惑う娘 迷宮に戻る
昼にちょっとしたハプニングはあったものの、充分に休養を取ったおかげか、シュナの身体は翌日には健康な状態に戻っていた。
すると舞踏会の前のような日常が戻ってきて、彼女は再びお勉強と読書の日々に戻る。
ダンスの練習はあまり運動をしない(いや本人は色んな所を歩いて回りたいのだが、某自称保護者が渋るので相変わらず活動範囲には限りがあるのだ)娘にうってつけだろうということで継続されたが、舞踏会前ほど厳しくあれこれは言われなくなった。
間違えてはいけない、という強迫観念に追い詰められなければ、踊るのは楽しい。踊りだけではない。あれをしなきゃこれはしてはだめ、と悶々頭で思い詰めていたときはあんなにも苦行で大変だったのに、苦悩すら全部忘れた本番はひたすら楽しかった。
失敗してはいけない、と思い込むことが、逆に失敗を招くのかもしれない。シュナはそんなことを学んだ気分である。
講義やダンスの練習に加え、最近新たに追加されたのが作法の練習とやらだ。
特に茶会対策とやらが始まったのが、今までと少々異なっている。
なんでも舞踏会の時に会った令嬢サフィーリアから、早速お誘いの打診があったらしい。
正直あの時の記憶は大分曖昧で、夜にデュランが豹変した所以外あまりちゃんと覚えていないのだ。
何ならその無体の記憶を一番消し飛ばしたかったのだが、都合良く忘れるにはあまりに衝撃が強すぎた。酒気がほどよく抜けてきた頃合いだったのかもしれない。
件のご令嬢について、シュナ本人は「なんだかとてつもなくみっともない所をさらしたような気がする……」という印象で最終的に落ち着いている。
次に会う約束をしたと先方は言っているらしいが……どうだったろうか。コルセットを緩めて貰ったことと、後はひたすら手遊びで遊ばれていたような気がするのだが。
招待状はいかにも凝った紙で、ほんのり良い香りがした。達筆を講師や侯爵夫人の助けを得て解読するには、
「先日は楽しかったけど時間がなかったからまたゆっくりお話ししましょう」
ということを申し出られているらしい。
ちなみにこういったことは、さすがに内容は主人がチェックするのだが、文字自体は専属の職人が書くのが普通なのだとか。
しかしサフィーリアの招待状は、どうも侯爵夫人曰く本人が書いてきたものらしい。
「よほどトゥラを気に入ったのか、この時点で挑戦のつもりなのか……」
まさか自分もこれと同レベルの手紙を返さなければいけないの……!? と一瞬怯えた娘だったが、幸いにして杞憂に終わった。
ただしその日のうちに、講義の一つにひっそり文字の練習が加わった。彼女の書く文字は解読不能というわけではないが、どうも丸っこく子供っぽい筆跡をしているらしいのだ。
「俺はこれでいいと思うな、可愛いから」
と爽やかに横から割り込んだ領主子息の意見は流され、
「トゥラ、この際ですからあんな温いことを言っている阿呆の鼻を明かしてやりましょう。文字には人柄が宿るそうです。堕落に誘う抱擁に屈しない強い心を身につけましょうね」
と鋼の意思揺るがぬ侯爵夫人の主張が通された。
こういう場合従うべきは、フワッティボンボンよりしっかりマダムであるとシュナはとっぷり学んでいる。文字の矯正には真面目に取り組むことにした。
そんな文字に関するあれこれはともあれ、招待は受けたが気が進まなければ断ることもできる、と説明され、シュナはしばし考える。
既に一度迷惑をかけた相手なのだ、ここですげなくするのは失礼、相手の顔を立たせる、という心がけを発揮するべき部分なのではなかろうか、等という思いが巡る。
加えて、ご令嬢への印象がさほど悪くないのもあった。細かいことは覚えていないが、「思っていたより優しい人だった」というのもサフィーリアという令嬢の記憶としてほんのり頭の片隅に残っている。
一体シュナと会って何を話すことがあるというのか、いやそもそもこちらが話せないことは承知の上のはうなのだが、その辺りの不明感は少々の不信を抱かせるものの、他の全ての行くべき理由を覆すほど重くもない。
結論としてシュナは嫌と答えず、よって茶会行きが決定したために、マナーレッスンが決行されることになったらしい。
先方の「内々のものだからそんな堅苦しく考える必要はない」なんて言葉がただの飾り文句であることは明らかだ。
基本的な方針は舞踏会同様「座って余計なことをせずニコニコしてなさい」なのだが、その座る前にホストとゲストそれぞれルールがあったり、座ってからも給仕を受ける時の注意だの話を振られたときの注意だの、動かない分より繊細な機微とやらが求められるのがどうやら茶会というイベントのようだ。
まあ一言でまとめてしまえば「主催は客を、客は主催を敬い、場所が主催のホームであることを忘れないように」ということなのだが、それを具体的な行動で示そうとすると面倒な手続きという形になるようだ。
ドレスを選ぶ段階、更に言うなら打診を受ける前から既に女の戦いは始まっているという裏事情もちらりと聞かされて、シュナは身を震わせた。
主催と被らせないように、かつ場違いでないように、かつ自分に合う物で前回着ていた物を鑑みて――。
自由に選べるのなら楽しいが、いざ気を使いだすと途端に頭が痛くなるのがファッションというものらしい。
(塔にいる間は誰にも会わなかったものね……人の目を考えるって大変だわ)
難航する装備品チェックに、思わずそんなことをしみじみ心に浮かべてしまった元塔暮らしである。
さて数日は大人しくそうやって茶会レッスン等に応じていたシュナだが、手帳に茶会の日程マークが刻まれると、密かに頭の中で逆算を始めた。
この大人しくしていた時間は、彼女にとって迷宮に戻るタイミングを窺っていた期間でもある。
(お茶会自体の基本作法についてはもう教えていただいたわ。あとはそれを間違いないようにする確認と、お話について行けるための教養のお勉強……それなら五日ぐらいは猶予があると考えていいはず)
一つ二つの些細な間違いに慌てふためくより、たとえ全部間違えていたとても「自分が正しいですけど何か」という気合いで周囲を巻いてしまえば結果としてうまくいくのだ――というような若干の裏道戦法も悟った娘は、「極論練習不足でもおどおどしなければいいのよ!」と前向きに少々強気だった。
多少の無理をしてでも迷宮に一次帰還したかった切実な理由もある。
言うまでもなくデュランだ。
あのおかしな夜の翌日昼、押しかけてきてあーん事件を起こしたこともさながら、最近のデュランはなんだか様子がおかしい。
いや元からおかしいところはあったが、こう……頻度が増したし方向性がちょっと変わった気がする。
とにかく顕著な例として、物理的な距離が近づくようになった。
あらゆる所へのエスコートに積極的に立候補しては、挨拶に手に口づけてくる。
相変わらず昼間は色々な場所にかり出されていることも多いようだが、夜は絶対に帰ってきて夕食を共にするようになった。
そう、毎日指先に口づけてくるようになったのだ! 全く以てこの時点で度しがたい。でもたかが指にキスしただけで、心底嬉しそうにしている顔を見ると、拒否できない自分自身はさらに始末に負えない。
現状彼女がしている対策と言えば、せいぜい念入りに手を洗っていい匂いのするハンドクリームを欠かさなくなった程度である。対策どころかもはや方向性として支援しているのだが、本人としては今できる最大限の対策のつもりなのである。
しかも挨拶の過激化は朝にとどまらなかった。おやすみの挨拶も当然のようにキスになっていた。おでこやこめかみや頬、瞼、鼻……まあつまり、逆に唇以外の場所はもうそろそろ制覇されるんじゃないかなという勢いなのである。
それとデュランは、少し前まで気まずそうに目をそらしたような場面で、今はにっこり微笑みじっと見つめてくる。
困ったことにシュナの方はデュランを見ると落ち着かない気持ちは収まりそうになかった。どころか相手が色々するもので、ますます悪化の一途をたどっている。
そんな彼女の様子はますます相手を喜ばせている気がする。顔を赤くしたり顔をそむけてもじもじしていると、悪戯っぽいニコニコ顔が目に見えて増すからだ。おそらく本気で拒絶すればやめてくれるのだろうが……ではそうしたいかと言われると、それもなんだか違うのだ。
自分の視界からは消えてほしくないが、相手の視界に自分を入れないでほしい。本当に困ったことだが、そんななんとも身勝手に過ぎる気持ちが、実のところシュナの偽らざるデュランに対する本心のようなのだ。
しかも触られること自体はさほど嫌ではない。むしろ絶妙なタッチ加減で……素直に言ってしまえば、結構気持ちいい。
(そんなはしたないことは!! わたくしそんなに駄目な子じゃない!!)
と必死に理性で抗ってみようとしたが、快いことに身体は正直だった。優しく触られると途端にくったり力が抜けて、後はもうされるがまま状態である。
変化は周囲も感じ取っているのだろう、使用人達はもはや茶化さずあんぐり口を開けている。
息子より明確に偉い領主本人は、夕食の時はっと何かに気がついた顔をしたが、その後何事もなかったかのように振る舞いだした態度からして、全面スルーの姿勢に入ったと考えるのが妥当だろう。元々放置度の強い人だ。藪をつついて蛇を出したくない思いも強いのかもしれない。
唯一、侯爵夫人のみが不動の安定性、息子の奇行のストッパーたりえる。彼女が「デュラン」と窘めるように一声かけてくれると、その場では多少デュランの距離は遠のく。
だが夫人がいない場所だとずーっと構い続けてくる。手を握ったり、読んでいる本をのぞきこんできたり、コップに水を注いでくれたり……普通に助かっていることもあるのだが、なんかこう、さすがにやり過ぎだということはシュナにも容易にわかる。
だって周囲の目がいたたまれない。これほどシュナは恥ずかしいのになぜ彼の方は平然としているのか。経験値の差という物なのだろうか。頭が痛い。
といったため、そんな手に負えない状況を少しでも打開するために、シュナは迷宮行きを欲していた。
いい加減、この猛攻から離れて静かに考える一人の時間がほしい。嫌いではないのだ。たぶん好きだ。だが今までシュナの知っていた好き嫌いとは何かが決定的に変わってきてしまっているのだ。
さてじりじり隙を窺っていた娘は、その晩なんとかおやすみの挨拶(今晩は変化球で、両手を握られたままこつんと額を合わされた。これはこれでキスとはまた別方面に恥ずかしい)を耐えきった。
ベッドに入った後慎重に耳を澄ませ、いそいそこっそり抜け出る。
迷った末、テーブルの上に手帳と白い髪飾りを置いておくことにした。
手帳には帰ってくる予定の日にぐるぐると丸をつけて、そのページを開きっぱなしにしている。
前回の反省を踏まえての準備だが……意図が伝わりますように、と念じて彼女は服を脱ぎだした。
これも前回の反省を踏まえて、ベッドの上に綺麗に畳んで置いておく。
「大丈夫です、自主的に出て行ったので事件性はないです、帰ってくるまで探さないで下さい」
アピールである。
最終チェックだ。周囲を見回し、自分を見下ろし、手帳をのぞき込んで日程を頭にたたき込み、大丈夫! と意気込んでから唇を開く。
《
するりと開く黒い円を見るだけで、懐かしさに心が震える。
床を蹴る、足取りは軽い。
そうしてまた、娘は一人迷宮の奥深くに戻っていった。
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