二章:身元不明 彷徨う
身元不明 戻れたけど戻れてない
幼い彼女は走っていた。ぱたぱたと軽い音を立てて、軽やかな気持ちで。
光が見える。あそこまで行けば外に出られる。だから、一目散に向かっている。
遠くから声が聞こえてきた。暗闇の中、後ろの方から誰かが呼んでいる。
――シュナ、シュナ。困った子。戻っておいで。お外は危ないことだらけ。そこはわたしの場所じゃない。竜達も飛んでいけない場所。お願い、言うことを聞いて。わたしの中に戻っておいで……。
それが、あまりにも悲しそうな響きを持っていて。同時に、優しくて、懐かしい気がしたから。一度、足を止めて振り返る。
けれど、手招きしていたのは不気味な無数の影の手だった。彼女は怯え、足音を響かせてまた反対方向に走っていく。
彼女は知っている。あの怖い人はあそこから動けないのだ。手の届かない所まで彼女が駆けていってしまえば、後はああして遠くで呼ぶことしかできない。
おいでおいで、と蠢いていた影の群れが、自分に呼び寄せる力がないことを悟ったのだろうか、くたりと力を失った。
――ああ、あなた。愛しい人よ。どうか娘を守って。あの子を本物の星の下に、導いて……。
最後の声は、どこか祈りにも似ている。近づいてくる光に夢中だった彼女だが、不意に足を遅くする。光の近くに、誰かが立っていることに気がついて躊躇したのだ。
――シュナ、シュナ。いたずらっ子さん。おいで……。
光の側の誰かは、かがみ込んで両手を広げた。その声を聞くと、幼い少女はぱっと顔を輝かせる。先ほどよりも更に急いで脚を動かして、駆け寄っていく。
――おとうさま!
勢いよく腕の中に飛び込んでいくと、彼は娘を軽々抱き止めて、そのまま抱え上げた。抱っこしてもらって、彼女は喜びの声を上げる。けれど直後、冷たい感触に首を捻り、顔を覗き込んで驚いた。
――ねえ、どうしてないていらっしゃるの? どこか、くるしいの? かなしいことがあったの? おつらいことがあるの?
男の黒い両目から、痣の這う頬に雫が伝っている。こんなことは初めてだ。だって彼女の知っている父親は、いつだって寂しそうに笑っていた。
――おとうさま……?
父は何も答えず、ただぎゅっとシュナを抱きしめた。
――シュナ。たとえ、この先何が起ころうと。信じてくれるかい?
彼女ははっとした。聞いたことのある言葉だ。父の顔を見ようとするが、抱きかかえられたままだとうまく行かない。
彼はぎゅっと、腕に力を込めた。少し息苦しいぐらい、強く娘を抱きしめた。離したくない、と言うように。
――側にいるよ。たとえ、目には見えなくても。いつだって、近くにいる……。
急に光が眩しくなって、目が開けていられなくなる。
お父様、ともう一度彼女は呼んだ。
もう、答えはなかった。
柔らかい感触に違和感を覚え、ゆっくりと瞼を上げると、見慣れない天井が目に入る。
(ここ、どこ……?)
しばし呆然としていた彼女は、身体を起こして、きょろきょろ周りを見回す。
どうやら室内らしいが……彼女の知っている室内は薄暗い塔の中、それと比べると広さも明るさも置いてある物の多さも……全然違う。
見張った目を瞬きさせると、何かがほろりとこぼれ落ちた。
指先で触れて、それが涙であることを知る。
(わたくし、泣いて……? そういえば、夢……だったのかしら。お父様がいらっしゃったの。まるで生きていたときみたいに……)
ぽろ、ぽろ、と瞬きの度に目から雫が落ちていく。慌ててゴシゴシと両手で乱暴に目元を拭い……そこでまた別のことにはっとなった。
(腕――人に戻ってる!)
自分の顔の前で両手を動かすと、覚えのある華奢な白い手が動いた。怖々握ったり開いたりしてみると、ちゃんとその通りに運動する。自分の頬が、興奮で熱くなっていくのを感じる。
(そうだ、わたくし……お外に出たんだ! 出られたんだ! 確か嵐の中で……それなら、ここはどこ? ……探検、してもいいのかしら!)
わくわくする心のままに、掛け布団をはねのけてベッドから下り、歩いてみようとしたところで……結構盛大な音を立てて落っこちた。幸い床に柔らかな敷物があったためそこまで痛みはないが、落ちた時にシーツが絡みついたこともあって、うまく起き上がれずにじたばたもがく。
(そうか、人間には、尻尾も翼もないのね。バランスって、どうやって取るのだったかしら? ああもう、元の身体になっただけのはずなのに、変な感じ!)
なんとか芋虫状態から抜け出したものの、四つ足歩行はできるのだがそこから二足に進化できない。
(確かに、元に戻りたいとは思ったけど。せっかくちょうど、竜の形に慣れてきたところだったのに、もう……きゃっ!?)
またどしーんと派手な音を立てたところで、部屋の扉がガチャリと音を鳴らした。
黒い衣装に白いエプロンをまとった女性がそろそろと顔を覗かせたかと思うと、ベッドの脇で尻餅をついているシュナを見つけてはっと口元に手を当てる。
「あら、まあ……! 誰か! 誰か来て下さい! お医者様を! お嬢様が目を覚ましているわ!」
(……お嬢様?)
女性がすぐに飛び出していったせいで、また一人ぽつんと部屋に残される。
呆気にとられて瞬きしていた彼女は、ふと違和感に首を傾げてから、髪をすくい、驚きの声を上げる。
「うあー!?」
(黒い髪!?)
シュナの髪は、明るい青色――晴れた日の青空の色、だったはずだ。
それが、今さらさらと肩から流れるそれは真っ黒色になっている。
混乱する彼女は、もう一つの違和感に気がつき、恐る恐る首元に手をやって息を吸い込んだ。
「あーあー、うあー……あうー!?」
(どういうこと……? 声が言葉にならない!)
わたくしは、シュナ。と頭の中ではきちんと文が浮かんでいるし、その通りに口を動かしたはずなのに、なぜか出てくるのは言葉ではなく、意味をなさない唸り声のようなものだ。
「う……うー!」
(わたくし、竜になっていたせいで、言葉の喋り方を忘れてしまったのかしら……これじゃ竜の時と同じだわ。ううん、それよりもっと酷いかも。ちゃんとお外に出られて、人間に戻れたと思ったのに、違うのかしら?)
何事もそう簡単には行かないと言うことか……とがっくりした彼女は、その拍子に目に入った部屋の中の鏡台に釣られるようにもう一度すぐ顔を上げる。
(そうだ、鏡があるなら、確認できるかしら。髪の色が変わっているけど。顔は? 顔はどうなっているの?)
見下ろしながらぺたぺたと自分の身体を触ってみると……そちらの方は概ね、記憶の中の自分と一致しているのだが。
視線を下げたらまた新しいことに気がついた。この服は、なんだろう? 自分が塔で着ていたものより、なんというか、上等な物の気がする。レースがたくさんついているし、肌に当たる布の感触がものすごく優しい。誰かが着せてくれたのだろうか?
初めてだらけの彼女は次から次へと興味が移って忙しい。なんてしげしげと、今度はスカート型の服を引っ張ったりつまんだりしているうちに、ドタドタ騒がしい音が響いて、またバタンと扉が開いた。
……そういえばさっき、女の人が入ってきたかと思ったら出て行ってしまったのだった。誰か呼びに行ったみたいだから、その人だろうか? と入り口を見たシュナは、ようやく知っている人の姿を見つけて、ぱっと喜びに顔を輝かせる。
「うあー!」
(デュラン!)
ものすごく慌てて駆け込んできた風情の割りに、騎士は彼女が声を上げると、呆然と立ち尽くして、そのまま石像のように固まってしまったのだった。
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