恋乙女 絶対にあーんしたい男との戦い(泥沼)
スプーンを咥えたままシュナは固まった。
しかし硬直したのはデュランも同じだったようだ。
ニコニコだらしない笑みが一瞬にして引き締まり、彼はそれ以上押すことも引くこともできずに黙り込む。
「…………」
「…………」
(なぜそこで真顔になるの)
見つめ合う二人の間になんとも言えない空気が流れた。
我に返ったシュナが表情をなくすのは当然であると主張したい。ついうっかり相手に乗せられてしまったが、幼子ならともかくもういい大人なのだ。いくら病人だからと言っても、食事ぐらい自分でできる。
遡れば遙か昔、物心つくかつかないかの頃に父が幼い彼女にスープ(の体で出された迷宮神水)を与えたことがあったかもしれないが、なんかこう、それともまた違うような気がする。
デュランのこれは完全にお節介というものである。
が、仕掛けた方まで「これは実に想定外」と言わんばかりの反応を示すのは解せない。
彼がスプーンから手を離すこともなければ無理矢理口から引っ張り出そうともしないのは、はたして幸なのか不幸なのか。少なくともスープが床に散らばらないのは間違いなく幸だ。
さてシュナはとても困っている。
もう咥えてしまった以上、口を開けるわけにはいかない。
いや、最終的には開けて出て行ってもらう段階が必要なのだが、その前にまずスプーンの上に乗ったスープを消化せねばならぬ任務が残っている。
そこで問題だ。
(……飲み込むって。どうやって、やるのだったかしら……)
だっていつもは自分の手で食器を扱い、自分のタイミングで食べているのだ。
他人に口の中に物を突っ込まれている状態での正しい所作なんて知らない。
食べるという行動は呼吸をするのや歩くのに似通っていて、意識すると途端にぎこちなくなる。
しばらくもごもごやっていた彼女は気がついた。
そうだ、スプーンを口の中に入れたままではうまくいかないのだ。
かの道具の仕事は食事を口の中に導くこと。その後は唇と舌で食べ物を迎え入れ、喉にぐっと押し込むのはその後なのである。
さておそるおそる動いたシュナは、デュランが下手に動かなかったことにほっとした。
もし彼女が身を引こうとするタイミングで口の中に突っ込まれ続けでもしていたら、なかなかの苦行だった。
途中で長考を経た割りにはさほど見苦しくなく事を終えられた、とほっとしつつ、んぐ、と喉を鳴らした娘の事を、デュランはスプーンを宙に漂わせたままじーっと魅入っている。
(……やっぱり何か変だったかしら)
そっと口元を押さえて目をそらし、顔を赤らめる。
が、
(元はと言えばそちらのせいじゃない、わたくしはあまり悪くないと思うの!)
とすぐに気を取り直して文句の一つや二つ、態度で示してやろうと思った彼女は我が目を疑った。
じっとシュナを見つめたまま、デュランの右手のスプーンがスープに戻っていき、またも感心してしまうような軌道を描いて中身をゲットして……戻ってきたのだ。シュナの唇の前に。
(なぜそこでもう一度挑戦しようとするの!?)
そう、あまりにもあんまりすぎて最初彼が何をしているのかわからなかったが、つまりこれはもう一度同じ事をしろという、たぶんそういう要求である。
シュナは怯えた。だって彼、この間ずっと真顔だししかも無言なのである。一体何を考えているのか。いくら好意を向けていようが意味不明なものは不明なのである。
今までだって度しがたいと感じる(シュナにとっての)奇行には何度も遭遇してきたが、これは本当に全く以て意図が理解できない。
なんとなく、同じ事をもう一回やれと言われている……ような気がするのだが、全く自信がない。
(やらないわよ。今回はやらない。一度目はうっかりしていたけど、二度目はないの……!)
シュナはぎゅっと唇を噛みしめてデュランの眼圧に耐えた。
しかしぶんぶんと首を振ったり届かない場所までのけぞることがないのは……シンプルに、未だ腹が満ちたとは到底言いがたい状況にあるためだ。
何しろ邪魔をされたせいで、お腹を空かせた彼女が腹の中に収めたのは特製紅茶と今の一口のみである。デュランには屈したくなかったが、ハンストするほど意思も強くなかった。
(食べ物に罪はないわ……それにお腹が減っては何もできない……)
本人もこの流れはよくない、断ち切るべきだ――と、思ってはいる、思い続けてはのだ、一応。
しかし基本が競争意欲のなく大人しい気質の箱入り姫様である。お互いの主義主張のつばぜり合いになると、まあ彼女の方が諦める機会が増すのはある種当然と言えば当然で。
やればいいんでしょう、やれば! と半ばやけくそになった娘に数度給餌をした後、ようやく男は口を開いた。
「……おいしい?」
(そんな余裕がどこにあると思うの!?)
せっかく体調不良の彼女のために、また厨房の人達がうんうん唸りながら用意してくれたメニューだろうに、残念ながらこの状況では全く味を意識する気持ちになれない。
奇行に巻き込まれているせいで余裕がないからなのか、体調不良で身体の感覚がおかしくなっているからなのか。相乗効果でますます悪化している、という説が悲しいが一番濃厚そうだ。
やっとまともなコミュニケーションに戻る気配が見えたと思ったらそれか! と憤慨するシュナに、「ですよね」と彼は更にフィーバーさせるような返しをした。そして表情は依然失われたままである。
だんだん恥ずかしいとか困惑の気持ちより腹が立ってきた。なぜここまで一方的に振り回されねばならないのだ。自分だけが辱めを受けるなど。
プルプル震えが出ていたシュナだが、はっと食卓を見て天啓が閃いた。
(わかったわ、あなたも同じ気持ちになってみればいいのよ!)
手を伸ばし、むんずと掴むはスープの後に食べるはずの果物だ。
皿の上に綺麗にセッティングされた瑞々しい果実の中から、皮が赤く甘酸っぱいものにプスッとフォークを刺してデュランの方に勇ましく突き出す。
(さあ、口をお開けなさい! わたくし、このままでは許さないわよ! デュランだって恥ずかしい目に遭ってしまえばいいのだわ!)
ふん! と鼻息荒く挑みかかった娘だが――しかしせっかく出されたやる気もすぐに出鼻を挫かれかける。
「え……お返しに食べさせてくれる……の? マジで?」
(なぜ! なぜなの!?)
動揺や困惑が、ないとは言えなかった。少なくともそういう気配も、彼の顔には復活していた。
だがそれ以上に、なんだあの笑いを堪えようとしているけど駄目でした、みたいな口角のひくつかせ方は。シュナの目が間違ってなければ、これって結構嬉しそうって奴なのではないか。
シュナはただただ呆然とした行為だったから「あなたはこれだけわたくしを困らせたのよ、悪い人ね!」と反省させるための給餌カウンターだったはずなのだが、逆効果になっている気がする。
早くも後悔の芽生え始めた娘はそっと全てなかったことにしようとしたが、いつの間にかテーブルの上にスープもスプーンも返却し、そっと(そしてがっちりと)彼女がフォークを出している手をつかまえたデュランが口を開ける。
「じゃ、じゃあ……いただきます……?」
しゃくり。彼の口は大きいが、他人に差し出された状態だとやはり食べにくいのだろう。カットされた果物は、フォークに刺さっていない半分ほどを持って行かれたようだ。
もっしゃもっしゃとしばらく咀嚼する音が響き、ごくっと飲み込まれる。そこでようやくシュナは手首を解放された。思わずばばっと皿もフォークを握る手も自分の方に抱え込んでしまうが、特に反応はない。
彼は口の周りに果汁が零れてしまったのだろうか、さっと取り出したハンカチで――いや今当たり前のように出てきたが、一体どこにしまっていたのだろう、貴族か冒険者のたしなみなのだろうか――口元を拭う。
そしてそのまま、ハンカチを顔の下半分に当てたまま、ボソッと一言呟くには。
「……ヤバい。イイ」
(それはどういう意味!? 気に入ったってことなの、やめて!? しかも顔を赤くしたりしたり覆った手を離そうとしなかったりってことは、きっと照れているのよね。少し前まで無反応だったのになんで今更恥ずかしがるの、もうっ!!)
どんなに絶叫していても所詮心の声。
一応デュランが引っ込んでくれたのだから当初予定が果たされたと言えるのかもしれないが、どうも求めていた反応とはずれているというか、最初無反応だったくせに後でじわじわ恥じらいを思い出すのは一体どういう了見なのか。
こちらまで熱がぶり返しそうになるではないか。
「ごめんちょっとタンマ……」
(わたくしは一人で食べるわよ!? 元々そのつもりだったのだから! 食べるわよ!!)
椅子の上で何やら悶えている男を無視して、シュナはテーブルに向き直る。
鬱憤は全部残りの食べ物に向けることにした。
……結果的には気合いを入れて食べたおかげで、皿洗い担当が感動するほど綺麗に完食したので、良かったと言えるのだろうか。
唯一残ったフォークが刺さったままの囓りかけの果物を、「食べてもいいよ?」と爽やかに提案されたが、それだけは断固として拒否した。
非常に残念そうな顔で、彼は自らの後始末をつけていた。
そして休憩からアイスを取って戻ってきたコレットは、二人の空気と皿の様子を見てから残念そうなものを見る目をデュランに向けていた。
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