姫 水中潜行を身につける
訓練は(主に未知との遭遇について)辛いことも多々あるが、できるようになることが増えるのは楽しい。
《そろそろ空に慣れてきたからまた一つ次の段階に進化しましょうね》
なんて言いながらエゼレクスがシュナを連れて行った先は、氷と水が辺りを支配する――通称大池の間、らしかった。一応水の中に所々足場のような物が浮かんでいるのだが、なんと厄介なことに乗ると沈む。慌ててどいてみればまた浮かんでくるから、沈む前に急いで次の足場に移ればなんとかなるのだろうが……正直、結構な無理難題に思えた。
《竜騎士は飛んでいけるから多少楽ね》
《うんまあ、飛んでもいいけど潜らないと次のマップ進めないよ?》
《え?》
《だから今から潜れるようになりましょうね。大丈夫、僕らにできて君にできないなんてことはないから、君がちょっぴり常識を覆してくれれば何も問題はないよ》
《……えっ?》
人間の時は「大量の水は溺れる」と例によって心配性の父親に刷り込みを受けていた常識を剥がしていくところから始まり、とにかく水の中でも竜は呼吸に問題なく移動することができることを身体に覚え込ませなければならなかった。
エゼレクスが容赦なくシュナをひっつかんで水の中に突撃したのは、説得するより実際身体で学習した方が手っ取り早く効率的だとでも考えたからだろうか。やられた方からしたらかなり焦った。こういう所は鬼教官だと思う。
大量の水の中に身体を全部沈められて最初はかなり焦ったシュナだったが、ピーピー抗議を上げて抵抗を試みているうち、ふと案外自分がけろりとしている事実に気がついた。
空を自由に飛び回るのが竜の本来の姿ではあるが、一定時間以上水中にいると、例の謎の無機質な声が頭の中で響き、身体が水中向けに変わるらしい。
具体的に言うと、手足と翼と尾と体つきが変わった。人から竜、竜から人に変わるのもなかなかショッキングだが、これ以上まだ変化の余地があるのかと小さな竜は戦慄する。
《エゼレクス、あなたなんだか形が変よ! それに、わたくしがまたわたくしじゃなくなったわ!?》
《そうだねえ。シュナは水中形態も可愛いねえ。あとこれは変じゃなくてかっこいいって言うんだよ、ほらお兄様かっこいいって訂正してごらん》
エゼレクスは元々細長い姿形をしているが、それがさらに研ぎ澄まされたような気がする。細かったはずの尻尾の先に、翼に似た形の何かが出現している上、大きかった翼は肩の辺りから伸びるだけの何かの飾りのように頼りなくふわふわ漂っていた。
《翼が変よ。どうやって飛べばいいの? 全然力が入らないの!》
《こやつめハハハ。……いや、っていうか、水中だよ? 飛ぶ必要ないでしょ? ヒレ使いなさいよ。腕と尾ね。そのための
《使うってどういうこと!?》
《そっかあ。この人、これが人生初水泳なのかあ……まあ、死ぬことはないはずだから楽しんで。運動の仕方は多少の理屈は必要でも結局体感を身につけるしかないのさ、好き勝手ジタバタしてみ。どうせそのうち慣れるよ》
シュナがピイピイ鳴いても先輩はのんびり流すだけだった。もうちょっとこの感動と恐怖に同調して付き合ってくれてもいいと思うが、彼にとってはできて当然のことだからさほど、むしろシュナにもさっさとこれが当たり前になってほしいと考えているらしかった。
しばらくジタバタしていた彼女は、落ち着いてくると自分以外の事にも意識が行くようになる。
《もしかして、デュランを乗せて水中を潜ったりできるの?》
《そりゃあ、もちろん》
《デュラン、溺れてしまうのではないかしら……》
《君がちゃんと
ここに来て新事実を教わった気がする。
いや、確かにずっと疑問ではあったのだ。なんであの人達(というかシュナの場合主にデュランだが)、ものすごくラフに乗っているのに背中から落ちられてすら乗っていられるんだろう、と。
ぶくぶく水中で泡を吐きながら、同じく水中でゴボゴボ音を立てているエゼレクスにシュナは首をかしげる。
《でも、落ちることもあるのよね? それはなぜ? 何が違うの?》
《電磁石って知ってる? ……オーケー、磁石は? 方位磁針でもいいよ。ファリオンが見せてくれたこと、ない?》
シュナはきょとんとしていたが、促されて記憶をたぐると思い当たることがあり、ぱっと目を輝かせた。
《お父様が昔、見せてくれたことがある気がするわ。近づけると、くっついたり、離れたりする不思議な石のことよね》
《まあイメージとしてはそれ。というか、元々存在する物って何かしら引き合う力と反発する力を持ってるものなんだけど、
《……重力》
《ざっくり、下に落ちる力。でまあ、
《……つまりデュランは、どの竜にどんな飛ばれ方をしても慌てないってことなのかしら》
途中からぼーっとしかけたシュナだったが、必死に要約してみると、エゼレクスは露骨に不機嫌な顔になったが否定はしなかった。
《だって絶対に落とさないでしょ、迷宮で最も優れた君たちなんだから。あののほほん馬鹿はどうもそういう信仰を宿しているらしいからね。まあ迷宮信仰をお持ちの人間なら、大なり小なり女神様の力は信じているんだろうけど? あいつは特にすごい。まっさら。てか僕たちのこと好きすぎ。でもまあ、竜騎士としては間違いなく大事な資質の一つだよ。でも願いを信じ、貫こうとする者に報いる場所だからね、ここは。だからって過信すると死ぬから人間にはその辺、理不尽に感じられるかもしれないけど》
この前対照的なニルヴァの姿も目にしていたシュナは、なんとなく納得した。
ニルヴァもけして竜に嫌悪感を抱いていたわけではなく――むしろ憧れていたような気がしたが、乗るときの様子はどう見てもおっかなびっくり、不安しかないという感じだった。
(人の不安や緊張が伝染すると、竜も本当の力が発揮できなくなるってこと……面白いわ……)
《水の中、慣れてきた? じゃ、今度は泳ぐ訓練始めますよー》
エゼレクスはシュナの最初のパニックが収まったのを見計らって声を上げた。
水中は通常の地上とはやはり全く動き方が異なってきて、単純に浮かんでいることなら大人しくしているだけで済むから簡単だが、泳ぐとなるとなかなかに今までの常識と動きが異なっていてうまくいかない。
《腕は広げて!》
《進むときはたたむ! 力を抜く! 余計な抵抗をしない!》
《踏ん張るときはしっかりと!》
ピイピイ鳴きながら必死に言われたことを都度修正していたシュナは、やがてエゼレクスの指摘の声が聞こえなくなったことに気がついた。少々びくつきながら彼の後を追って陸に戻ると(ちなみに陸に戻ったらちゃんと最初の普通に飛べる姿に戻った。つくづく竜とは不思議な生き物だ)、ぶるぶる身体を振って水気を払った。
《よーし、やっぱりうちの姫様は世界一だ! 偉いぞ、十分な成果。よく頑張ったね、シュナ》
今度は何を、と身構えていたシュナは、寄ってきたエゼレクスが労うように身繕いを開始すると、一気に緊張が抜けたこともあってとろんと重たい瞼を瞬かせる。
《今日はもう休もうね。でもここで寝るのは問題があるから、場所を移動しようね。あと少しだけ頑張ろうね》
優しく甘い声でささやかれて、飴と鞭ってこういうものなのかしら……と思いつつ、素直な竜は先輩の後に付き従って再び翼を広げた。
《この分なら大火の間デビューもすぐにできるね!》
とうきうき彼が放っていた言葉は、今は全力で聞かなかったことにしようと思った。
新規登録で充実の読書を
- マイページ
- 読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
- 小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
- フォローしたユーザーの活動を追える
- 通知
- 小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
- 閲覧履歴
- 以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
アカウントをお持ちの方はログイン
ビューワー設定
文字サイズ
背景色
フォント
組み方向
機能をオンにすると、画面の下部をタップする度に自動的にスクロールして読み進められます。
応援すると応援コメントも書けます