一章:若竜 目覚める

若竜 目覚める

 彼女が眠りに落ちる前に最後まで意識し続けていたのが音ならば、意識が覚醒する最初のきっかけとなったのもまた音だった。


(……誰?)


 最初は今まであった幾多の些事のように、無視をして幸福な惰眠を貪ろうとしていたけど、一度気になる方に感情が傾くと無視ができなくなる。

 ぼんやりしていた彼女の自我が、聴覚情報をたどってだんだんと輪郭を取り戻していく。


(なんだろう? どこかで、聞いた……)


 ぴくぴくと耳が動く。うっすら目を開けると、黄金色の液体がゆらゆらと揺れている。こぽこぽ、と安心する水音の向こうから、ピイイ、ピイイ、と高い音が届いてくる。


(そうだ。あれは確か……)


 途端、頭に鈍い痛みが走った。まるで誰かが、あるいは自分自身が、思考を紡ぐことをやめさせようとするかのように。


(そうだ。わたくし、竜に……)


 ズキズキと痛みを放つ鈍い思考でなんとか考えようとする。

 まだ動かしがたい身体は、知っていたものより随分と膨らんで、背中には確かに二つの翼の感覚がある。


 全部、夢だったなら。

 連れ出された夜。

 甲冑の男達。

 倒れて動かなくなる父。

 竜達の歌う声。

 果たされない約束……。


 あれが全部、悪い夢だったなら。そう思って、眠りについた。

 だがどうやら、起きてもまだ悪夢は続くらしい。だんだんと思い出してくる。


 がっかりした、というのが一番素直な感想だが、思い出したということは悪いことばかりでもない。自分の眠気をゆるやかに覚まさせた物の正体は記憶の中にあった。


(あれは、竜の声? 仲間を呼んでいる……)


 ピイイ、ピイイ。

 高い笛のような響きは、あの夜確かに竜が、竜達が喉を震わせて奏でていた音色だ。

 警鐘という表現がまさに近いだろうか。耳の奥に残り、注意を喚起させる。


(でも……なぜだろう。この胸のざわめきは、なんだろう?)


 身体を丸めたまま、彼女は自分の胸に宿る不思議な感覚に困惑する。


 喉の奥に小骨が引っかかったようで、落ち着かない。

 それでいて、けして不快ではなく、かといって快と呼ぶには刺激が大きい。

 不安ではないが、安心するには心音が少しうるさい。

 恐怖ではない。恐れるものではないと知っている。

 驚きにも近いが、そこまで激しくはない。


 一体これは何だろう……。

 考え込んでいる間に、いつの間にか音が消えていた。


(あ――待って。お願い、消えないで)


 咄嗟に、ほぼ反射的に。

 追いかけるように、追いすがるように。


 もがくように黄金色の液体の中で身動ぎした彼女の喉から、高く澄んだ音が鳴り響いた。

 それは先ほどまで聞こえていた音ととても似た調べで、空間を渡っていく。


 慣れない身体に戸惑いつつ、何度か同じ音を繰り返してみる。

 しかしそれはまるで吸い込まれるかのように消えていって、彼女が黙り、余韻も消え去ると後は空しい沈黙のみが残る。


(……行っちゃった、かしら)


 ぽつりと取り残された彼女を、再び眠気が包み込もうとする。

 彼女はゆっくりと瞼を下ろし、気持ちと共にまた深い暗闇の中に沈んでいこうとする。


 ――ところが。


(――! また、聞こえた!)


 ぱっと黒色の瞳が開き、輝いた。


 また同じ音。

 遠くから、微かにではあるけれど、確かに誰かが呼んでいる。


(ここよ――ここにいるの。わたくしはここにいる……)


 彼女が喉を、身体の奥を震わせれば、誰かが震わせた音は応え続ける。

 意識は大分はっきりしてきたが、手足は動かない。彼女は鳴く。鳴き続ける。それしかできない。愚直に続ける――。


 音を出しているのが誰か知らない。

 音の意味も知らない。

 この行動がどんな結果を導くかわからない。

 危険や無謀という可能性が脳裏をよぎらなかったわけではない。


 だが、片方が呼べばもう片方が呼ぶ。相手が鳴らし続ける限り、自分もやめられない。どきどきと胸の奥が高鳴る。


(だって、知ってる。わたくし、知っているんだから)



 頭の中に蘇るのは、いつも一人の光景だ。


 ――サビシイ。

 塔の中に一人。ずっと一人。外に出ては駄目。外では生きていけないから。

 本を手に、空想の翼を羽ばたかせる。見知らぬ世界に憧れる。いつか、きっと。夢を見る。理想だけでできた、幸せな夢を。


 ――サビシイ。サビシイ。

 それでも、ふと、静けさに気がつくことがある。彼女の独り言には誰も答えない。大好きなお父様がいるときでなければ、誰も……。


 ――サビシイ。サビシイ。サビシイ。

 お父様はいつ会いに来てくれるのだろう。いつもいい子にしているのに。無理矢理引き留めて困らせることもなくなったのに。

 相手がいなくても独り言は欠かさない。お父様がやってきた時に、喋り方を忘れていたくない。誕生日プレゼントの一つの手鏡で笑顔の練習だってばっちりだ。


 ――ああ。でも。だけど。

 本当は寂しくてたまらない! 気が狂いそう! 泣きたくて仕方ない! 眠ってなんかいられない!


《おねがい! ひとりにしないで! もう、おいていかないで!》



 迷宮の底に脚を踏み入れた者達が希望を求めて吹き鳴らすそれに似た音は、懸命な祈りに似て、絞り出した叫びのようでもある。


 人であったときは、分別と気品をまとっていた頃は、笑顔の中に隠してけして言えなかったことが、言葉を失った今、感情の波となってほとばしる。



 相手は彼女を無視せず、どころか積極的に応じているようだ。


 応える音は気のせいではなくどんどん大きくなり、確実に距離を縮めてくる。


 それがより一層、彼女の気持ちを高ぶらせる。


 脈拍を早める奇妙な感情の名前はわからないままだ。

 けれど、この音を絶やしてはいけない。呼び続けなければいけない。それは、漠然と、それでいて確かに、理解することができる。


 互いに呼び続けて、ずっと返し合い続けて、何度繰り返しただろう。


 呼ぶ音に混じって、別の音が聞こえてきた。水の音だ。水をざぶざぶと、かき分けるような音。


 本能で、直感で、ますます距離が縮まっていることを悟る。

 少しの間――待っている方にしてみれば、永遠にも感じられた間の後。


 音が鳴った。触れられそうな距離で、優しく誰かが彼女を呼んだ。

 呼応するように身体全体を震わせれば、彼女を包む液体が、膜が、揺り籠全体が震える。

 身動ぎすると、今までとは違う感覚に気がついた。


(動く! 身体が、動かせる!)


 今まではピクリとしか動かなかった筋肉に、確かに力がこもる。彼女はじたばたともがいた。すると、周りでビシビシと何がヒビの入るような音が聞こえてくる。


(あと、ちょっと!)


 ぐっと力を込めると、破裂音と共に浮遊感。投げ出された彼女は再び液体の中に落ち、慌てて身体を起き上がらせようとする。


(ええと、ええと……変な感じ! どうすれば立ち上がることができるの?)


 人間の時は二足歩行が普通だったが、この身体は四足が基本な上におまけの翼まであると来た。


(これは腕? 違う、翼! やだ、バランスが取れないわ! ああもう、違うわ、尻尾を動かしたいんじゃないの!)


 四苦八苦しながらなんとか平衡感覚を得て身体を起こし、何度も目を瞬きさせて視界を取り戻す。


 ぱちぱち懸命に瞬きを繰り返してようやく手に入れた視界に、黒い鎧を身にまとって立ち尽くす男の姿が入って来た。


(お父様――お父様だわ!)


 彼女は喜びの声を上げる。


 やはりそれも、人の言葉では鳴く竜の鳴き声として喉から出てくるのだった。

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