迷宮 炎獄の間

 神聖ラグマ法国の人間はストイックだ。

 その禁欲的な純粋さは、時に無邪気であり、時に残酷だった。


 確かに、文字通りの盾だった。宣言した通りの誠実さが捧げられた。

 ユディス=レフォリア=カルディはデュランの前に立ち続け、彼に降りかかるあらゆる危機を、その身を投げ出して凌がせきった。


 おかげで相性の悪い水場から、次の間に至るまで、デュランは大した怪我も負わず、また戦いもせずに済んだ。


 彼女はもう一つ、宣言していた。攻撃には期待するな。これもまた、期待を裏切らない枢機卿の実直さにならって事実だった。


 最初に毒湖の間に落ちた際、巨大魚を追い払った――あの時既に、気がつくべきだった。

 全盛期のユディス=レフォリア=カルディなら、。その前に相手が絶命している。心臓、脳――あるいはもっと地味に、太い血管の一つだけ。それを経てば生命は活動を停止する。医術にも優れている女だ、無用な痛みを与えぬやり方も非常に鮮やかだった。


 つまりあれは打ち漏らしたか、意図的に見逃したかだったのだ。

 無用な殺生を避けると言えば聞こえはいいが、実態はそこまで余力が残っていなかった、だったのである。


 次のバジリスクは見事仕留めて見せたが、代わりに一度の絶命を迎えた。


 そしてデュランは次の間への入り口を探す際、強敵と出くわす度に彼女の鼓動が止まるのを目の当たりにした。


 最後には動かなくなった彼女の体を背負って、毒の湖の最も深い場所、埋もれるように存在していた扉の中に飛び込んだのだ。



 体の芯まで凍えるような冷たさと、ゆったり全身を蝕む毒から逃れた先では、灼熱の悪意が満ちていた。



 炎獄の間――最も冒険難易度の高い場所だ。この場を安定して攻略することができることが、一級冒険者の身分につながる。


 毒の水よりも更に危険な溶岩が絶えず地下を、すぐ下を、脇を流れ、時には上から降り注ぐ。果ては噴き出し、ガスまで吐き出す。熱とまがい物をふんだんに孕んだ空気は、肺を、そこから全身を蝕んでいく。加えてこんな劣悪な環境に出現する魔物は皆、出血、毒、火傷――一つの傷をじわじわと致命傷に広げる、そういう特性を持っている厄介者揃いだった。


 しかもなお悪い事に、デュランとユディスは直前まで冷たい場所にいたと来た。

 震えは一瞬で飛んだが、代わりに嫌な汗がじわりどころかどっと吹き出してきて止まらない。加えてピリピリ肌が痛む。炎症の気配だ。赤くまではなっていないだろうが、火照っている事は間違いない。


 ――やはり今のドラグノスは無双の鎧ではない。限りなく外部からの刺激を軽減はしてくれているが、完全無効化までは至ることができていなかったらしい。連戦の果て、亜人にたたき込まれた破壊の鞭の衝撃が重たかった。


 あるいは己の内側にこそ、何か理由が存在しているのか。


 ともあれ、安全地帯を求めてしばしさまよった竜騎士は、ひとまずは炎の心配をせずに済みそうな岩場を見つけ、そこにユディス=レフォリア=カルディを一度横たえる。


 女はまた咳き込みながら体を起こし、水を吐いた。もうそれ以上胃の中に残っている物はないらしい。


「ここは炎獄……ですか」

「そうらしい」

「順調――ではないかもしれませんが、徐々に深層に近づいている手応えがあるのは良いことです。おそらく次が試練の間でしょうね」


 彼女は落ち着き払ったもので、自分の杖の感触を確かめるように握り、それを支えに立ち上がろうとする。


 そこまで待って、竜騎士はつい口を開いた。


「償いか?」

「……何のことですか?」

「俺はこんな……貴方にこんな目に遭ってほしいなんて、望んでいない。貴方が許せないことをしたのだとしても……こんな形では」


 いぶかしげな顔をしていた神官が、一瞬だけ揶揄する形に唇を曲げた。


「若き人よ。それは、貴方の同情を買いたくて……あるいは贖罪のために、わたくしが女神から呪いを受けた。そうおっしゃりたいのか?」


 今度はデュランが黙り込む。

 彼は鎧の下で何度も口を開いたが、結局何も出てこない。


 口論などするべきではない。

 だが黙ってこのままにするのも、違う気がして。


「……もっと、単純な。対価と願いの結果なのだと思いますよ、これは。少なくともあなたの感情とはさほど関係ない――いえ、関係はあるのかもしれない。ただ、臣にとっては本質的ではないだけで」


 すると彼が迷っている間に、枢機卿も多少落ち着いたのか、怒らせていた肩を下げてゆるゆると頭を振る。


わたくしに与えられた対価は、何かを奪うときに自分にも同じものが返ってくること。そして願いは、死が一度では済まないこと……そんなところでしょう。いえ、私自身もよくわかっていないのです。この、死が何度も訪れる事は果たして願いなのか、対価なのか」


 汗ばんだ額に張り付いた前髪を鬱陶しそうに除けて、彼女は大きく息を吐き出す。


「――貴方はまだ、気を失っていた。臣は女神を前にして、その怒りを感じました。ああ、ここで終わる。そう気がつきました。臣一人ならば、何の未練もなかった。第一、いざというときは捨て駒になる――その覚悟ができていない枢機卿が、迷宮領になど暮らせるはずがありません」


 ただ。彼女はそう、小さく弱々しい声を漏らし、杖から片手を離してじっと見つめた。


「ただ――臣がこのまま終わるのは、残されるあの子があまりにも不憫だ。そんな未練が、今際に頭をよぎったことを覚えています」


 女神官が力なく降ろした片手――それが少し前、神殿でどうなっていたのか、デュランは情景を容易に思い浮かべることができた。


 彼女の片手を、少年が握っていた。

 怒れる女神を前にしてなお、彼女の一番弟子は師の側にあり続けたのだろう。


「女神の指が臣の心臓を指していた。声が、頭に響きました」


 奪うなら、奪われよ。

 願うなら、足掻き続けろ。

 その体が朽ちるまで、けしてお前が赦されることはない。


 ――お前の価値を、示せ。


「……それが一度目の死です。あの子は、臣が自力で治したと思い込んだようですが。ただ、この蘇りは万能ではない。おそらく回数制限がある。臣の体が動く限りは貴方をお守りしますが、頼りすぎると後が辛いですよ」

「わかった――あなたはあなたの守りたいもののために戦う。これまでと何も変わらない。そういうことだな、ユディス」

「そうですとも」


 神官と騎士は見つめ合った。


「なら、俺はこの先も頼りにする。ただ、危なかったらいつでも言ってくれ。フォローする」

「そうですね……水中ではあなたが相当不利であると思って露払いも務めましたが、この先そちらはお休みさせていただきたく。いちいち倒れられるのも鬱陶しいでしょう?」

「了解だ、休んでた分釣りは返す。ああそうだ、それから先に聞いておくよ。これ以上のドッキリはないな? 味方のだまし討ちなんて心臓に悪いから、悪戯は先に予告しておいてくれ」

「死亡詐欺以上の劇薬はご用意していませんから、ご安心を。ああただ、いちいち術の説明はしませんよ? 臣が貴方の想定以上に優秀でも、驚かないでくださいね」

「じゃあ、俺の心臓が止まらない程度にとどめておいてくれ」

「善処はいたします」


 言葉を交わし合いながら、どちらからともなく歩き出している。

 その頃には、二人の間に漂っていたぎこちなさはすっかりなくなっていた。


 デュランはもう、女神官が自分の目の前に飛び出しても動揺することはない。時折鎧越しに肌を焼かれる感触に顔をしかめはしたものの、水中よりは大剣を振るえる分、気が楽だった。


 ユディス=レフォリア=カルディは淡々と自分の役目を果たしている。彼女は一見デュランを守っているようだが、そうではない――この場にはいない、地上に残した守るべき者の盾を務めているのだ。


 ひときわ熱が籠もった場所を、右に左に魔物を切り捨てながら駆け抜けきった先、デュランがふと足を止めた。


 後ろを担当していたユディスが追いついて開きかけた口を、そのままぎゅっとへの字に引き結ぶ。


 二人の進もうとする通路に、おそらくは魔物の残骸なのであろう血糊が散乱している。加えて辺りの地面などそこかしこに、嵐でも起きたかのような荒れた痕跡が残っていた。


 とりわけご丁寧なのは、びくびく痙攣している虫が、通路中央に生きたまま標本のように磔にされていたことだ。釘――というか腹部を貫く杭は、その辺の岩から削り取ったのだろう即席と見える。その割にはきちんと返しが作られている辺り、実に制作者のいやらしさがにじみ出ていることこの上ない。


 迷宮内の魔物は討伐されれば、。だからこその趣向なのだろう。


 無言で虫を大剣で突き、とどめを刺してやれば、女神官がそっと肩に触れる。


「こしらえられて間もないと見えます。すぐに追いつくかもしれませんね」

「冒険者達が全員弾き出されたって聞いたときは、ちょっと恨めしく思ったけど……こうなると、女神様に感謝するしかないな。強制的に追い出すなんて、ファインプレーすぎる」

「同意します。おかげで我々が人間アートを見ずに済みました。さ、急ぎましょう」


 さらりと流して神官は先を進んだ。竜騎士はその後に続く。


「ところでユディス……少し思ったんだけど、貴方はもしかしてこういうの、結構慣れてるの?」

「慰術と呪術を修めれば、人の構造にも業にも触れずにはいられませんから」


 それもそうか、とため息を出しかけたデュランは、上方からの気配に反射的に身を屈めて備えた。


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