姫 危険人物に遭遇する

 シュナを背後から抱きしめた誰かは、彼女の腹の辺りに両手を回し、しばらく項に顔を埋めていたようだ。


「んー、いい匂い。甘くて爽やか、あと清楚? ははーん、こういうのが騎士様の好みなわけね。意外なよーなそのまんまなよーな」


 ――人はあまりに自分の想定外の事に接すると、驚くを通り越して何もできなくなる。シュナは今そういう状態だった。頭が真っ白になって体が固まっている。


(なに……これ、一体、なんなの……?)


 何が起こっているのかがまず理解出来ていないから、それに対しての反応もできないのだ。


 不意に右肩と首の間の辺りにちくっと何か、不快感が走った。驚いた彼女は逃れようともがくが、うまくいかない。


「はいはい、いい子いい子」


 子どもあやすような声は、なだめているよりは脅しに感じられた。シュナは混乱し、身を縮こまらせてしまう。


 そうしている間に、シュナを捕まえていた両手が解かれると、片方が服の上から身体のラインを確かめるように上がってきて、顎の辺りに添えられた。ぐっと引っ張られて振り返させられる。

 斜め上の方からシュナを覗き込む男は、デュランと同じ金色の目をしていた。同じ色のはずなのに、デュランのそれは綺麗で安心できるのに比べ、こちらは見ていると気分が逆撫でられて不安にさせられる。


 しかし男の顔に視線が行って何より目を惹いたのは、頭の上にピンと二つ立つ獣の耳だ。


(――亜人!)


 もし脳天気な状況だったら、彼女は目を輝かせ、すぐに手を伸ばしてつい引っ張ってみたことだろう。伝え聞いただけで実物を見るのはこれが最初になる。

 けれどさすがのシュナも、たぶん今そういうことをするべきではないということは本能的に理解できる。第一未だに身体にとどまっている方の手がいつの間にか手を押さえつけているので動かせない。

 亜人はぴょこぴょこと灰色の耳を動かし、表情をゆがめた。


「あれ? 確かこの辺に痣があったはずだけどな。汚れてただけ?」


 そう言いながら彼はシュナの顔の左側を指の腹でなぞる。

 鋭い爪が間近に見えて、シュナは思わず息を呑んだ。

 怯えを目に走らせた彼女の気持ちを知ってか知らずか、男は納得したように一人頷き、笑った。顔から手を離して親指と人差し指を擦り合わせている。歯を見せると鋭利な犬歯がきらりと光った。


「ああ、なんだ。化粧ね、ふーん。そういうのもあるんだ――」

「手を離せ、ワズーリ!」


 まさに怒号だった。

 辺りに響き渡ったドスの効いた声に、周囲の人間達が一斉に肩を跳ねさせ、顔を向けた。


 叫び声を上げたのは女騎士だ。折角買い上げた揚げ菓子を地面に投げ捨て、腰の辺りに手を当てている。非番で遊びに出ている格好だからか、あからさまな長剣の帯刀などはないが、腰には短剣が提げられている。今にも抜きそう、というか半分ぐらいもう抜いている状態で、彼女は緑色の目に激しい感情を宿し、亜人を睨みつけていた。


 唯一の例外がおそらく怒りを誘った元凶で、硬直するどころか素早く動いた。再び背中からシュナの身体を囲うように両手を回し、ついでに両手首を拘束するように捕まえたのだ。とん、と彼女の頭に自分の顎を乗せる。寄りかかっているようなのしかかっているような状態、シュナは身をすくませたまま動けない。


「やあやあリーデレット。コンニチワ。どーしたの? そんな怖い顔してさ。見た目は美人なんだからほら笑って笑って、せっかくの美点を台無しにすることないでしょ」

「手を離しなさい。二度も言わせないで」


 男は知り合いに挨拶するように軽やかな調子だが、リーデレットは低く唸った。先ほどのように大声ではないものの、静かな圧を放つ喋り方だ。尋常でない雰囲気に怯えるのはシュナだけで、男には全く効いていないらしいが。


「なんで? トゥラちゃんは護衛対象だから?」


(この人、どうしてわたくしの名前を知っているの?)


 びくっとシュナの身体が震えると、ますます男の腕に力が込められた。リーデレットは頬を紅潮させ、大きく肩を上げるが、全身に籠もった力を少しでも抜こうというように大きく息を吐き出した。精一杯自分をなだめるように深呼吸を繰り返す。


「初対面の女性に許可なく触るのは迷惑行為です。あなたの故郷ならともかく、ここでは禁じられている」

「えー? 別に嫌がってないでしょ。ね」

「大体、どうしてここにいるの。今日はあんた、迷宮に潜ってるはずじゃ――」

「そのつもりだったんだけどさー、気が変わって」


 どうやら二人は知り合いのようだ。しかしお世辞にも、男の方はともかく、リーデレットの様子から仲がよさそうには見えない。

 男の様子からして――鎧のような物を身につけてはいるのだが、所作といい雰囲気といい、とても騎士という役割を持つ人間には見えない。迷宮の話題が出たと言うことは、潜る事を生業としている冒険者なのだろう。

 ならばリーデレットとの繋がりもなんとなく見えてはくるが、解せないのがなぜシュナの名前を知っていて、まるで探していた物を見つけたとでも言うように接触してきたか、だ。

 男は歌うように――あるいはせせら笑うように、リーデレットに言葉を向ける。


「それにしても、君、僕の冒険日程に興味あったの? わざわざ組合行って申請書確認してまで知りたいこと? 何? 一緒に潜りたかった? なら直接声かけてくれたらいいのにさー、お友達の連れてきてさ」


 先ほど途中で言葉を切り、しまった余計な事を言ったという表情のまま、苦々しく男の言葉を聞いていたリーデレットの顔色がまた変わった。


 今度は顔から血の気が引いていく。すらりと短剣が抜き放たれると、ただでさえ遠巻きにしていた群衆がさらにざっと引いてどよめいた。


「そういえばあたし、思い出したことがあるの。前からいっぺん、あんたのこと、ボコボコにしてやりたかったのよね。今日、理由ができそう。感謝すべきかしら?」

「決闘の申し込み? いいよ、得意分野だからさ。んー、でもこのままじゃつまらないよね。折角だから賭けにしない? 勝った方がこの子好きにできるってことでさあ」

「調子に乗るなよ、クズ野郎が――」


 争い事の気配に、明確な殺気。

 シュナの怯えが胸の内側で震えて大きな鼓動を生み、どくんと大気を揺らした――。


 その、瞬間。


 黒い影が上から降ってきた。

 リーデレットとベンチの二人の間にはそれなりに距離がある。割って入って来た漆黒の鎧の男は、ぐっと沈み込むのと同時に力を入れた。


 シュナの背後にもたれかかっていた感触が、両手を捕まえていた手が離れる。彼女の頭の上を、ブンッと何かが音を立てて横切ったようだ。


「トゥラ!」


 未だ判断できず動かなかった身体がほぼ反射的に応じた。

 おいでと言うように広げられた手の中に飛び込むと、彼は片手で彼女を抱え上げ、飛び退る。


 リーデレットの横付近に着地すると、漆黒竜鎧ドラグノスをまとった男は改めてシュナを庇うように抱きしめ、もう片方の手で大剣を亜人につきつけた。


 どうやら身体を大きくのけぞらせて大剣を避けた後、バク転で距離を取った亜人はゆらりと土埃の中で立ち上がった。


「おー、こっわ。首飛ぶじゃん、やめてよね」


 そう言ってみせるわりに相変わらず形容しがたい薄ら笑みを貼り付けてヒラヒラ手を振る亜人に、未だ鎧の武装を纏ったままデュランが静かな声を上げた。


「――ふざけるのも大概にしろよ」


 ほっとしかけたシュナだったが、再びひゅっと息を呑んだ。


 初めて見る、本気で怒るデュランは――“孤高の覇者”と呼ばれるにふさわしい、近寄りがたく恐ろしい雰囲気を放っていた。

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