恋乙女 しごかれる

 さてニコニコしていたシュナにその後降りかかってきたのは、猛烈苛烈な稽古の山だった。


 そもそも手帳を貰った段階で、一週間ともう少しほど経った日に赤丸がついていることは見ていたし、その背後で舞踏会がどうの言う声が流れているのもなんとなく耳に入れてはいたのだ。


 ただ、あまりにも現実的でなかったから、最初は何かの聞き間違いなのだろうぐらいに思っていた。


 だって舞踏会が開かれたとして、連れていってもらえるどころか主役だなんてあり得るはずがないではないか。


 現時点でトゥラは厚遇されている。だからといって自分が彼らに混じって望まれるご令嬢の姿が取れるかと問われれば、シュナはそれはもう自信たっぷりに「まあ、無理よ!」と答えるだろう。


 一般人より常識の欠けている引きこもりでも、舞踏会というそれなりの一大イベントに臨むにしては、人選も日程もあまりに非常識に過ぎるであろうことは容易に想像できる。



 しかしそうやっておっとりのんびり構えていたら、急に室内が慌ただしくなった。男性陣が追い立てられ、残った侯爵夫人もトゥラを急がせて部屋を移る。


(あら。ここはいつか来た衣装部屋だわ)


 華やかな内装と色とりどり並べられた衣服の群れは記憶に優しい。

 が、解せないのはなぜもう一度ここに連れてこられたのかだ。


 まさかあんなに注文したのにやっぱり足りないとか言い出すのだろうか……! と、警戒して身を縮こまらせているところに、これまたいつか見た仕立て人がやってきた。


 シュナにできるのは周囲で忙しそうに走り回る女達の言うことを聞く、ただそれだけである。


 以前のようにまた巻き尺を持ってシュナの周りをぐるぐる回っていた女だが、前回よりもシシリアと一緒にああでもないこうでもない、と何やら小さく言い合っている時間の方が長い。


「やはりもう少し堅実に行くべきでは? これはちょっと、襟が広すぎるのでは……」

「いーえー、奥様! 攻め時ですよ!? 直視できなかったのに後でこっそり寄ってきて『やっぱりこれも……』とそっと奥ゆかしく追加されていったご子息の目をお信じなさいませ!」

「目云々ではなくただ欲望に負けただけではありませんか。いえ、最終的にまあ将来必要になるでしょうし、通していいですよと言ったのはあたくしですが」

「ああん、さすが侯爵家裏の支配人、今日も切れ味冴え渡る返し方ですこと、早速心が折れそう。でもでも、ついでにこまこまとデザインに修正をかけてもここは譲らなかったご子息の要望は是非汲んでいただきたい所なのです!」

「なんとわかりやすい下心なのか、母は頭が痛い……そういう所ばかり父に似て、まったく……」

「でもでも奥様。せっかくの機会ですのよ。ここは、アグレッシブに。仰ってたじゃありませんか、圧倒し、なぎ払い、ねじ伏せる! そのための! 谷間です! 長所は伸ばしてこそ、若さはさっさと使ってこそなのです! けして私個人的に絶対に入れたいデザインだからという理由だけではございませんのよ、オホホホホホ!」


 シシリアは眉をひそめているが、「いいえ結構」とバッサリ両断しない辺り、迷っている所なのだと彼女を知る人間なら推察できる。そのためだろうか、仕立て人は揉み手しながら押しに押している。


 なんとなく会話から話が見えてきそうなような、さっぱりなままのような。


 この場にいないデュランがどこかでくしゃみをしている様子が浮かんできて、くすりと笑いを零しそうになるが、真剣な女達のともすれば殺気伴う目を向けられては敵わないので堪えている。


「大丈夫です、後は微調整段階ですから! 三日前には仕上がりますよ、ええ! 若様がスケベ心を出してくれたおかげですね! 煩悩万歳!」


 などと熱く握り拳を作り、仕立て人は侯爵夫人に元気よく宣言して帰っていった。


 このとき既に首を傾げていたシュナだが、疑問は主に「デュランのスケベ心」の辺りに注目していた。


(スケベってなんだったかしら。たぶんいい意味ではなかったと思うのだけど)


 と顎に手を当てて考えていた辺り、まだまだ危機感が不足していたと言えよう。



 結局なんだったのかわからないけど嵐が過ぎたみたいだし良かった、なんて油断していた娘は、侯爵夫人が更に彼女を追い立てて別の部屋に連れてきた時、ようやく己の見通しの甘さを感じた。


「誰もを圧倒するような優雅な仕草で挨拶して、一曲踊ってしゃんと立っている。最低限そこまでは仕上げますから、しっかりついてくるように」


 と、シシリアが謎の棒を片手で握ってびしりと反対側の手の平に打ちつけいい音を鳴らしたところで「んん?」と引きつった笑顔のまま更に頭の上に飛ぶ疑問符が増す。


 見間違いでなければ彼女が持っているあれ、乗馬鞭って奴だと思うのだが。


 頭の中に浮かんでいたあれこれが、「んんん?」まで進化する前に砕けて飛び散った。そんな余裕はあっという間に吹き飛ばされたのだ。


「お腹の下に力を込めて……入らない? ならば仕方ありません、腹筋を開発しましょう。さ、床に。ええ、横になるのですよ? 何か問題が?」

「大変結構。ではあと十セット追加しましょう。安心なさい、筋トレで人は死にません。悪くて翌日筋肉痛になる程度です。ぷるぷる震えても稽古が緩むわけではないので諦めて努めなさい」

「疲れましたか。よろしい、では十分休憩しましょう。それが終わったら次のステップに移りますからね――そういうお顔はデュランに取っておおき、あたくしには利きませんよ!」


 思わず涙の溜まった目で「もう許して!」と訴えてみたのだが、本人の主張通り全く効果はなかった。こちらを打つことこそなかったが、ヒートアップするとシシリアは乗馬鞭を自分の掌などにぶつけ、それが「パシィン!」とまた耳に痛い音を立てる。


 そうこうしているうちに、シュナは舞踏会が一週間後であること、ファフニルカ一家が冗談ではなく本気でそこに自分を送り込もうとしていることを、戦慄と共に理解した。


 さすが変幻自在、魑魅魍魎のたむろする迷宮という魔境を管理する一族――と、そこに連なりビシバシ男共に檄を飛ばす女傑。常識を求めるのは間違っているのかもしれないと、頭ではなく体で理解した。させられた。



 間にちらほらメイドや騎士達がやってきて世話をしてくれるのだが、皆夫人ともシュナとも目を合わせようとしない。


 前者はたぶん恐怖、後者はきっと助けを求められても彼らには何もできないからだろう。


 合間に食事をしていたはずだが、すっかり放心していたせいでほとんど覚えていない。


 今までの講義だのテーブルマナーだので、どれほどシシリアが本気を見せていなかったのか。


 理不尽の一歩手前というか、絶対に無理! ではなくものすごく頑張って取り組むとできそう、というラインを常に保ち続けるのが彼女の特訓のポイントであるようだ。


 なお強いられている方はすさまじく辛い。


 頭も身体も目一杯使わされ、だんだん自分が今何をしているのかもぼんやりしてくる。しかしそれでもなかなか終わりを許可する言葉が飛んでこない。


 ゴールが目の前に見えているからあと少しと頑張って走るのに、いざ走り抜けようとすると逃げられてしまうような、このもどかしい感覚。


(エゼレクスって実はとても優しかったのでは……!?)


 くらっと目が回りかけると、迷宮で鬼教官と恨めしく思った緑色の竜とて、もう少し手心を加えていたような気がしてきたシュナであった。

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