は君が好きなんだ」とほぼほぼ事実上の告白を受けてもいるが、あれってほぼ独り言、「君が好きだ」とは違う気がする。しかもなんだその「たぶん」とは。


 その上翌日も様子を見に来てはいたものの、昨晩の事をシュナが拒絶はしていないことが確認されたら一気にリラックスモードに移行し、「ごめん昨日は俺が悪かった」という類いの言葉は最後まで出なかった気がする。どころか「あーん」合戦という羞恥プレイを更に強いられた気すらする。


 そしてその後は連日のあれやこれやの日々……。


(しかも……なんですって、それを、ちょっと反省? !? 大いに反省して!!)


 驚愕からだんだん怒りがこみ上げてきた。

 わなわな震える彼女の手を、しかしまだデュランは握っているし、話は続いているようなのだ。


「ちゃんと言うね。俺は君のことが好きだ」


 シュナにとって素直さは、嘘をつきたいシーンでうまく振る舞えない事と同義ではあるものの、基本的には美徳として捉えられている。


 しかしこの時も己の愚直さを恨んだ。

 何しろ瞬く間に赤くなった顔が、怒りではなく恥じらいであると本人に強く自覚があるからである。


 ときめく動悸は闘争心ではない。それは甘美な誘いへの応答であり、愛を賛歌する身体の叫びである。


 そしてこんなみっともない顔はさっさと隠してしまいたいのに、手を握られているからうまくいかない。加えてうるさい心臓は、指先までどっくんどっくんと脈打って、今にもデュランにわかってしまいそうだ。


「……俺たちが本気になろうと思ったら。考えなきゃいけないことがたくさんある。俺のこと。君のこと。ただ恋人としてなら、別にそこまで困難はないと思う。だけど……」


 もし、デュランが変なことをしてきたら、と馬車に乗り込む前は構えていた。

 しかし今は、固唾を呑んで聞き入っている。


「俺の半身、相棒に言われた。お前にとって一番大事なものは、何かって。自分? それとも外の人間? 全部大事だ。俺は、城も、領も、迷宮も、全部が全部大事で、欠けていいものなんて何一つない。……だけど領主なら、優先順位を考えない訳にはいかない」


 金色の目が、伏せられてからまたこちらに向いた。


「トゥラ。君が何者でも、俺は君を迎える覚悟がある。ただし――大勢の幸福を、考えない訳にはいかない。俺は、迷宮で生まれた訳じゃない。迷宮でずっと生きていかなければいけないわけじゃない。一緒に暮らしていく外の人間達と、君やシュナの幸福が対立するときが来るなら……その時は外の人間を、選ばなければいけない。皆そう思っている、そう知っているから、俺が迷宮に潜り続けても、どこの誰と付き合っても、見逃してくれている。親父も、母さんも」


 領主子息。若様。閣下。

 何度も聞いた言葉だ。彼はそういう人間だ。


 しかし、自分は本当にわかっていたのか?

 次に迷宮領で一番偉くなる。迷宮領の責任を取る。それはつまり――。


(天秤にかけられた時、何よりも迷宮領とそこに住む人を選ぶ、それを守ることを選ぶ、ということ)


 真剣に、誠実に、語られる。

 その言葉には、衝撃と、落胆と、けれど何より納得がある。


(ああ、わたくし、だから)


 この人のことが好きなのだ、と気がついた時、それでもだから今すぐ人間になってしまいたい、とは思えなかった。


 だって、トゥラには何もない。

 トゥラになるということは、シュナの持っている、力、居場所、そういうものすべてなくすということ。


 そうして全部投げ捨てて、デュランの胸に飛び込んで、それで彼が手を離したら――。


 箱入り娘は十八歳の誕生日の日、突如父親を失った。

 気持ちだけではどうにもならない事がある。

 信じるだけでは進めない。失うことを、失ったらどうなるのかを、既に知っている。


(トゥラはもしデュランにいらないと言われたら、本当に何もなくなってしまう。シュナなら、お母様がいる、竜がいる、迷宮がある。たとえあそこから出られないのだとしても……)


 ここにもまた一つ、人間として添い遂げる、という選択を躊躇させる理由があったのだと、他でもないデュランが思い出させる。



 だけど、それでも、だとしても。


「迎える覚悟がある」


 と彼は言った。


 彼女にとって、あえて夢物語だけではない話をしても、その上で自分はそれを受け止める用意がある、と言ったのだ。


(今日か明日、それとも何十年も先、時間はわからないけれど、必ず訪れるいつかの瞬間――別れなければいけない、その日までは)


「俺は……もしかしたら、君を選べないのかもしれない。君を悲しませるのかもしれない。それでも君が好きで、俺たち二人、どちらも駄目だと思う日が来るまでは、君と手を取り合って生きていきたい」


 まるで物語の中の王子様のような男は、何があっても君を選ぶよ、とは言わなかった。


 彼は大きく息を吸い込んだ。額の辺りにいつの間にか浮かんでいる、汗の粒がふと視界に映り込んだ。右手、左手。順に手を握り直し、それから最後に彼は結ぶ。


「もし、シュナとどちらかしか選べないと言われたら。君を選ぶ。君が俺を選んでくれるのなら。君を選べなくなる日まで、君を選び続ける。最後が来たら……その時は俺自身で終わらせる」


 ほろり、と目から涙がこぼれ落ちた。


 それは悲しみなのか、喜びなのか、わからない。


 ただ、選ばれたことが。選ばれなかったことが。

 こんなにも、こんなにも。


 この人を好きになってよかったと思う気持ちと、好きなんて知らなければよかったと思う気持ちで、胸の中がぐちゃぐちゃになって。


 その流れがあふれ出してくるから、いつまでも涙が止まらないままなのだった。

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