迷宮 試練の間 後編
はっとした顔になったデュランは、思い切って重くなりすぎた大剣から手を離す。ほとんど同時にザシャも同じく鞭を離して飛びすさる――しかしわずかに反応が遅れたようだった。突っ込んできた巨体が、そのまま亜人の姿を攫っていく。
間一髪、巨大な猪の突進を避けたデュランは、駆けながらふと見上げ、ぎょっと目を見開いた。
鞭の拘束を振り払い、くるくる円を描いて宙を飛んできた大剣は、慌てて伸ばされた手の中にうまいこと収まってくれた。タイミングとか、位置とか間違えていたら頭に突き刺さってもおかしくなかった。心臓がばっくんばっくん、うるさく胸の内を叩く。
視界の端に翻った布に、文句の一つでも言ってやろうかとしたが、それより新たなお客様を迎える方が先だった。
――すっかり亜人に熱中してしまっていたが、ここは試練の間。迷宮で最も魔物の出現頻度も攻撃性も高い場所である。
飛びかかってきた怪鳥の足をなぎ払い、地面から湧き出した不定形の液状化生物を切り裂き、押しつぶしてこようとする巨体の足を、次いで手を切り落として胴体を断つ。
無我夢中で目の前の敵を退け続け、ようやく神官の隣まで戻ってこられたデュランは再びぎょっとした。
げっそりとやつれた顔になった神官の体には、おびただしい量の血があちらこちらにこびりついていた。魔物の返り血だけではないだろう。特に口元と、出血元を押さえようとしたらしい手のひらが酷い。
ちょうどこんな見た目になった人間を知っている。
「ユディス――」
「少し張り切りすぎたようです」
呻くような苦笑をした女の声はかすれていた。喉も大分痛めているようだ。労ってやりたいが、すぐに次の増援が現れる音が聞こえる。
「進みましょう――進むしかない」
「あいつは?」
「さあ? 生きていたらどうせ追ってきます。殺したかったが、こちらも別の本命がある身、深追いは悪手です。それに鞭は手放させてもさほど意味がないことは証明済みですからね。巻き添えを避けるためにも、さあ、早く」
促し、歩き出そうとするユディスの足下は、今までよりもどこか心許ない。
だが、結局は彼女の言うとおり、前に進むしかないのだと、デュランはぎゅっと唇を噛みしめる。
試練の間では、一つの部屋にとどまっていても魔物の襲来を受け続けるだけ。
次の間か、あるいは離脱のための帰り道を得るには、いずれにせよ部屋を何度か移動する必要がある。
「ユディス、君は――」
もし離脱できるなら、と提案しかけたデュランは、けれど言葉を飲み込んだ。
複数の生物を混ぜ合わせたような外見をしている、キメラが吠えながら飛びかかってきたためだ。
だがもう一つ、躊躇させた理由はある。
剣を凪ぎ、たたきつけるように振り回し、突いては引く。
その合間に何度も援護の光を見た。
共に歩む神官の目は、不気味なほどに落ち着いていた。
魔物との戦闘は、厳しいが、辛くはない。
だが、障害を一つ潰していくごとに、デュランは自分の中で漠然とした不安のような物が育っていくのを感じていた。
一体どれほどの敵を退け、いくつ部屋を変えてきた事だろう。
唐突な終わりに、二人は思わず同時に足を止めた。
足を踏み入れた部屋は今までと異なって奇妙に広く、四角が基本だった今までと異なって円形をしている。
そのだだっぴろい広間の中央には、黒い球体が浮かんでいた。
かすかに靄を描くそれは、どこまでも続く深い闇の中につながる。
――試練の間の次の階層は、闇黒の間。
その四方を取り囲むように、四つの鎧が立ち尽くしていた。
挑戦者達が闘技場に入り込むと、彼らの頭部に光が宿り、各々剣や槍などの武器を掲げ、動き出す。生ける鎧達が行進し、一列に並ぶと、ギチギチと耳障りな音が鳴り響く。それは彼らの背を突き破って現れた一対の翼だった。
ふわりと彼ら――空洞に鎧をまとう天使達が飛翔すると同時、ユディスが一歩前に出た。
「臣があれの相手をします。貴方は先へ」
一瞬何を言われているのかわからなかったデュランは、ぽかんとする。
が、突進してきた槍の相手と切り結んで追い払い、別の個体が斧を振り下ろしてきた一撃を避けた所でかっと顔を朱に染めた。
「何言ってるんだ、馬鹿言うな! 君一人でこんな奴ら相手になんか――」
「どうせ倒しても復活します。せいぜい持ちこたえられればいい」
ユディスはユディスで、剣を振りかぶった相手の一撃を杖で受け、弾いて空中に追い返していた。棍棒を殴りかかってきた相手を無理矢理大剣で殴り返したデュランが、後方に飛んでユディスの後ろに戻ってくる。
二人を取り囲むようにくるくると飛ぶ四人の無機質な天使達を油断なく見つめ、騎士と神官とは自然と背中合わせに互いを預けていた。
「いいですか。逆鱗を渡されたのは、
「それはっ――」
「それはつまり、貴方は迷宮に愛されている。貴方なら必ず女神は会ってくださる、ということです。闇黒の間は、貴方が進んだ方がいい」
ユディスからは何重の意味でも見ようがなかったが、確信を持って語られる神官の言葉に、鎧の下でデュランはつい白目を剥いていた。
「君は……君はね、知らなかったかもしれないけどね。俺はたぶん、シュナはともかく――俺とシュナの強い絆はともかく。割とその、お義母様――じゃなくて女神様には、嫌われているんじゃないか疑惑がありましてですね」
今度はユディスが黙った。二回繰り返されたのは、絶対の自信があるのか、動揺を鎮めるためか、なんかただどさくさに紛れて惚気たかっただけなのか。言い間違いの方も、わざと言ってみたんじゃないかという感じがほんのり漂う。
何にせよ、ちょっとだけ躊躇した相手の反応に勢いづけられたように、デュランは鼻息荒く続けた。
「だって、一度目は――鎧はもらいましたけど? 呪われたし。この前に至っては、会話すらしてくれなかったんだぞ! わざわざ現れてガン無視だよ! これでどう自信を持てって言うんだよ!?」
地を蹴ったデュランは、一番近くの剣の天使に躍りかかる。半ば腹いせのような一撃によろめいた相手が空中に逃げ帰ったので舌打ちしたが、すぐ別の個体がやってきて打ち合う。
同時に三体に囲まれそうになったところを、光の球が打ち込まれてまた彼らが空中に戻っていった。
「変な所で鈍くならないでくれませんか――そもそも最奥でもないのに女神と何度も会える時点で、おかしいでしょう」
「じゃあ、どうして――」
「実物を見たら、思っていたのと違ってかける言葉を忘れたんじゃありませんか?」
「ユディスさん!?」
教養豊かで忍耐強いユディス=レフォリア=カルディにも、わからないこと、どうでもいいと思う事は存在したらしい。
急に説得が雑になった彼女は、本の一瞬微苦笑を浮かべてから、再び険しい表情に戻る。
デュランが一体を切り捨てると、残っていた三体が集まっていき、武器を合わせる。
彼らはまばゆい光を放ち、それが失せたとき、三体の天使は一回り大きな一体の天使になっていた。翼と腕は三対に増えている。
感触を試すように腕を素振りした後、その姿が消え――デュランは元いた位置から吹き飛ばされた。
(速い! それに重い!)
まともに一撃を受けられない。相手の力が強くて押し負けるのと、こらえている間に他の腕からの攻撃が来る。逃げて、なんとかどこかで反撃を、と思うのだが、避けるのに精一杯で隙が見つけられない。
それでも辛抱強く、致命傷を与えられないように相手をし続けていた時――
「
ぐらっと天使が体勢を崩した。どこからか伸びた蔦のような物が、足と手を絡めて地面に引きずり下ろす。
デュランはすぐさま剣を振り下ろした。兜を飛ばし、次いで胸を突く。一度で済まさない。何度も何度も大剣を振り下ろす。
それを繰り返すうち、ひくつく魔物の体から、ふっと力が抜けた。
煙のように姿が失せると、闘技場に静寂が訪れる。
声もなく、呆然と剣を地面に突き立てたまま肩で息をしているデュランの側に、ユディス=レフォリア=カルディが歩み寄ってきた。そっと顔を見合わせてから、彼はちらりと未だ残る闇色の球体にちらと視線を投げかける。
「……一緒に行こう。きっとこの先も、貴方の助けは必要になる」
しかし、騎士の差し出す手は取らず、彼女は緩やかに首を振った。
「ありがたい申し出です。けれど元々闇黒の間は……この先は、個人が試される場所なのです」
「じゃあ、後で合流すればいい。……最後まで一緒に行かないか。急ごしらえでも、チームになれたんだから」
神官は笑った。ほんのわずかに動いた眉が、ひどく寂しげなようにも思えた。
和んでばかりもいられない。
金属音がした。複数。空中に新たに現れた光は六つ――先ほどより数が多い。
「……行きなさい」
「でも、ユディス」
「行くのです――行け、デュラン! 貴方は進まなければならない!!」
まどろみからたたき起こすような一喝だった。
騎士は目を見開く。
ぐっと唇を引き結ぶ。
短く、敬礼をした。
それを最後に、くるりと神官に背を向け、一直線に暗闇の元へ走る。
金属音が鳴り響くが、そちらを見ない。
別の破砕音が聞こえたが、振り返らない。
背中に何かが迫る気配がした。
デュランはただ、足を動かした。
――枢機卿は、義理堅い実力者である。
その彼女が任せろと言ったなら、これ以上頼もしい事はない。
彼は信じた。
そして何に阻まれることもなく、闇の中へと姿を消した。
――――――――――――――――――――――――――――――――――――――
「ちえっ、一足遅かった。なんか僕に……認識阻害の術でも仕込んだ? すぐに後つけたはずなのに、全然追いつけなくってさあ」
あっという間に邪魔者を退場させた亜人は、男が飛び込むのと同時に姿を消した球体のあった闘技場中央部を睨んでから、神官の方に目を移す。
女はニヤッと口の端を上げて答えた。亜人は肩をすくめる。
「まあ、いいや。たぶんお前殺せば済む話だよね?」
「どうでしょうね。術者が死んだら永遠に解けない呪いも存在しますよ?」
「それ、揺さぶってるつもり?」
「いいえ? どのみち臣はここで死ぬでしょう」
「ふうん……そゆこと。もう命のストックも尽きてます、だから最後に時間稼ぎぐらいはしますってワケ?」
軽く亜人が腕を振ると、出現したばかりの鎧達が一撃で落とされる。まだ神官にはあえて当てない。
ユディス=レフォリア=カルディは杖を構えた。バチバチと紫電が、杖を、腕を、服に髪に、彼女の全身から発生して音と光を放つ。
「時間稼ぎ? それは少し違いますね……臣は言ったはずですよ。全ての
フン、と鼻で笑った亜人もまた、今度は明確に彼女を標的に構え直した。
「自爆ごときで落とせるほど、僕は安い男じゃないよ?」
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