惑う娘 恋の相談をする 後編

《シュナ。あなたの考える人間とは何?》


 かつて竜達に向けたとき、逆に返された問い。

 それと同じ物が、今母に類似する言葉を投げかけてもやはり返ってきた。


 以前ならば困ったように首を傾げたシュナだが、今は少しの間の後、小さく、それでもしっかりと一つの言葉を紡ぐ。


《……外で暮らしていける人のこと》


 シュナがイメージしたのは、デュランの隣で笑っている女性の姿だ。

 それはけして迷宮の中ではない。


 光り輝く装飾具、華やかなドレスの群れを思い出す。


 綺麗に着飾って、微笑んで、日々人と会ったり本を読んで過ごしたりして、時折人の関係の波風を感じながら、それでも安全な場所で、帰ってくる彼を待っている――きっとそういうものが、デュランの隣に在る女性として求められるものなのではないだろうか。


 そしてそれは、竜ではできないことなのだろうと思う。

 まずもって迷宮から出ることができない――いや、たとえ大空の下を自由に羽ばたけたとて、竜はその場所にいるべき存在ではない。


 だんだんと、そういうことがわかってきたのだ。ようやく、とも言える。


 母は静かに娘を見下ろしていた。意外にもさほど間を置かず、返答がある。


《それならあなたは、もうとっくに人間であると言えるのでないかしら。あるいは最初から》

《でも……でも。普通の人間は、竜にはならない。普通の人間は、人の姿になったら喋れなくなったりはしない。普通の人は――》

《仮に今口にしたことがすべて事実として。それが好きを止める理由になるの?》


 息を飲み込んだ瞬間、ひゅっと喉が鳴った音がした。


 女神の瞳は銀色をしている。美しくも鋭く冷たい、それは金属や鏡の色だ。深く深く心の奥底、自分でも意識していなかったような本音を掘り起こされ、シュナは一瞬呼吸すら忘れる。


《――そう。理屈で考え、わたしたちが収められるのは所詮行動でしかない。気持ちはどうにもならない。思う心は駄目だと思う程度で止まらない。条件を提示して、処理を実行。機械ならそれで済む。人間はそうじゃない。なら逆に、あなたのそのままならない心こそが、あなたを人間と証明しているのではないかしら》


 イシュリタスの話し方は穏やかでありながら、時折確かな愛情の熱を孕んでいるようだった。


 ぐらぐらとシュナの思考は揺さぶられる。


 ――ニンゲンなら。

 ――ニンゲンに恋をして、いい。

 ――本当に?

 ――でも、たとえ普通の人間じゃない。それがどうしても変えられないことだとしても。


(あの人を嫌いになる理由には、ならない……)


《――好きでいていいのか》


 打ち切ったのは母の言葉だった。はっと振り返ると、ゆっくりと歩き出していた彼女は娘の横を過ぎて、少し行ったところで足を止める。


《何が正しいのか。わたしはそれに対する答えを知らない。考え続けても、これと思える回答を出せる日は来ないでしょう》


 見上げた視線の先を追えば、そこには先ほど竜が生み出された砂時計のような不思議な装置があった。


 いつの間にかあふれ出して床を塗らしていた液体は痕跡もなく、二つの円錐はただ内部に金色の液体をたたえ沈黙している。


 母の細長い横顔を見ていて、ふと言葉が心からあふれ、零れた。


《お母様は……お父様を好きになったこと、後悔しているの?》


 ――あ。と、思った。言い終えた瞬間に、激しい後悔が襲った。


 痛いほどの沈黙が訪れる。伏せるように顔を下げてから、母はあちら側を向いてしまい、もう表情が見えない。


《ごめんなさい、わたくし――》

《――わたしたちは》


 なんてことを言ってしまったのだ、とシュナは青くなり、慌てて謝ろうとする。


 それを遮るようなタイミングで母は新たに話し始めた。


《――変容する。人間という種族よりも、もっと柔軟に変化することができる。あるいはそのように設計デザインされた。オリジナルのイシュから因子を抽出し、人間用にカスタマイズして作り上げられた人造の機械神デウス。正確にはその装置、祭壇の玉座に据える偶像。それがわたし、イシュリタスという存在の定義》


 滑らかに話される。その言葉は聞き取れても、意味までは測りかねる。

 ただ、大事な話をしているのだと、聞き漏らしてはいけないのだと――そういう予感だけはあって、シュナは必死に耳を傾けた。


《だから、受け入れたいと思えば、受け入れる身体になる。人間の因子がより強いあなたなら、気持ち一つで今すぐ願いは叶えられるでしょう。わたしの時は機能を実装するまでに少し時間が必要だったけど、あなたならすぐにでも得られるはず》

《あの、お母様……》

《赤ちゃんを産めるようになるということよ》


 さらりと言って、女神は振り返った。その顔からは、先ほどまではわずかながらにでも感じ取れた表情、感情の温度というものが抜け落ちている。


 淡々と、業務を説明するように。女神は語る。じっと瞬きもせず、娘を見つめながら。


《でも。それは完全に人間になれるというわけではない。あくまで人間を模倣して、限りなく近しいものにしているだけ。わたしたちの本質は彼らとは異なる》


 イシュリタス自身は動かなかったが、そちらを向いていれば自然と視界に入ってくる、竜を生み出す物体。


 よくよく目をこらせば、薄暗い部屋の中にそれは規則正しく等間隔で、いくつも連なっているようだ。

 同じ物を規則正しく、大量に作り出す――そんな目的を感じさせる、無機質な空間。


 シュナは竜とは生まれ方が異なるのだと言う。母が人らしく出産したのだと聞いている。けれど一方で、竜の生まれる瞬間に、その場にごくごく当たり前のように一部となっていた母を見ると――それが自分の母親なのだと思うと。


 どうしても、目の前の物は無関係とは言えず、まして自分とは全く異なるとも思えなかった。

 現にシュナは竜としての不思議な力を次々と解放している。この場所にだって、前は来られなかったが、アグアリクスの後を追いかけて入ってくることができた。


 多少知識が増えて動けるようになった人間体より、よっぽど竜の時の進化の方が顕著な変化だ。


 母の言葉はひしひしとそれらのことを思い起こさせる。


 しかし、そこでふっと彼女が表情をほころばせた。


《もし完全な人間になりたいと思うのなら。女神はその願いを叶えることができる。ただしお前はもう二度と竜になることはできないし、迷宮に入ることもできない。望みには対価が必要。これは神と人との契約になるのだから》


 いや、違う。安堵させるための笑みではなかった。苦笑いか自嘲。ただ喜びや楽しみを表現するためには必要ない、諦念と寂寥を女神イシュリタスは浮かべていた。


《逆に人として在るべきでないと望むなら……それもいい。その方がいいかもしれない。わたしの全てをお前にあげるし、人の因子を取り去ってあげる。禍根を生む、結ばれる可能性なんて残さない。可能性があるから無謀もあるなら、最初から全部種ごと燃やし尽くしてしまえば――もう、咲くという未来がけして起こらないようにすれば。枯れることを心配しなくてもよくなる……そうでしょう?》


 囁くような、途中からどこか歌うような声。

 その響きの残酷さに、シュナは大きく目を見開き、立ち尽くしていた。


 ――どこか。頭のどこかで、考えてみたことはあった。


 外に行きたいから人間にして。

 あるいは、もう外のことで迷いたくないから完全な竜にして。


 そう、母に願う――そういう選び方が、あるのではないかと。


 けれどなるべく思わないようにしていた。

 だって、どちらかを選ぶと言うことは、どちらかを捨てると言うことだ。


 人間を選ぶなら、母に自分を捨てさせろと願うことになる。

 竜を選ぶなら、眠りから覚めて得たちっぽけなシュナのそれでも大事な世界を、全部手放したいと望むことになる。


 青い身体に銀の瞳、通常の竜達と同じぐらいの大きさで、けれど他の個体より優美に見える繊細なシルエットを持つ彼女が、ゆるやかに翼を広げた。


 仄かな橙色の照明に照らされて伸びる影が、人ならざる存在の圧を帯びる。


《後悔? ええ……ずっとしている。しないはずがない! あの人と出会ったこと。あの人に愛をもらったこと。あの人に愛を返すと決めたこと。あの人の子を産もうと思ったこと。失いたくないから手放して、結果は……何が間違っていた? どこから道を違えた? わたしのしたこと全てが無意味に思えてならない。わたしという個体が人間という意識を芽生えさせた罪を自覚せずにいられない。ずっとずっと考え続けている。答えは出ない。……それにもう、出しても意味がない》


 だって、あの人は死んでしまったのだから。


 喉に滲む血を絞り出すような言葉だった。聞いている者の魂をえぐり取る悲鳴だった。


 爛々と輝く瞳に灯る奇妙なちらつきを、シュナは知っている。

 死の間際の父と同じ熱が、母の中には未だ燻っていた。


 けれどみるみるその光も勢いも萎んで褪せ、後に残されたのはただ徒労感に満ちた孤独な一匹の竜の姿だ。


《人に恋をした。その気持ちはもう、どうにもならない。ではどうすればいい? 人になるか。神になるか。それともその二つの間で迷い続け、別の道を目指すのか。……わたしには答えられない。もう明日を考えることに疲れてしまった。それでもわたしという存在が、経験が、記録が……何かお前の役に立つのかもしれない》


 父という人間を愛した結果、壊れてしまった。

 その自分を見て、それで自分の事は自分で考えろ、と母は言うのだ。


 けれどそれが理不尽だとか、物足りないとかは、とても言えそうになかった、思えなかった。


 再び彼女が歩み寄ってくる。ゆっくり一歩ずつ床を踏みしめて、こつんと娘に額を当て、そのまま目を閉じた。


《考えている……考え続けている。あなたはどうすれば幸せになれるのかしら、シュナ……》


 もし、人間の身体なら、今すぐ両手で抱きしめてあげられるのに。


 シュナはこのちっぽけな母親に、そんなことを思った。


 けれど同時に、今竜の身体のままでももっと寄り添うことができたはずなのに、その一歩を踏み出すことがどうしてもできなかった。

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