姫 現状整理
命の終わる間際、彼は何かを言いかけていた。
――星を……。
正気と狂気の狭間、彼女は歌い続けていた。
――星はもう、見られない。あなたがいなければ。
――本物の星はもう、見られない。
記憶の中、彼と彼女は偽物の夜空を見上げ、手を重ねて別々のことを考えていた。
――いつか、星を見に行きたいな。満天の星空を、君と一緒に……。
――叶わない夢。わたしはここからけして出られない……。
……ああ。父があの時、虚ろな目で瞼の裏に何を見たのか、何を追っていったのか。
――シュリ、星を見に行こう。一緒に外の世界の星を見に行こう。
手を握って囁いた、儚い夢の名残。
砕けた小さな希望の欠片。果たされなかった約束。
きっと、シュナといる時も、シュナの見えない場所にいた時も、彼の心から片時も、情熱の炎は消えることがなかったに違いない。
どこか、遠い場所をいつも寂しげに見つめていると思っていた。母を見ていたのだ。母と見つめるはずだった、幻の星空を見上げていたから、あんな深く暗い瞳の色をしていたのだ。
……それは素敵で、ロマンチックなことにも思えたけれど、同時にとても寂しい気持ちにさせられた。
だってきっと、彼の生涯の一番はシュリでイシュリタスだった。ずっと見続けている夢――あれが両親の過去であり真実であった、そこに嘘はないとはっきりシュナには感じ取ることができる。
一番は一つ。二人いれば、片方は一番ではない。
シュリがファリオンの永遠の一番だったならば、娘は? シュナは? 彼にとって、何の価値があったというのだ?
優しく、大事にされていた自信がある。けれど同時に、いつも距離を感じていた。けして自分が立ち入ることのできない何かが父にはあった。それは“大人の事情”なのだと幼く無知だった頃の彼女は解釈していた。十八歳の誕生日に、きっと全部を分け与えてくれるのだと、疑うことはなかった。
けれど今ならわかる。この溝は永遠に埋められなかった。
……いいや。子どもの時だってわかっていた。困ったように微笑む顔を、何度見たと思っている? 都合良く見なかったことにしたふりをし続けていただけ。自分も、父も。
(けれどもう、嘘はつけない……)
うっすら瞼を開く。ベッドの中で、まだまだ見慣れない、けれど自分に割り当てられた場所なのだと認識できるようにはなってきた天蓋を、天井を見上げる。
不思議と今度は涙が出なかった。悲しいのに、胸が痛くて苦しくて切ないのに、シュナの心だけがしくしくと泣いて身体には出てこない。同時に自分が何者であるのか、確かな答えを得られたからだろうか。
(ああ、でも、きりがない。一つのなぜの答えを得る度に、もっともっと多くのなぜが浮かび上がるわ)
彼女は呻いてそっと顔に手を当てた。
自分が、間違いなく、人間のファリオンと女神イシュリタスその人の娘であるならば。
まず、そんなことは可能なのか。
結局父と母が何者だったのか、何者なのかだって、きっと全部わかったわけではない。
なぜ、父はシュナと二人暮らしだったのか。
おそらく母と別れなければならない理由があったのだろう。それは何だ?
だって二人とも、記憶の中で、お互いを想い合っていた。少なくとも二人の情が違えたから一緒にいられなくなった、ということではなさそうだ。
なぜ、父は地上で他人から隠れて、シュナを隠して暮らさねばならなかったのか。
父を追ってきたあの者達は何者か。誰が父を、シュナを狙っていたのか。何のために。
結局あの時、何が起きたのか。
自分が眠りに落ちて覚めるまで、何があったのか。何か変わったのか。それとも変わっていないのか。
母は今、どういう状況なのか。
シュナのことをどうしようとしているのか。
……そしてそれらの疑問に、仮にもし全て答えを得られたとしても、一番シュナの知りたいこと、シュナは何者で、どうすればいいのか、という答えは得られない。それはきっと、シュナが悩みながら自分で考えなければいけないのだ。
(でも、得られた情報から、まとめて導き出された答えから、一つだけはっきりしたことがあるわ。やはり……わたくしが、トゥラがシュナであることは、迷宮の外の何者にも知られてはいけない。お父様は言った。デュラン達も、竜のわたくしに繰り返した。竜達だって、それに近いことを言っていた。迷宮から産まれた者は、何者も外に出られない。迷宮の主たる女神とて、この法則の例外ではない――)
心の中で繰り返すと、その事実はひんやりと彼女の胸を、身体のどこか深い内側、底の部分を冷やして震えを起こさせた。
シュナという存在は、常識を、自然を冒す。
彼女が塔から外の世界に出たとき、大きな衝撃が襲った。今も自分の元の常識が通じない事ばかりで、戸惑いは大きい。
仮にもし、シュナが、トゥラが、己の正体を明かしたなら、シュナが感じた驚きと似たようなことを周囲の人間達全てが感じることになる。
――それは。
どれほど恐ろしいことなのか。顔から血の気が失せ、頭がぞわっと冷えるのを感じる。
(たとえば、
デュランを初めとして、シュナの周りの人間達が彼女にとても好意的なこと、きっとシュナが今置かれている状況はものすごく奇跡的で、恵まれている状況であることは、世間知らずなりに感じ取っているつもりだ。
けれどそれらはすべて、たとえどれほど怪しく身元不明であろうとも、トゥラという娘が普通の人間であることを前提としての好意なのだ。
――母を思う。母の姿を。シュリと言う名から漠然と想像していたのは、自分と似た姿の女だ。
けれど、実際見たあれは人間ではなかった。迷宮の女神は、イシュリタスは人間ではない。明らかに人ならざる者、そして人間にとって脅威である姿をしていた。
今のところシュナの自覚は人である自分と竜である自分だけだが、もしも彼女にも母と同じような姿が更に備わっているのだとしたら。むしろ自覚していないだけで、それこそが彼女の本性なのだとしたら。
……とても。とても明かせない。絶対に言えない。人が竜に、竜が人になるだけでも、おかしなことなのに。
(……戻らなくちゃ。迷宮に、戻らなくちゃ)
全身に感じる悪寒から身を守るように掛け布団をぎゅっと握って身体に巻き付けながら、シュナは考える。
こうなれば、自分が何か――とんでもない例外なのだということがわかれば、もうお母さんの言うことは聞かないだのお外の広い世界に自由に羽ばたいていきたいだの、好き勝手しているだけでいられない。
シュナは今、今まで自分を守っていると思っていたものがそうではない可能性と接している。何なら、父に塔から連れ出されたとき以来、ずっと同じ状況だ。
だけど今までと違う。今は自分が何者なのか、一つ知っている。ならばそこから、まずは自分の正体を知っており、秘密を明かせる相手であり、わからないなりにある程度話のできる相手に、可及的速やかに相談をする必要があると思った。
……竜のシュナにとっても、人のトゥラにとっても、本来一番信頼できる相手は、デュランだが。こればかりは彼を一番にするわけにはいかない。だってデュランはどんなに竜好きでも、迷宮の外の人間だ。
この件について現状一番の適任者は、迷宮の竜達と言えよう。
人間のトゥラについてはともかく、少なくとも竜のシュナについて、彼らはきっとシュナ以上に色々知っている。なおかつ概ね好意的で、会話をする意思があり、シュリから守ってくれたことすらあったではないか。
きっと自分の思考は楽観的すぎず、最適でないにしても上々ぐらいではあるはず。
そこまで考えるとシュナは思考の女でありつつ行動の女でもある、えいやっとシーツをはねのけてベッドから飛び降りようとし――。
すてーん、ばたーん、とそれはもう盛大に音を立てて転んだ。
どうにもまだ人の身体自体にも、家具の取り扱いにも慣れていない。
当然、すぐに駆けつけたメイド達に確保された。彼女の人ならざる声は誰にも理解されることなく、焦れる気持ちを抱えたまま振り出しに戻されてしまったのだった。
新規登録で充実の読書を
- マイページ
- 読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
- 小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
- フォローしたユーザーの活動を追える
- 通知
- 小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
- 閲覧履歴
- 以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
アカウントをお持ちの方はログイン
ビューワー設定
文字サイズ
背景色
フォント
組み方向
機能をオンにすると、画面の下部をタップする度に自動的にスクロールして読み進められます。
応援すると応援コメントも書けます