選ぶのは 選ばれたのは
デュランはしばらく黙り込んでいた。
迷宮の最奥――そこでは全ての望みが、願いが叶えられると聞いていた。
至りさえすれば、手に入らないものはないのだと。
けれど今、選択を求められている。
大勢の未来か、個人の欲望か。
(領主子息として、であれば。選ぶのは未来だ。千年前と同じように、完璧な神様になって救ってくださいと願う――それで全て終わる。全部、元通り)
確実で堅実な方を選べ、と理性は言う。
デュランはこの場に一人で来たわけではない。
大勢の人が、彼ならば事態を解決してくれるに違いない、と背中を押してくれた。
一度は命の奪い合いをした相手も、デュランであれば女神の元に至り、正しい願いを叶えることができる――そう信じたからこそ、命を賭して力を貸してくれた。そのはずだ。
個人的な妄執など、取るに足らない、些細なノイズ。
「勇者よ、あまり時間もありません。今この瞬間でさえ、迷宮の権限は次代管理者に移りつつあります。わたしが無条件で管理人となれるのは、この一時だけ……」
立ち尽くしたまま黙り込んでいると、静かに娘は告げる――否、催促してくる。
彼女自身に力があっても、祈る人間がいなければ事をなし得ない。
それが迷宮に閉じ込められた女神イシュリタス、そして次代の女神イシュナンナという存在なのだろう。
――選ぶしかない。最悪の未来を回避するために。
ザシャ=アグリパ=ワズーリは勝者の権利に迷宮の掌握を望んだと聞く。
あの男に人類の未来を預けることだけは、断じてあってはならない。
「勇者よ、決断を」
恋しい声で彼女が呼ぶ。どこか寂しそうにも見える微笑を浮かべたまま、手を差し伸べてくる。
――最初から決められていた運命。きっとデュランは、イシュナンナを神にするために選ばれた存在なのだ。人類のために、ここにいる――。
(…………)
「どうしました、勇者よ。何をためらっているのですか」
差し出された手に、重ねるための右手。
なのにどうしても、体が動かない。
穴が開きそうなほど娘の手を見つめているのに、握り拳は緩められず、じっとただそこに重たくとどまっている。
まるで何か呪いにでもかけられたかのように。
(……のろい? のろいって、なんだ?)
意思を持って未来を選ぶ。
それは尊く、賢く、定められた行いである。
領主子息は模範的でなければならない。
有事に最高の決断をすると信頼されているから、今まで多少の好き勝手が許されてきたのだ。
正しき願いを、決められた通りに受け入れよ。それ以上の事はない。
(本当に、そうか? 正しいって、何だ)
直感の警告か、あるいは魔の囁きか。
規範的思考が連ねる文字の並びに、一筋の違和感が異を唱え、影に鋭い針を突き立てている。
ぎゅっと眉を顰めるデュランをどこか困ったような目で見て、娘は静かに優しい声を上げた。
「勇者よ。一体何を恐れているのです? わたしはこれ以上、あなたから奪えるものはありません。あなたが今手にしているものは、あなただけのもの」
(女神イシュナンナに祈りを捧げても、俺の中のシュナは消えない。俺が覚えている限り、シュナは俺の中に――)
「それじゃだめだ」
思うよりも、感じるよりも先に、腹よりもっと内側から、するりと言葉が滑り出た。
娘が虚をつかれたような顔になったが、最も驚いたのはデュラン自身だ。一方で、納得が落ちてくる。言葉を噛みしめるごとに、自分自身の心を思い出す。
「――それじゃ、駄目だよ。足りない。俺の中だけの君じゃ……俺は満たされない」
「勇者よ……?」
第六階層――闇黒の間で、己自身の内側のシュナと対話したことを思い出す。
何度も何度も己の無力さを感じた。ここで終わりだ、ここが手を打つところだと賢い誰かが言ってくる。
「俺は死ぬ気で、それこそ何度も死にかけてまで……君にどうしても会いたかった。君の事が知りたくて……その
「知りたい? わたし――わたしは、第二迷宮統治機関――」
「君にそんなことを言われるために、そんなことを言わせるために、ここまで来た訳じゃない、シュナ!」
絞り出された唸るような声に、娘は大きく目を見開いた。
デュランは笑う。口角だけつり上げた表情は、ともすれば極悪人のようでもあった。
「そもそもさ。俺は欲張りなんだ。世界がなければ君と生きる意味がない。君がいなければ世界がある意味がない。どちらか一つ選べなんて言われても、片手落ちだ、呑めないよ。……そんなちっぽけなもののために、命を賭けた訳じゃない」
金色の双眸に射すくめられると、手を引っ込め、びくりと体を震わせる。
その、怯えるかのような仕草はどこか奇妙に人間的だった。
「それに、俺は自分の願いを叶えに来た――ずっとそう思っていたし、それも間違ってはいないはずだ。だけど、そうじゃない。それだけじゃない。ここは始まりでも、終わりでもない。きっと通過点だ」
「…………?」
「シュナ。君が忘れてしまっても、俺はよく覚えているよ。俺たちの始まりは、君が俺を呼んだんだ。あの穴の底、深淵の一番奥から」
いつの間にか、娘は胸元で握りしめるように両手を合わせている。
デュランは胸元を――首の周りに手を回してから、それを握りしめた手ごと彼女に差し出す。
「君の声が聞こえた。君が俺を呼ぶ声が。あの日からずっと――憑かれように迷宮をさまよって、君の姿を探していた。君の事が知りたくて」
薄暗く狭い母の胎内で微睡みながら、彼女は泣いていた。
寂しくて、寂しくて、たまらなくて。
だから、か細い音一つに、縋って、追いかけて。
――造られ、生み出された娘の中に、不思議な色が宿っていた。
記録として、目の前の青年とどう接したのか知っている。
けれど、何か――もどかしい、何かが。
「俺は君に望みを叶えてもらうんじゃなくて、君の望みを叶えたい、シュナ」
「――わた、し?」
「君は女神になりたいのか?」
「……次代統治機構としての演算結果は、わたしが管理者となることで――」
「シュナ」
それはけして責めるような口調ではなく、むしろ今までで一番優しい語りかけの言葉だった。
そして彼は、晴れやかな――まるで雲一つなく晴れた日の空のような、屈託のない笑顔を浮かべ、言う。
「俺と一緒に、進む
記憶には残っていない。
記録も定かではない。
けれど、その笑顔は確かに――あのときも、そして今も、彼女を惹きつけ、安堵させ、そしてその手を取ってみようと、思わせる力があった。
だから、次代の女神イシュナンナは、竜騎士の手を取った。
その手の中の逆鱗に、かすかに震える指先で触れる。
「――わたくしを」
声も掠れ、伏せた睫も揺れていた。
理屈と数字で説明できない現象に戸惑いながら、女神の娘は選択のための準備を説明する。
「思い出させて」
それで何をすればいいのかは伝わったらしい。
竜騎士は一度娘の触れた笛を握り直し、口に含んで優しく息を吹き込む。
最初は高い音がピイ、ピイ、と鳴るのみだった。
次第にそれは共鳴する鼓動に似た響きとなり、娘自身の命の音と重なる。
見つめ合えば言葉はもういらない。
手を重ね、体を寄せ合い、唇を合わせた。
笛は溶けるように娘の喉奥へと消えていく。
ごくり、と喉が鳴る音がした。
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