亜人 悪巧みをする 中編

 宿の店主から鍵とボトル数本、それからタオルを仕入れた亜人は、再び鼻歌を鳴らしながら階段を軽やかに駆け上がる。


「301、302、303……」


 扉を通り過ぎる度にわざとらしく数える。廊下をスキップしながら、けれど足音は全く立てず進んでいく。目当ての部屋の前で止まると、指先に引っかけた鍵をくるっと回してから躊躇なく鍵穴にねじ込む。


 しかし扉を押し開けた瞬間、空を切って物が飛んでくる音がした。


 ザシャは特に慌てた様子なく、片手の指の間に器用に飛んできたナイフを収めた。反対の手に握ったレモネード水と、器用に引っかけているタオルを揺らして大げさなジェスチャーを取る。


「朝っぱらから物騒なじゃれ方するのはやめなよ、テハちゃん。僕じゃなきゃ怪我するか、最悪死ぬよ?」


 特級冒険者の言葉に、部屋の中の人物は唸るような笑い声を上げた。

 頭に生えている耳は兎そのもの。耳や髪の色は黄褐色に近く、肌も合わせたような褐色だった。ナイフを投げた拍子に身体に巻き付けていたシーツが剥がれたようだが、恥じらって裸を隠すような仕草を見せることはなかった。深い青色の目に獰猛な攻撃の意思をたたえ、女は身体を揺すって笑い声を上げる。


「あは、誰かと思ったら! 何、あたいの領域に許可なく入り込んできてるわけ? ぶっ殺すぞこの×××野郎」

「荒れたねえ。というか、荒れてんねえ。酷い臭い。ここ、窓ないのにさぁ」


 聞くに堪えない下品な罵り言葉をさらりと流した亜人は、不機嫌真っ盛りの女を無視して室内に踏み込み、ぐるりと様子を見回して苦笑する。まともな建築物の形をしていない安宿は、空調設備も日当たりも劣悪で、鼻の利く亜人達にはいささか厳しい環境となっていた。


 女が陣取っていたのはソファだ。そこでシーツを巻き付けて丸くなっていたらしい。何しろ一つしかないベッドの上は、色々とぐちゃぐちゃになっていて――とてもあそこで寝る気は起こらないだろう、散々暴れ回ったらしい形跡が残っている。


 こんなこともあろうかと、なんてふざけた調子で言いながら、腰の中の荷物を漁って消臭剤を出している男を半眼で見やり、兎の亜人は鼻を鳴らした。


「だーれのせいでこんなことになったと思ってんのさ。どうせテメエ、また仕組んでたんだろ」

「人聞き悪いなあ。誰が何したって?」

「だって、あんたに唆されて行った先で、よりによってあのクソ忌ま忌ましい御曹司に絡まれたんだぜ? 迷惑違反? この一級冒険者様をたかがセクハラごときで豚箱処分一歩手前なんてさ――だからあいつは嫌いなんだ、あたいはただ愛を啓蒙していただけじゃないか! クソッ、クソッ、クソッタレが!」


 女は飛び跳ねるようにソファから起き上がると、つかつかベッドに歩み寄っていった。邪魔をしないようにすっと身を引いたザシャが目で後を追えば、枕をつかみ上げ、何度も叩き付けている。中から零れだした羽が部屋十にハラハラと散った。大分しぼんだ枕や床の有様を見るに、今壊れたというより、昨晩から既に半壊していたと推測するのが妥当だろう。埃を避けるように手を振りながら、男はのんきにすら聞こえる声音で苛立っている女に返す。


「ええー? それって僕のせいかな? だって僕が君に話したのは、最近看板娘がちょっと柄の悪い連中に絡まれている店がある――それだけでしょ? 興味を持って出かけていったのは君。取り巻きを追い払ったのも君。その後我慢できずに、礼なら身体で払えと迫って、皆が見てるような場所で女の子の尻をわしづかみにしたのも君――つまり、結局の所君自身の詰めが甘かったってだけの話じゃない? やるなら邪魔の入らない場所、逃げられない所に追い込んでからじゃなきゃ。広間なんて、本当いつどこで誰が見てるかわからないんだからさ――」


 流暢に流れていた言葉が途中で切られた。ベッドから一気に舞い戻ってきた女が、男の胸ぐらをつかみ上げる勢いで飛びかかったからだ。ザシャは特に抵抗せず、床に押し倒される。無様に後頭部を打つようなヘマもしなければ、レモネードのボトルが床にたたきつけられないようにする配慮も忘れない――タオルはさすがにくしゃりと落ちてしまったが。のしかかって両腕を顔の脇についた女の裸体を、大きく揺れた乳房を見上げ、彼はわざとらしく肩をすくめてみせた。


「わあ、情熱的。何? 罰金払ったせいで懐寂しい? 慰めてほしい?」


 女は口を歪めた。笑ったのではなく、歯を剥いて威嚇したのだろう。眉にはぐっと力が入り、目は剣呑にぎらぎらと光を放っている。


「あんた、あたいが御曹司に小言言われてたその時間……お楽しみだったんだって?」

「どういうことかな」

「とぼけんじゃないよ。連れの子にちょっかいかけたそうじゃないか。あいつにしちゃ雑な仕事だと思ったんだ、説教の途中で血相変えて踵返してったんだからね」

「それほどでもなかったよ? 僕の予定ではもうちょっとデレ子と遊ぶつもりだったんだけど、帰ってくんの早くてさあ。それで? 伝聞調って事は、君はそれを見ている余裕がなかった――豚箱はさすがにまずい、小言役がいなくなったのをいいことに衆人に紛れて辛くも逃げましたってところなのかな」

「やかましい、身体に穴開けるよ。……けどあのいけすかない澄まし顔を崩したことだけは褒めてやらんでもない。町中であの色男を抜刀させられる日が来るなんてねえ――ハッ! いい気味だ、ざまあ見やがれ」

「そいつはどうも」


 ザシャは女の下から這い出て身体を起こそうとしたが、再び小突かれて大きく息を吐き出した。いらないの? とでも言うようにレモネード水を揺らせば、オルテハは引ったくるようにボトルを奪い取り、乱暴に栓を開ける。ごくごく喉を鳴らしながら一息に飲み干し、残骸を床に放り捨てて自分の下に転がしたままのザシャを見下ろした。


「何? 僕の努力の賜を労ってくれたんじゃないの?」

「――ってことはさあ。やっぱりあんた、あの日最初からあたいを当て馬にするつもりだったんだろ。急に気が変わった潜るのやめたなんて言って、フラフラ寄ってきたと思ったら、あたいが放っておけないような話を何気ない体装って始めてさ……それで? ここまでわかったあたいが、ただで済ませると思ってるのかい? 土下座程度で溜飲を下げるとでも?」


 猫を撫でるような甘い声を出しながら、オルテハは太ももの入れ墨に指を這わせる。すると肌の中からずるりと音を立ててナイフが現れ、彼女の掌に収まった。女の冷酷な瞳は男の首をじっと見つめている。


「いいけど、テハちゃん。本当にいいのかな? どっちでも構わない。ちょっと過程が変わる、それだけの話だから」


 くったりと身体を脱力させ、大きく手足を伸ばしたまま、金色の目をまぶしそうに細め――ザシャは子供のように無邪気な笑顔を浮かべた。


 するとオルテハもまたがっくりと身体の緊張が抜けたようで、舌打ちしながら男の上からどく。


「……やめたやめた。やってもあたいが損するだけじゃないか。だから嫌いなんだよ、あんた。で? 建前でも償いに来たってんなら、せめてフリをして見せな。あたいは疲れてんだよ」

「お望みのままに働きますとも、レディ。とりあえずこの惨状なんとかしておくから、身体もう一回洗ってきたら?」


 女は拾ったナイフを身体の入れ墨の中に戻すと、ザシャの指さした先、水場に消えていった。バシャバシャと乱暴に湯を使う音を背に、起き上がったザシャは転がった家具を元の位置に戻している。


 しばらくすると、水音がいったん途絶えてバタンと扉が開き、湯気を立ち上らせ水滴をしたたらせたオルテハが顔だけひょっこり覗かせてきた。


「ところで、御曹司の連れってそんなに可愛い子だったのかい?」


 黙っていようかと思ったがやっぱり聞かずにはいられなかった、という風情のそわそわした様子を見せている女に、シーツを荷物の中からとりだした洗濯桶の中に放り込んでいたザシャは、一度手を止めてにっこりと微笑みを返す。


「人にはそれぞれ好みってものがあるからねえ。でもお触り程度で奴が目の色変えたのは実証済み。ちょっと目立つ痣があるけど、顔立ちは綺麗な子だよ。身体もいい。おっぱいでかくて、腰はきゅっと引き締まってて。髪は……フローラルフルーティ? たぶんあれ、整髪料の匂いなんじゃないかな。長くてサラサラ。ちょっと癖あり」

「……触ったのかい」

「撫でた程度? ああ、あと噛んでみた。柔らかくて弾力があって、いい牙の入り具合だったな、あの肌」


 ふーん、と面白くなさそうに女は扉を閉じたが、その後すぐまた勢いよく扉を開けて出てくる。ザシャがたたみ直したタオルを放ると、受け取ってがしがし頭をこすり始めた。冒険者は回るシーツの泡立つ様に目を落としたまま、水気を落としている女に声をかける。


「興味出てきた?」

「別に……名前は?」

「トゥラちゃん。御曹司が命名」


 オルテハはペタペタと足音を立てながらソファーに戻ってくると、どっかり腰を下ろし、途中で元通りに戻った机の上にセッティングされていたボトルの栓を開けた。


「覚えてはおくよ。あんた自身を信じるのは破滅の始まりだが、あんたの審美眼を疑うのは破産の始まりだからねえ」


 湯上がりにラッパ飲みして機嫌が上向いたらしい女に薄気味悪い微笑みを向けていた冒険者が、「ところでさ」とふとやや真面目な顔になって言い出す。


「パンツぐらい、いい加減履いたら? 見せつけたいなら別にいいけど」


 返事の代わりに飛んできたナイフをまたも難なくぱしりと受け止めると、オルテハは大きな悪態を吐いていた。

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