迷宮の眠り姫は竜騎士の呪いを解く

 生命を維持するためのものは必ず喉を通る。


 飲み込んだものは温かく脈打ち、腹の中に落ちて溶けていく。


 濁流のように、記憶が、体験が流れ込んでくる。


 生まれてから今日まで――女神と彼女の領域たる迷宮が経験してきた時間に比べれば、あまりにも一瞬のひとときだ。

 けれど“シュナ”にとっては、この十八年、更に言うなら塔を出て百年の眠りから覚めた数ヶ月が、千年よりもずっと長く感じられるほどに、濃く、強く、尊いものだった。


 快を。不快を。驚きを。

 喜びを。悲しみを。怒りを。恐れを。痛みを。……愛情を。


 大事にしたい、慈しみたいだけではない――これでなくてはならない、これは自分のものでなければならないのだという執着心すらも、今なら体験し、自分のものとして知っている。


 死と生を思い出す。

 産声を上げた時の苦しみと感動を。



 娘がうっすら瞼を開けると、見慣れた赤髪の男が間近に映った。


 以前であれば驚き、すぐに離れようとしただろうが、彼女は男の首に手を回し、貪るように更に深くへと繋がりを請う。


 頬に、耳に、髪に、首に、肩に、背中に、腰に。

 余すところなく互いの輪郭をなぞって確かめていく。

 ぴったりとくっついていた。まるで一つのもののように。


 ようやく呼吸を思い出すと、彼はうっすらと金色の瞳を開け、ごくごく小さく問いかける。


「……戻ってきたのか?」

「ええ」


 ごく近い場所で、娘の瞳がきらきらと輝いた。

 夜空のように深い黒色の瞳には、幾多の希望と好奇心の光がきらきらと輝き、どんな星空よりも深い宇宙がそこに広がっている。


「ええ、そう――、デュラン」

「――シュナ」


 くしゃりとデュランの顔がゆがみ、彼の目からひとしずく涙がこぼれる。流れた水滴を唇で吸い取った娘は再び口づけを送る。今度は軽く何度かついばんだだけで離れた。

 一度互いの顔がきちんと確認できる距離まで体を離すと、まじまじ娘をのぞき込んだ男は困惑するような表情になる。


「ええと……トゥラ?」

「そちらの方が好き?」


 ふっと笑んだ娘は自分の髪に指を通す。すると青空のような青い色が、一点して漆黒に変わった。同時に娘の顔かたちも変わり、左半分に痣の模様が浮かび上がる。


 それは紛れもなく、迷宮領子息が発見し、大事に手元に置いていた娘の姿だった。


 この場所に至る過程で、自らの隣にいたもの達の正体を知ったデュランだが、さすがに目の前で変化されたのは初めてだ。


 うろたえるように瞳を揺らした彼に、娘が更にいたずらっぽく笑みを深める。


『それともこちらの方がいい?』


 今度の声は、音ではなく直接頭の中に響く。

 娘の姿は影に溶け、彼女がそれまでいた場所に青色の小柄で優美な竜が在った。


 百年の眠りから覚めたばかりの頃は驚き拒絶した竜の体も、たやすく使いこなされている。

 今であれば、地上で変化することも言葉を操ることもできる確信がある。


 固まっていたデュランはぺろりと竜に顔を舐められると、手を伸ばし――首筋を撫でてから、ようやく再会できた唯一無二の相棒を抱きしめる。


「……どの君も好きだ」


 以前、痴話喧嘩の引き金になった台詞だ。けれど今のシュナは素直に、どんな姿でも変わらず自分を愛するという言葉に喜び、満足そうに喉を鳴らす。


 再び青い髪の娘の姿に戻った彼女は、手を取り抱きしめようとするデュランを止めるように唇に指を当てた。


「わたくしもとても残念だけど、これ以上はあまり時間がないわ。わたくしはシュナ。ファリオンとイシュリタス娘であり、何者にもなれるシュナ。でも今はまだ、次代の女神ではない。……あの人を止めないと」


 デュランは途端に蕩けた表情を引き締める。領主子息、そして竜騎士としての男の顔になった。


「――ザシャか。今どこに?」

「ここではない、迷宮の奥。……いけない。彼は地上に出るつもりです」


 全権継承はできていなくとも、イシュナンナは先代女神の直系――ゆえに迷宮の様子がわかるのだ。

 デュランは考え込むように顎に手を当てた。


「ザシャは女神の死を対価に、迷宮の管理権を要求し、それが通りつつある――シュナ、それなら逆に、奴も迷宮のものになるってことだよな? だったら、絶大な力を得るだけじゃない。迷宮の制約――何人たりとも外に出ることあたわず、の適用対象にもなるんじゃないか?」

「デュラン、“外”ってどこのことを言っているのだと思う? 境界線なんてね、曖昧なものでしょう。人間の領土と同じなのよ。千年間、迷宮の内と外のルールは安定していた。だけど今は崩れている。ただでさえお母様がもう、今までの”外”に溢れてしまった後だもの。それにお母様だってもう、侵攻を開始していた――だから仕事をその引き継ぐのは、本当に簡単なことなの」

「奴は根っからの人殺しだ。力を手に入れて、できる限りの死体を積み上げるつもりだろうな」

「それだけじゃないわ。今の迷宮はね、圧倒的にリソースが足りないの。わたくしがいる状態でただの人間が引き継ぎに名乗り出たのだもの、神格が足りない。――簡潔に説明すると、彼は正式な迷宮管理人としてシステムに自己を容認させ、力を使うためにも、迷宮領の生け贄を必要としているのよ」

「――わかった。俺はあいつを止めに行く。どうすればここから奴の居る所まで行ける?」


 決意をたたえた男に、迷宮の娘は柔らかな表情を向けた。


「今はまだ、彼の居場所がダイレクトにはわからない。わたくし達は共に次代管理人候補者――力が拮抗しているのです。彼もわたくしをまだ直接は攻撃できないし、わたくしもそう。だからまずは、あなたを地上にお返しします。そこで彼が人に向ける破滅の使者達を撃ち払ってください」


 娘はそこで一度言葉を切り、涼やかな声で「ティルティフィクス」と最も若い竜を呼んだ。

 ずっと側に控えていた白竜は音もなく飛んできて、真の主人に頭を垂れる。


「“保護”――それが生まれてきたあなたの役割でした。今から新たな役割を命じます。“守護”しなさい。わたくしが、そしてわたくしの隣を歩むものが守りたいと望むもの、すべて」


 竜の顔に触れた女神の娘が言い終えると、真白い体が光り輝き、金色の帯のような模様が広がっていく。

 白地の体に金色模様の新たな体を得て、ティルティフィクスが高らかな吠え声を一つ上げる。


 シュナはデュランの方に向き直り、静かに口を開いた。


「五年前、女神はあなたからかけがえのないものを奪った代わりに、無双の鎧を貸し与えた。鎧なき今――あなたから取り上げていたものを、お返しします」


 ティルティフィクスはシュナの横からぺたぺたと音を立てた歩み寄り、デュランの目の前までやってきて頭を下げる。


 それはかつて呪われていた彼にはあり得ない距離の接近であり、また竜が人に背を許す姿勢だ。


「デュラン=ドルシア=エド=ファフニルカ。新しき人の子よ――どうかわたくしを助けてください。至高の竜騎士として」


 赤髪の男の体に走った震えは、与えられた責任感への重責か、それとも期待への興奮か。


 女神との戦闘中、事故のように、暫定的に与えられていた偶然が、迷宮の眠り姫によって――必然の竜騎士復活に変わった瞬間であった。

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