亜人 回想する 前編

 例えば何者かの伝記を書こうとするならば、いつどこで産まれた、が恐らく最初に書くべき情報になるだろう。


 時を十九年ほど前に遡る。

 所はギルディア領一の部族、ワズーリのねぐら。


 ギルディア領は平坦な土地だ。

 神聖ラグマ法国のような見事な自然の起伏は存在せず、またヴェルセルヌ王国のような豊かな緑も年中は見られない。年中乾いた土地には年に二度嵐が来る。それ以外はずっと、背の低い草がどこまでも広がる、面白みのない土地だ。


 幸い、ある程度水の確保できる場所でなら、育つ穀物と野菜もある。

 ゆえに原始的な人間のルールに則って、ギルディア領でも水を制する者が代々長となった。


 長は自分の一族と家畜を連れて、拠点を転々としている。

 家畜に適度に草を与えながら、己の縄張りの平穏を確かめているというわけだ。


 水源の周り――つまりは街で生きていける者達は、作物の面倒を見ながら、時々やってくる長に従う。かわりに強い長を戴けば、よそ者からの襲撃を心配せずに済む。


 ギルディア領という土地についてもう一つ付け加えることがあるとするならば、ここは魔獣の土地とも言われている。


 王国はそもそも出現する数が少ない。

 法国は術によって生活圏と脅威を切り離している。


 ギルディア領では魔獣はもう少し身近にあった。お互いに狩りの相手であり、時には友とすらなる。


 獣なら人間にも飼い慣らせるが、魔獣はそうは行かない。

 ところが亜人達には可能だった。単に手法を知っている、というだけの話だったのかもしれないが、見た目の差異に加えて魔獣と寝食を共にする、その在り方は人間種との断絶をますます大きなものにした。


 獣を使う獣は他の国の人間から大層忌避される。しかし故郷では地位と尊敬が約束されている。


 ザシャが生まれた領最大の部族ワズーリも、魔獣狩りに長けている、それが繁栄の理由の一つと言ってよかった。


 そして彼らは時に人も狩った。


 ザシャの母親は、もともとそういう戦利品の一つだった。



「皆皆、地獄に落ちてしまえ!」


 泡を吹く勢いで母国語を絶叫する、その女の股からザシャはこの世に生まれ落ちた。


 彼女は涙とか鼻水とかで顔をベタベタにして、大層見苦しく息子をひりだした。

 何人もの男達の見守る輪の中で、大きく足を開かされて、だ。


 通常、亜人は膝立ちで出産を行う。簒奪してきた女に生ませる時も同様。他の人間種と同様、女達と専門家が神域で生命誕生の儀式を執り行い、男達は産室の外で知らせを待つ。


 ところがザシャの母親は待遇が随分と異なっていた。

 何ら合理的理由は存在しない。


 第一に一応は夫という名目だった男が弱虫の性悪で、第二にその父親が残忍かつ悪趣味だったのである。


 何にせよ女が非常に不運だったことは否めない。

 元は王国の船に乗っていた。生粋のお嬢様が、駄々をこね、両親を説得して一度だけ海に出た。それが亜人達の海賊船に拿捕され、娘は故郷からはるか南の乾いた土地に売られた。


 ワズーリの若き首長は見事な金髪と金目を持つ白い肌の女に一目惚れし、市場で犯して連れ帰ってきた。


 そしてねぐらに連れてこられた女を、たまたまご隠居の元首長が見つけて、気に入った。


 他部族との抗争で足を失い、義足になったご隠居はもう草原を駆け回れない。

 だから首長の座は引退したのだが、青白い顔で線の細い若造と、白髪をたくわえても筋骨隆々でなお衰えを見せぬ壮年、どちらが亜人の支持を集めるかなど明白だった。


 だから首長は、お気に入りの妾の部屋に父親が――時に他の男も連れて入っていくのを、黙って見過ごすしかなかった。


 嫉妬は全部女にぶつけた。弱い者らしく、弱者を見分けるのは得意だったのである。プライドのない男だったから、ご隠居のおこぼれに預かれたとも言えよう。


 女はやがて身ごもり、自分の子と断言できぬ夫は吉報に激怒した。

 ザシャの母親はだから、出産に際して辱めを受ける羽目になったのである。



「こんなこと許されない――わたくしは、ソラブシリカ帝国の王族なのよ!」


 女は理不尽な目に遭わせられると、必ずそう金切り声を上げた。


 細身の体に金目と端正な顔を継いだ息子は、繰り返される音の意味もわからぬ頃に、すっかり言葉をそらんじられるようになっていた。


「お前は物覚えがいい」


 そう言って首長の三男をかわいがったのは、ご隠居だ。

 ザシャが幼少期を無事に生き延びることができた理由の一つは、ご隠居の存在があったからだろう。


 それと見た目が細身――つまり、便宜上の父親に比較的近い外見だったのも功を奏した。

 猜疑心の強い男は妾を許すことはなかったが、全く異なる見目でもなかったから完全に否定することもできず、結果三男坊の事は半ば放置という扱いで落ち着いていた。


 父も母も彼を相手にしてくれなかったので、必然的に幼子は甘やかしてくれる祖父のところに日参した。


「ねえ、ごいんきょ。そらぶしりかていこくのおーぞくって、なに?」

「ははは、お前の母親の妄言だな?」

「うん。なにかのじゅもん?」

「あるいはそうかもしれん。北にある国でならばな。あそこは大層そういうものを重んじる」


 膝の上で幼児が問うと、傷だけのごつごつした手で小さな頭を撫でながら、祖父――あるいは父親かもしれない男は、猫を撫でるような甘い声で答えた。


「本人曰く、あれは昔滅びた国の王族の末裔らしい。自分は姫だと気位高く我々を見下しているつもりなのよ。……とは言え、ここまで言い張り通すとは思っていなかったがな。もっと早くに心が折れるかと思いきや、矜持だけは高い。あるいはもう、それしか砦が残されていないのやもしれんが」

「ふーん。よくわかんない」

「世が世ならお前は王子だったかもしれないということだぞ?」


 男は愉快だと言わんばかりに大きな腹を揺らして笑ったが、幼子にはいまいちピンと来なかったようだ。首をかしげ、彼は金色の目を瞬かせる。


「それっておもしろいの?」

おれには面白い。ま、虚言とも言い切れん。あれの乗っていた船はな、どうやら見合いも兼ねていたらしい。婚約者だかなんだか知らんが、大層着飾った男も乗っていたらしいぞ」

「いまはおさかなのえさ?」

「ああ、そうだ。王国の貴族、成人済み、男。そんなものに何の価値がある? 襲ったのが女海賊アマゾネスどもなら、生き延びる目もあったろうがな」

「でも、かあさんだって、にたようなものじゃない? なんのかちがあるの? みため?」


 母親と同じ目をきょとんと見張って、彼は無邪気にそう言葉を放った。


 瞠目した男をよそに、とりあえず自分の興味の話題ではないらしい、と判断した幼児は、男の膝の上で与えられた玩具をもてあそび始めた。


 その様子を見て、ご隠居はまた笑い、抱え直す。動かれた拍子に玩具を落とすことになった彼は、さらにじょりじょりと髭を顔に押し当てられて不満の声を上げた。かまわず、義足の男は愛おしげに大きな手を動かす。


「出てきたときは、小さすぎる、また失敗かと思ったが、お前は見た目と違って中身の方は、あのクズよりもおれに似ている。長の座をくれてやってもいいが、ここは狭すぎるか。もっと広い世界の方が合うかもしれんな」

「とうさんをつげって? やだよ。いろんなひとのかおいろうかがって、いつもあたまさげて、めんどうくさいじゃん。ぼく、もっとたのしいことがしたい」

「ははは、そうだな、そうだろうとも。長なんてものは面倒でしかない、考えによってはな――」


 ――だから、お前は海を渡って北に行け。

 お前ならちんけな一部族なんてものだけじゃない。

 足をなくしたおれよりもっと遠くまで行って、ほしいもの全部、手に入れることができるだろう――。


 酒臭い息と共に耳に吹き込まれた言葉は、そのときはさほど関心を持たれず、適当に聞き流されていた。


 けれど数年後――九つになって、ふとここと違う場所に行ってみようか、と考えた少年の記憶にふと蘇り、道を示すことになったのである。

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