眠り姫 迷宮に迎えられる
いや、実際地面が沈み込んだのだ。大地が揺れている。
元々座り込んでいる彼女に影響はなかったが、立っていた者は転倒を避けるためにしゃがみ、馬は驚いて竿立ちになり、乗り手は振り落とされて悲鳴を上げた。
「なんだ、これは――一体何が起こっている!?」
異変はなおも続く。
轟音と共に地面がメリメリと音を立てながら裂け、その中に木々が、そして巻き込まれた人や馬が落ちていく。
大きな地割れは彼女と父親の死体を中心として放射状に広がりそこから何かが飛び出した。地面の裂け目から現れた影が空を旋回すると、月明かりの下で翼が羽ばたく。
鳥にしては柔らかみに欠けるシルエットは、長い首と尻尾を持つ。かろうじて地上に残っていた数頭の馬が、尋常でないいななきを上げて走り去っていく。空を舞う獣の吠え声は案外と鳥が歌うような優美な響きを奏でる。しかしそれが鳥でない事は、頭部の角、馬以上の大きさ、全身を覆う滑らかな鱗等から明らかだった。夜の闇で色は判然としないが、身体が動く度にきらきらと月の光が反射する。
「馬鹿な、なぜここに竜が――迷宮が開いたとでも言うのか!?」
ラザルと呼ばれた男が喚いた。悪運の強い、と言われていた通り、今の地割れにも巻き込まれずに済んだようだ。彼の部下や馬達は、逃げたか突如できた地割れの中に吸い込まれてしまったらしいが。
驚愕の声に反応したか、頭上の影が舞い降りた。
素早く滑空すると男に飛びつき、ぱっかり開いた大きな口に男の頭を甲冑ごと収めてしまう。
断末魔は途中で途切れ、何とも形容しがたい耳障りな音が響いた。
竜が乱暴に首を振ると、だらりと力を失った男の身体が投げ飛ばされた。続いてぺっと口から吐き出され、地割れの中に落ちていった丸い塊は、食いちぎられた頭部だったのだろうか? 身体には首がついていない。
ラザルに襲いかかるために地面に降り立った竜の隙を、しかしたった一人残った甲冑の男は逃さなかった。
どこから現れたのか、竜の正面に陣取ったかと思うと低く身をかがめ、下から上に向かって腕を振り上げる。
ピイイイ、と細く響く音は鋭く笛を吹き鳴らす音に似ていた。甲高い悲鳴を上げた竜の体躯から、金色の液体が噴き出す。空に逃げようとする獣を追撃が襲うと、片方の翼が鈍い音を立てて落下した。
「ラザルはどうしようもない男だったが、一応同僚だからな……仇は取らせてもらったぞ」
目の前で繰り広げられる信じがたい光景を前に呆然と父の亡骸を抱えたままだった彼女は恐怖で全身が凍えるのを感じる。
たった一人残った男は先ほど彼女の父を殺した――確かゲントルとか呼ばれていた甲冑だ。
鎧や竜の身体をあっさり貫通したり切断しているあたり、手にしている武器がかなり特殊なものなのかもしれない。
ピイイ、ピイイ、と瀕死の竜が泣きわめいている。
――いや。何かがおかしい。死にかけて叫んでいるにしては、響きに奇妙な規則性がある。まるで何かに合図を送っているような。
「――クソッ!」
違和感に気がついた甲冑がまた腕を振り、竜の喉を掻き切ってとどめを刺したが遅かったようだ。
未だ広がり続ける地面の裂け目から、一つ、二つ、三つ――新たな影が飛び出して月夜に浮かぶ。
互いに呼び交わすように、あるいは合唱するように、旋律を重ね、響かせる竜の数は最終的に五体。
「なるほど。やはり迷宮の至宝を得るとは、命を差し出すことと同義らしい……」
空を見上げた甲冑の男が、自嘲のようなくぐもった笑いを漏らす。
竜達は隊列を組むように円を描いて飛びながら、喉を震わせるような音を出し始めた。
すると彼らの喉が、そして口元が光を発し、それはだんだんと大きく強く育っていく。
空に浮かぶ相手を、地上の人間がどうしようもない。
仮に一匹撃ち落としても――仮にもし、この後運良く全部倒せたとしても。きっと男が倒れない限り、地の裂け目から竜は現れ続けるだろう。
その予感が思いついたためだろうか。甲冑の下で、殺した相手の死体をちらりと見やり、男が疲れた笑みを浮かべたような気がする。
「殿下。もっと早く、あなたを殺す覚悟が
竜達の口から一斉に光が放たれた。それは四方から騎士に直撃する。
ジュッと音が鳴った。光の中で声もなく人の姿が吹き飛ぶ。
暗闇が戻るとそこにはもはや何も存在していなかった。
いや、きらきらと、短剣が光り輝きながら地面に落ち、割れ目に吸い込まれるように消えていく。
竜達が鳴き声をピイピイ上げつつ降りてきた。
竜。ドラゴン。トカゲのような顔に二つの翼を持ち、迷宮で人の味方にも敵にもなり得る存在。本と父の話でのみ知っていた存在はかつて憧れを抱いていた対象だったけれど、今し方目の前で繰り広げられたのはほぼ一方的な殺戮である。
それらに周りを取り囲まれて、彼女の中で何かがぶつりと切れた。
声を上げる。悲鳴のような、金切り声のような、言葉にならない感情の奔流。
ところが口から出てきたのは知らない音だった。見下ろした先、誕生日のドレスがぶちぶちと音を立てて裂かれるのが見える。華奢な白い肌は瞬く間に膨張して鱗で覆われ、もがく手に鋭い爪が現れる。同じく背中が破れ、そこから何かが飛び出た感触がした。痛みはない。痛みがないことが、逆に違和感と異常感を増幅させる。
口を開け、悲鳴を上げれば、それはもはや獣の咆哮と化している。ついでに炎の塊が喉の奥から漏れて吹き出る。
竜達の瞳にちらりと映った自分は、もはや人の形をしておらず、彼らと同じような角と牙と翼と四つ足を持つ生き物に変貌していた。
たたらを踏み、慌てて父に飛びつこうとするが、この大きさの身体では潰してしまうし、手は鉤爪のついた危険なもの、おまけに口の炎も危ない。
しかし、かといって周囲で何かわからない音を立てている竜達に近づくのも怖い。そもそも彼らがおかしな歌を奏でているから、自分はこうなってしまったのではないか。自然と慣れない身体で逃げ道を探して後退を続ければ、いずれは周囲の割れ目に後ろ足が、ぴんと伸びた尻尾が達して、びくんと身体が止まる。
ちらりと見れば穴の底は真っ暗、何も見えない。そういえば落ちていったものたちのその後の音も聞こえない。
後ろにも、前にも行けない。動けなくなり、自らの声にすら怯える彼女は、思いがけない感触にさらなる咆哮を上げた。穴から黒く、影のような手が伸びてきたかと思うと、彼女の身体を捕まえたのである。
変貌した身体を必死にばたつかせて抵抗しようとするが、幾重もの手が彼女に絡みつき、穴の中に引きずり込む。
地上から穴を覗き込む竜達が、歌を歌っている。どこかで聞いたような旋律。どこかで、どこかで……。
紡ぐ思念はどこにもつながらない。叫ぶ声は誰にも伝わらない。もがく手は誰にも届かない。翼はただ背から伸びているのみ。
どこまでも、どこまでも、影に引かれて落ちていく。底がいつまで経ってもやってこない――。
……前も後ろも、上も下も、右も左もわからない。
暗闇の中、誰かが歌を歌っている。
聞いたことがある。そう、絶対にどこかで聞いた。けれど思い出せない。あれはいつのことだったろう?
懐かしい旋律に耳を傾けているうち、自分の感触が、感覚がなくなって、騒がしい感情が全て薄れて消えていく。
残酷でありながら慈悲深い闇の中。
幾重もの手は大事に竜に変じた娘を包み、安全な自らの胎内に攫っていく。
迷宮の底。始まりと終わりの場所。
手の群れ達は丁寧に翼を折りたたみ、身体を丸め、目を閉じさせて、繭であり卵である揺り籠、黄金色の羊水に浮かべる。
――ああ、ここにいる限り安寧で、平和で、幸せで。
――そして、果てなく退屈だ。
ぼんやりと、うとうととしたまま、どこからか流れてくる不思議な響きを聴いている。
――愛しい人。終の人よ。あなたがいなければ、星は見られない。星はもう、見られない。
旋律は安心するのに、なぜか詞に胸が詰まる。意味はわからない。けれど歌っている誰かが、深く傷つき嘆いていることはわかる。
優しくも悲しい子守歌。それともこれは、死を悼む鎮魂歌。
(ああ、でも、この優しさの中に包まれて、全部忘れて眠りたい……)
だって、あまりにも辛いことと、わからないことばかり起きたから。
(もう、疲れた。疲れたの……)
ほろりと涙を一滴こぼしてから。
姫は、竜は、深い眠りに沈み込んでいった。
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