竜姫 母と出会う 中編
母竜はしばらく次の言葉を待つように娘を見下ろしたままだったが、沈黙が続くとぽつっとそんな言葉を漏らした。
シュナは目を丸くする。銀色の瞳を瞬かせて、彼女は再び箱――ファリオンの棺桶の方に首を向けた。
《あの人はスクノルクスに乗ってやってきた。元々人間が好きな竜だったけど、誰か特定の一人に入れ込むのは珍しかったから、どうしたのかと思ったの。面白いから聞いてみて、と言われて、わたしはいつも通り問いかけた。望みは何? 対価に何を差し出す? するとあの人はこう言った》
――自分の全部をくれてやる、だからお前の愛をよこせ。
《わたしもスクノルクスも思わず黙り込んでしまって。だって、どう答えたらいいのかわからなかった。『ヤバいなー、想像以上に頭おかしい奴連れてきちゃったかなー』とか言っていたかしら、あの子。わたしたちが困っている前で、あの人だけ真面目な顔で返事を待っていて……後にも先にもあんな人は一人だけよ、ふふ》
遠いどこかを懐かしむように目を細めた彼女の言葉に、シュナは聞き入った。
父からも少しだけ聞いていたし、外の世界で集めた情報で大まかに何が起きたかはたぶんもうわかっている。けれど母の言葉で思い出を聞くのは、また異なる色を帯びていた。
《わたしは愛を知らなかった。概念として、知識として、そういうものが存在すると理解はしていた。けれど自分がそれを与える側だと言われると、どうしても方法がわからなかった。わたしは
父の思い出の合間に、さらりと彼女は何か、とても重要なことを言ったような気がした。けれどシュナが言葉を挟めずにいるうちに、再び視線がこちらに戻ってきてますます声が出なくなる。
《そしてあなたを生んだ。あの人がほしいと言って、わたしも望んだから。触れられることには慣れなかったけど、嫌いではなかったわ。あなたを生むときも、とても痛かったけど我慢した。それが本来の自然な命の生み出し方、らしいから。……不思議ね、命って。今でもどうして生きていられたのかわからないけど、人間は、外の生き物はみんなそうしているんですって。不思議ね、本当に》
シュナは女神の語りにまた違和感を覚えた。口を開くが、ではどこにどんな言葉を投げかければいいのかが相変わらず迷子である。
イシュリタスは間違いなくシュナの母親なのだろう。だが同時に、やっぱり彼女とは――そしてファリオンとも、決定的に何かが違う。別の種類の生き物であり、人外。それが時折喋る言葉から垣間見えている気がする。
《あの人はよく星の話をしていた。わたしは段々それを聞くのが辛くなった。あなたを生んでから、より一層苦しみは増した。わたしはここから出られない。あの人はわたしをここから解き放てない。優しい人だったから》
竜が上の方を見上げた。釣られるようにシュナが顔を上げると、光が差し込む場所以外は暗闇に包まれ、そこにきらきらといくつかの光が瞬いている。
花畑の上には、月明かりと星空が広がっていた。
けれどそれらは模造品であり、偽物なのだ。ここは迷宮、外の世界ではない。シュリは本当の外の世界には出られない。
ぎゅっと胸の奥が苦しくなった。父がどんな気持ちであの言葉を言っていたのか。母がどんな気持ちでその言葉を聞いていたのか……。
《だからわたしはあの人の願いを叶えた。いいえ、勝手に願ったことにして、受理したの。迷宮神水に侵されたあの人の身体を元の人間の身体に作り直し、あなたと共に外に放った。二度と迷宮には入れない呪いを対価にして、あの人とあなたを星空の下に送り出した》
そこでシュリはまた別の表情を見せた。大きな身体を縮めて、まるで叱られるのに怯える子どものように上目遣いに、小さく消え入りそうな声になる。
《怒っていたでしょう、ファリオン。わたしのこと、嫌いになったでしょうね。憎んでいたかしら。もう会いたくないと思っていたのだとしたら……辛いけれど、きっとその方が彼にとって良かったはずね。ずっと一緒にいようと言われたのに、その言葉が辛くなって手を離したのはわたしの方だもの。だってわたしはここで作られた。あの人は外で生まれた。星を見たかったわ、一緒に。だけど叶えられないのだもの。それならせめて、あの人とあなたにわたしの夢を叶えてもらいたかった。あなたにわたしと同じ気持ちを味わわせたくなかった……》
それは。
ファリオンのことを、そしてシュナのことを考えての決断だった。
確かにシュリは身勝手な所もある、そのことについてシュナはなじる権利を持っているのかもしれない。ないとしても今この場に本人がいるのだ、言ってしまえば溜飲が下がるのだろうか。
いいや。そんなことはない。
シュナはただ、悲しかった。
優しかっただけの想いをようやく知れたことと――そしてその想いがもたらした一つの結末のことを考えると、ただただ胸が詰まって、気持ちが目からほろほろをあふれ出した。
《……それが間違いだった。だからもう、同じ過ちは犯さないわ》
《お母、様》
《ずっとここにいて、シュナ。もう勝手にどこかに行かないで。お母様が守ってあげる。何者からも。側にいて……》
額をこつんと合わせて母竜は喉を震わせた。
彼女が影の手であり、見知らぬ得体の知れぬ恐怖であった頃は、問答無用に要求は拒否の対象だった。
けれど、間違いなく母親である実感を伴った後、なぜこんなことをするのか、どうしてそう考えたのか……背景を明かしてから改めて重ねられる言葉は、甘く、切なく、優しく、そしてどこまでも寂しくて悲しい。
この人は一人だったのだ。父と同じ、あるいはそれ以上にずっと、独りだったのだ。
父にはシュナがいた――自分の存在が、なにがしかの慰めにでもなっていたと、思いたい。あるいはその方が大変だったかもしれないが、気を紛らわすこともできただろう。
けれど母は?
花畑でひたすら、父子の幸せを祈っていた。
――その結果が、結末があれだ。
シュナは思う。自分だって、もし父が外であんな危険な目に遭っていて――そしてその結果命を落とす事を知っていたのなら、真剣に塔に引き留めたはずだ。この人がシュナにしていたことはきっと同じことだ。
行けば酷い目に遭うことがわかっていて、親しい人をそのまま送り出す者があるものか。
ほろほろと両目から涙が流れ落ちていく。これはきっとシュナ自身の涙であるが、母の涙でもあった。
――でも。
自らを自覚した姫は、母の優しさに、温もりにそのまま全てを委ねることをためらう。
それに今ようやく、この人に言いたい言葉が見つかった。顔を離して母を見上げ、おずおずと口を開く。
《あの……あのね、お母様。お父様はお母様に、怒ってなんかいなかったと思うの》
娘の言葉に母竜は首を傾げた。
《そうかしら。あの人見た目は落ち着いて見えるけど、案外感情の振れ幅が激しくて。激情家って言うのかしらね。カッとなると手がつけられないというか、一度こうと決めると引かないのよ。
ちょっとその仕草や口調が自分に似ている気がして、シュナは何とも言えない温もりが胸に広がるのを感じる。
《そうだったかもしれない。ただ……お父様はいつも、寂しそうだったわ。きっと、それだけよ。お母様がどうしてそんなことをしたのか、ちゃんとわかっていたと思う。怒ってなんか、憎んでなんかいなかったはずよ。だっていつも、懐かしそうに、惜しむように……あなたのことを言っていたもの》
《そうかしら》
母はなおも訝しげな様子だが、シュナは知っている。
――僕のせいだ。
彼はそう言っていた。母に責任を問うような言葉は出さなかった。自分が星を望んだから、彼女は叶えた。自分の夢を、彼とシュナに託した。正しくそう理解していたのだろう。……納得していたかはともかく、恨んでいたのとは違うはずだ。
《そうよ。お母様が心配するようなことなんてないわ。だってお父様、お母様と星を見たいって言っていたのよ》
《外の世界でも?》
《――ええ。最後の瞬間まで、ずっと》
母は棺桶に目を向けた。それから頭上の星に。最後はシュナに。
声はない。ただ、一滴涙が瞳からこぼれ落ちていった。
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