亜人 回想する 中編
「お前の最もいいところは、恐怖心がないところだ。だが恐怖とは限界に対する警告でもある。体の声を聞け。大丈夫と無理の感覚を見極めろ」
老亜人は早いうちに見出した子供の才能を、そんな言葉で引き延ばした。
実際、父親の知れない首長の三男坊には、およそ臆するということがなかった。ご隠居が気に入ったのも、片足を失ってなお恐れられている自分に、幼子が恐怖の眼差しを向けなかったからである。
その態度は、たとえば時折目の前で暴力を振るい、拷問を行い、殺人を犯しても変わらなかった。
――のこぎりで人の首を切る時、血しぶきが顔にかかったまま口にした言葉はこうだ。
「ねえごいんきょ。にんげんって、のどをきったらしぬんじゃないの? あんがいながくいきていたね。それに、しばらくびくびくけいれんするのはどうして?」
それで元首長には、幼子が致命的に生き物としておかしい存在であることが理解できたはずだ。
けれど忌避どころか、ますます溺愛は進んだ。
魔獣狩りの一族の末裔は、魔獣に魅入られる素質があったのかもしれない。
一族最も残虐な首長と呼ばれた男が手塩にかけて育てた孫は、祖父の助言を水を吸い込む土のように飲み込んで、自分の育つ糧とした。
「頭を使え、ザシャ。お前はまだ小さい。でかい奴に勝とうとするなら、ずるくなることだ。だが鍛えておくことも損ではない。暴力は手っ取り早く支配する。初めは身を。そして心を」
老人の期待通り、孫は魔獣狩りでもあっという間に頭角を現した。「新入りの幸運ってやつをご教授願いたいね」と大人達が余裕でいられたのは、わずかな時間だった。
子供は気味の悪いほどに目端が利いた。
誰のどこが弱いのか。それを素早く、確実に嗅ぎ当てる才能があった。
興味を持った対象に対する好奇心と、そのための行動も常人に比べて執念深い。
その上、普通の人間にならば自然と備わっている「このぐらいにしておこう」という感覚が三男坊からは抜け落ちていた。
「――だが、何事も善し悪しだな」
九つになった幼子を呼び出して、白髪の亜人は重々しく言った。
いつものように彼は小首を傾げて、無邪気に真っ白な歯を見せる。
「なんのこと? ごいんきょ」
「
「ふうん。たしかこの前もしていたね、その話。で?」
興味を引かれない、という顔の幼子をじっと見下ろし、義足の男はうなり声を上げる手前のような笑みを作った。
「ザシャ。母親と弟を殺したのは、好奇心を満たすための実験か?」
「ごいんきょ。あれは病気だよ。母さんは自分で死んだ。生きるのがいやになったのさ――」
「他の者にはそれで通用するだろうさ。だが
遮るように声を荒げれば、幼子はあえて逆らうことはしない。口を閉じて、笑みも消した。ただじっと、金色の瞳で老人を見上げる。
「一人目と違って二人目はまっとうな人間だったんだ。戯れに奴隷に輪姦させたことがあったが、上手く当てた奴がいたらしい。何にせよ、今度は生まれてきた赤ん坊を可愛がって育てていたし、何なら生きがいにしていた。乳が出ない程度で大騒ぎだったろう。お前の時にはあんなことはしなかった」
「そうだね。近ごろは口ぐせが、わたくしは、から、この子は、になってた。あのふくふくのやわらかいかたまりに、母さんはべたぼれだった。まちがいないよ?」
「それで普通なら、動機は自分が愛されない理不尽への嫉妬か? と問うところだが、お前は違う。どうでもいい相手に嫉妬なんかするものか。お前はただ、ほんの少し興味が湧いた。家族を殺して得られる自分の変化に。違うか?」
「しっとうんぬん言うなら、まさにてき役がいる。父さんだよ」
「あいつにそんな男気があれば、
幼子は金色の目を細めた。そしてまた、彼はうっすらと唇に弧を描く。
「真実とか事実はどうでもいい。ごいんきょがどう感じるか、それが問題だ」
「ああ、そうだとも。本当にお前はよくわかっている」
「しょけい? それともごう問? どこか体の一部を取る?」
「どれでもない。そういう風になれと育ててきたのは
「――でも、ごいんきょい外のれん中には、そう思えないやつもいる。そいつはぼくを、ころしたがっている。ごいんきょはもう、おさえていられない」
すらすらとよどみなく述べられる言葉を聞いて、老人は深くため息を吐き出し、いつもの自分の席に座り込み、背もたれに深く身を埋もれさせた。
未だに大きな体をしているが、義足ではどうしても駆けることはできず、獣の上での踏ん張りもきかない。
加えて幼児の異常性は、敬われる方の恐れではなく排除されるべき方の恐れとして仲間達の間に広まりつつあった。
直接殺した人数なら、実は案外少ないだろう。何しろまだ十にも見たぬ悪ガキだ。
だが、ささやかな悪意で不幸を招いた数ならば、身内にしろ赤の他人にしろ、既にもう心当たりが多すぎてわからない数に上っていた。
「ごいんきょ。ぼくはね。人が生きているのを見るのが好きなんだ」
朗らかな表情と口調のまま、優しく孫は言った。徒労を顔ににじませたまま、老亜人は語りをどこか意識の遠くで聞いている。
「ただおとろえて死んでいく、そんなのはつまらないよ。どうしても生きたい、こんなところでくたばってたまるかって見苦しくあがこうとする時に見える、あのばく発するみたいな光が好きなんだ。心がドキドキして、切なくキュンとして、ああ、そうかこれが生きているってこと――あのしゅん間だけ、上りつめられる。他はずっと、ただたいくつなだけ」
うっとりと語る様子は、初恋に浮かれる少年の姿にも似ていた。
だが、小さな体にまとわれる圧倒的な虚無感と、その下に煮えたぎる熱の様子はあまりにも危うかった。
「船を用意してある。海を渡れ。少し早いが、成人前の旅に出かけてこい。ギルディアの亜人どもは良くも悪くも単純だ。お前はここでは満足できんだろう」
もはや自分では手に負えない。
そう思ったらしい老人の提案に、しばし少年は黙り込んだまま突っ立っていた。
「それとも、土産に
ふと、疲れのにじんだ顔に凶悪さを戻した老人が、わずかに体を起こして尋ねた。
ぐっと首に力が込められると、血管が浮き出し、びきびきと体の筋肉達が戦闘への準備にきしむ。
きらめく金の瞳でたっぷりと育て親を上から下まで値踏みしてから、少年はようやく笑った。
「やめておく。家族をころしたって、何にもならないってもう知っているからね」
そうしてゆるやかに尻尾を振りながら、九つの少年は故郷を出て行った。
「気が変わって戻ってきたら首長にしてやろう。約束だとも」
「じゃあぼくが大人になってもまだあんたが生きてたら、今度こそ
波止場で皮肉たっぷりに言えば、義足の男は腹を抱えて笑った。
その後どこか寂しげに、ぽつんと一人だけで、船が見えなくなるまで立ち尽くしていた。
こうしてザシャは、最も己を深く理解し、あるいは真に家族と呼べる存在だったかもしれない老人と別れた。
猫をかぶって愛想よくしていると、単身新天地に乗り込もうとする無謀な新入りに、ときまきの大人達の一人が言った。
「そういや坊主、お前も金目だなあ」
「それがなに?」
「いや、何。迷宮領の若様もな、金目なのよ。茶色ならありふれているが、闇の中でも輝く金色ってのは珍しいからよ。ご領主様が何かのよしみでよくしてくれるかもしれないぜ」
「あるいはお友達になれるかもしれない。同じぐらいの年頃だろ? あっちは今年九つだ」
へえ、と社交辞令程度に、海を見つめたまま少年は聞いた。
「そいつの名前は?」
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