無力な騎士は娘と出会う
気がつけば漆黒の体躯が覆い被さっていた。
一瞬自失していたデュランはすぐ、それが何者であるかを思い出す。
「アグアリクス――?」
秩序と正統――他竜より一回り大きな体を与えられた女神の腹心は、青年を己の体の下に匿い、簒奪者を静かに見つめていた。
女神の残骸から抉り取った心臓を掌に乗せ、亜人は首を傾げる。
「あれ? 動けるんだ。混沌属性はともかく、秩序は皆女神と直結してるから、行動不能になると思ってたんだけどな。それとも君って管制塔だから指示が別系統なのかな。まあ見た目からして量産型とか違うんだ、非常事態に動けてもそんなには驚かないけど」
大きな黒竜は沈黙を保った。
まるで石像にでもなってしまったかのように、ぴくりとも微動だにしない。
「……沈黙の誓約? まあ、僕と未だに話す気がないのはよくわかったよ、うん――じゃあ、退け」
つまらなそうに目を細めた亜人は、片手に握りしめたままの鞭を振るった。
全竜の中でも屈指の防御特化であるアグアリクスは無言で受け止める。
しかし破壊に特化した特級宝器の害意を、女神の加護を失った体で受け凌ぐのはさすがに厳しかったのか。黒い竜が空に逃げると、うずくまっていた青年の姿があらわになる。
「ザシャ、お前――!」
「やほ、デュランちゃん。君が限界まで女神の力を削いで注意を引いてくれたおかげ。感謝するよ?」
デュランが怒りの声を上げれば、亜人は嬉しそうに笑った。まるで遊び相手を見つけた子どものような無邪気さで、鞭と逆の手――抉りだした心臓を見せる。
「世界は不合理、不条理、不平等――僕は嫌われ者だって、わかりきってたからね。ここに来ようと思ったら、どのみちどこかでリタイアして、監視網から抜けておく必要はあったんだ。とは言え、潜り込めるかなんてわからなかったし、僕は強いけど生き物の端くれだから、先にリソースが尽きる可能性だって充分あった――」
そこで彼は一度言葉を句切り、体を捻った。
殴りかかってきたデュランの背を蹴飛ばし、自分は数歩後ろに下がる。
「――でも結果はこれ。やっぱり僕はついてる。冒険者の鑑だよね」
「どこかだ、女神への敬意もないお前の、どこが!」
「そんなものあって何になるのさ? 大体コレは元から人類への奉仕種族、僕たちは敬う方じゃなくて敬われる方だよ」
顎で干からびたしわくちゃの体をしゃくってみせると、女神イシュリタスの体はぶすぶすと煙を上げながら小さくなっていき――そして消え去る。
武装は解除され、満身創痍の青年はそれでも亜人に体を向け、構えた。
胸に宿る激しい怒りの感情だけが、疲れてとうに限界を迎えているだろう体を動かしている。
しかし彼が二度目に飛びかかる前に、空中から黒い影が舞い降りた。
次いで攻撃が飛んできて、亜人は鬱陶しそうに鞭を操り、攻撃を相殺する。
「レアだなこの眺めは。というか、見られる日が来るとはって感じ?」
のんびりとした感想は、旋回する混沌の頂点と、未だ大きく翼を広げたまま立ち塞がる秩序の頂点、その両方が目の前にある光景に対するものであった。
再びエゼレクスから飛んでくる攻撃を払い、空に向かって鞭を伸ばすと、空中の彼は届かぬ場所までぐんと飛翔する。
アグアリクスからの攻撃がないな、と視線を下ろした亜人は、金色の目をきょとんと丸くした。
「あれ? デュランちゃんは?」
漆黒の竜が庇っていたはずの青年の姿が、いつの間にかどこにもない。
先ほどと異なり、大きな体が隠しているというわけではなく、本当にこの場から気配が消えているのだ。
「ああ、なるほど……なんかね、シュナちゃんもね、全然見かけないと思ってたんだ。別次元かな……」
きょろきょろと周りを見回した亜人は肩を竦め、一人納得するように何度か頷いてみせてから、静かに敵意をむき出しにする二竜に向き直る。
「まあいいや。お前らのどっちも、前から落としてみたかったんだよね。それに
ザシャは指を緩めるが、心臓は掌に吸着したまま落ちたりずれたりすることはない。
何気なく手に装着されているグローブ――これもまた、彼の宝器コレクションの一つだった。
強欲なる簒奪の手、と呼ばれるこの装備をまとった手は、単なる持ち物に限らず、技、経験、記憶――あらゆるものを奪い取る。
女神の――迷宮管理人の権利でさえも。
とは言え、さすがに強奪対象の情報量が大きすぎて、吸収に手間取っているらしい。
ぴったりとくっついた部分から、いくつかの赤い線が手から腕をゆっくりと這い上がっていく。動かせるには動かせるのだが、そちらの手の感覚はもはやなくなっていた。
ままならぬ手をぶらりとたれさげ、軽く動く方の手を振って亜人は笑う。
「来いよ、駄竜共。片腕で捻ってやる」
やってみろ、とでも言うかのように、アグアリクスが低く唸り、エゼレクスが尾を引く遠吠えを上げた。
「ここは……」
デュランは目を瞬かせ、困惑の声を上げた。
武器も防具もなく、ただ感情のままにザシャに殴りかかった直後、アグアリクスが割って入ってきたと思ったら自分は何者かに体をつかまれ――引きずり込まれたのだと思う。
白い、ただひたすらに白い空間だった。
――何か動いた。
目をこらすと、漂白空間の中に一匹の竜の姿が浮かび上がる。
「……ティルティフィクス」
デュランはすぐに、最も若い竜の名前を言い当てた。
秩序の新米は鳴き声を上げ、優美な尻尾を振って飛ぶ。
慌ててデュランは飛び起き、その後を追いかけた。
気がつけば螺旋階段を上っている。
土にしては硬く、石にしては柔らかい、そんな奇妙な床を踏みしめ、白い竜の背を追う。
ティルティフィクスは離れすぎると、時折どこかに止まってデュランを待った。
だが追いつきそうになると、ふわふわと飛んでいく。
長いような、一瞬だったような追いかけっこは気がつけば終わり、デュランは階段の最上段に足をかけていた。
ぽちゃん、と音がしてぎょっと見下ろすと、いつの間にか彼は黄金色の液体の中に足を漬けている。
背後を振り返ってみれば、既に階段の痕跡すらなく、見渡す限り一面黄金の海に変わっていた。
すうっと白い線が描かれる。
ティルティフィクスはデュランを追い越して飛び、一つの場所に降り立った。
ざぶざぶとデュランが足を動かす度に水音だけが響き渡る。
今度は呼び声は聞こえない。
けれど真白い保護の竜は、明らかに青年を誘い、待っていた。
いつの間にか、お守りのようにずっと身につけていた青色鱗の笛を握りしめている。
まだ反応はない。まだ。でも。
ほとんど無音の世界の中で、まるでいつかの時の繰り返しのように、終点に辿り着く。
今度、それを支えているのは蔦ではなく、真白い竜である。
ティルティフィクスは静かに、大きな卵を抱えて沈黙していた。
デュランは守り番であろう竜をしばし見上げてから、見覚えのある楕円の球体に手を伸ばす。
触ると人肌のような温もりと柔らかさが手に伝わった。
今度の彼は、ピシピシと音が聞こえるのを待ってからそっと手を離す。
ティルティフィクスが飛び立ったが、球形は一定の高度を保ち、黄金の海に沈むことはない。
殻が割れ落ちると、内部に隠されていたらしい寝台が姿を見せた。
敷き詰められた柔らかな布に埋もれるように、誰かが丸くなって寝ている。
背中に流れる長い髪は晴れた日の青空のような色をしていて珍しい。
デュランが震える手で触れようとした瞬間、彼女の睫毛が震えた。寝返りを打った彼女は、ううん、と眠たそうな声を上げ、ゆっくりと瞼を開けた。
何度も瞬きながら次第に焦点を得て光を増していくきらきらと輝く黒い瞳は、満天の星空にどこか似ている。
――この娘と出会うのは、これが初めてだ。
けれど彼女が何者か、彼はもう既に尋ねずともわかりきっている。
その双眸にしっかり自分が映っているのを確認してから――どくん、と握りしめた鱗が鳴り響くのを感じてから。
確信を持って、デュランは呼びかけた。
「――シュナ」
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