若竜 騎士を乗せる
たぶん、彼には笑顔でいる癖が染みついているのだろう。真顔になると、まるで不自然な状態から戻そうとでもするかのように口角がひくつく。
「えっと……何? え? 潰れる? というか飛び方がわからない? なんだそれ。どういうこと? 俺今日もう腹一杯なんだけど? いや腹はむしろ減ってるけど、これ以上予想外詰め込まれたら処理が追いつかないんだけど? 何だこれは迷宮の試練か。いや待て、落ち着け。深呼吸だ。大丈夫俺はかっこいいしできる男。たぶん行ける。たぶんなんとかな――なるか!? いや! なるなる、頑張れ、信じる者は救われる……」
真っ青な顔のまま震えの抑えきれない声で呟いている男を、シュナは怖がればいいのか心配すればいいのか大いに迷うところだ。
とりあえず自分の言った事がかなり衝撃的だったのだろうということはわかる。それはそうだ、シュナだって竜に「乗せたら潰れる」だの「飛び方がわからない」だの言われたら、きっとどう返していいのかものすごく困る。
しかし、竜の姿になってしまっていても、彼女の意識は今のところ、十八年間積み上げてきた人間としての自分の方が遙かに強い。今の自分が本来のものではなく何らかの事故で変じてしまったもの、という気持ちが強く、経験は塔の中の十八年間に依存している。
するとどうしても、乗せていってくれという言葉に対し、はい大丈夫ですできます任せてくださいと返すわけにはいかないのだ。
困っているなら助けてあげたいがたぶん無理です、というのが素直な答えとなる。
《ごめんなさい……》
しゅん、と身体を縮こまらせて彼女が鳴くと、きゅううと悲しそうな音が響き渡る。
呆けていた男は途端にはっとして、慌てたように姿勢を正した。
《いや、あの。君が悪いわけじゃない、君は悪くないよ! ただ……えーと。その、俺も今、どうすればいいのかなって、考えてて》
二人とも黙ると気まずい沈黙が落ちる。デュランはすっかりしょんぼりうなだれている竜を注意深く見守りながら、そっと言葉を続けた。
《とりあえず。たぶんこう、経験則的に、人に乗られて竜が潰れることはないと思うんだけど……どうだろう?》
《そうかしら?》
《そりゃ君は、標準的な竜に比べてちょっと小柄で美人なかわいこちゃんだけど、身体が小さいからってパワーがないとかそういうことは全然――》
そこで彼は言葉を句切り、一度彼女から離れてまた全身を眺めてから唸った。
《あのさ。ひょっとして君、もしかしてまだ幼竜――ええと、つまり。大人じゃなかったり、する?》
シュナはこっそり考えた。
彼女の認識ではちょうど十八歳。成人の年であり、だから父は彼女に外の世界を教えてくれると約束したのだ。
だが、今はどうだろう? 竜としての自分は、大人と言えるのだろうか。十八歳は竜にとってどういう意味を持つ数字なのか。いや、起きてからはそこまで時間が経っていない、というか自分の身体の動かし方すらろくにわかっていないのだから、それこそ赤子と言えるのではないか。そもそもあの恐ろしい出来事からどれほど経ったのかもわからない。
かといって、では今考えたことを全部素直に「人間では十八歳の大人、でも竜になったばかりだから子どもなのかも」なんて風に目の前の人物に話すなんてこともさすがにはばかられる。
物知らずでも想像することはできる。そうした場合、相手の反応はよくて困惑、悪くてすぐさま敵対視と言ったところだろう。シュナだって自分が怪しすぎる自覚があるのだ。どう転んでも場の状況は悪化する。
結論は、何も答えられない、だ。竜は悲しそうな鳴き声を上げる。
《……ごめんなさい。わからないの、何も。自分のことも、何も》
《……ごめん。ちょっと俺も自信なくなってきた》
双方頭を抱え、振り出しに戻る。
すっかり落ち込んだシュナは、ぼんやりと自嘲する。
(わたくし、竜になっても何も知らないで、何もできないままね)
十八歳の誕生日、彼女は自分を知るはずだった、世界は塔の中から外に移るはずだった。
もしかすると、全てのなぜの答えを知り、教えてくれた人は――もう、いない。もう、どこにもいない。
約束は果たされる前に消えてしまった。
腹部に刺さった短剣。光の消えた瞳。夜の中の殺戮。穴に飲み込まれた全て。
どこか遠くて近い場所で、見知らぬよく知る誰かが歌っている。
――星はもう、見られない。あなたのいない世界に、星はない……。
《シュナ?》
デュランにそっと呼ばれて、彼女は思考の渦から戻ってきた。
彼女の目に映るのは、優しい笑みを浮かべる赤毛の青年だ。
《あのさ。とりあえずちょっと試してみて、駄目そうならやめとくとか、そういうのはナシ? たとえば俺が君にゆっくり乗っかって体重をかけてみて、本当に潰れちゃいそうならすぐやめるし、俺もちょっと別の作戦を考えてみる。でもそれで大丈夫そうなら、次は飛べるかどうか試してみる。そういうのはどう?》
このまま二人で立ちすくんでいるばかりでも埒が明かない。それならまず試行錯誤してみて、うまくいけばよし、ダメでもともと、むしろ失敗するならそれはそれでその作戦が使えない事実を知ることができる、そういうことなのだろう。
シュナにもそれは悪くない考えに思えた。
悪くはないのだろうが、別のことに躊躇を覚える。
おずおずと、小さい声で聞いてみた。
《……がっかりしない?》
《え。何が?》
《飛べなくても乗せられなくても……がっかりして置いていかない?》
ぽろりと笛が口から落ちた。ほとんど間髪入れず、それこそ笛を構え直すことも忘れたようで、当たり前のことを言うように口を開く。
「置いていくわけないじゃないか。君は俺の竜だ」
それは何気なく言われた言葉で、けれど彼が表情を作る暇さえ忘れて言ったことだったから、すとんと胸に、腹の奥に落ちてすっきりと収まった。
シュナの喉が、また熱くなる。最初に彼に名前を教えたときと同じように、一瞬燃え上がるようにかっと熱を放ち、それから余韻を残して消えていく。
《……ええと、その。君が自分から一人にしてくれって言うならともかく、置いてなんかいかないよ。いや、できればついてきてもらって、その暁には最終的に俺の竜になってくれたらいいなー、なんてことは思ってますけどね? それはこう、俺だけの一存では決められないと言うか》
デュランは自分がつい咄嗟に口走っていたことに気がつくと、慌てたように笛を直してなんだか恥ずかしそうにもごもご言っている。
シュナは喉の熱が消えていくのを感じながら、それでも残る温もりを意識していた。
(そうだわ。一人にしないでと呼んだ。そうしてやってきたのが、この人だった。それならわたくしは、わたくしのするべきことは……落ち込んでいる暇なんてない。しゃんとしなきゃ!)
《デュラン、乗ってみて! わたくし、頑張るから!》
ふんと荒く息を吐き、急にやる気を出し始めた竜に、騎士は驚いた顔からすぐまた歯を見せる笑顔に戻った。
《ありがとう。無理はしないで》
《わたくし、どうすればいい? どうすれば乗れるの?》
《ええと、じゃあ……そうだな、翼を下げて。そのままあまり動かないでくれると助かる》
シュナは言われた通りに大人しくした。歩み寄ってきた男は彼女の首の付け根の辺りに手を掛け、声を掛ける。
《今から体重をかけていくから。辛くなったら、教えて》
《わかったわ》
どきどきしながら待つ。ぐっと力を込められた感覚はあったが、痛みや辛さはない。一定以上力が強くなるのを感じると身体が押される方向によろめいたが、そこでデュランは力を抜き、心配そうに聞いてきた。
《大丈夫?》
《平気! 押されたから動いただけ。デュランって力持ちなの?》
《まあドラグノス着てるし、鍛えてるし、多少はね?》
《デュランはすごい人なのね! ドラグノスってなに?》
《んー……特別な鎧だよ。迷宮の奥で見つけたんだ》
《特別ってどんな風に? 迷宮の奥ってどこ? どうやってそこまで行ったの? 一人だったの? やっぱり竜に乗っていたの? どんな竜?》
《えーと……》
素直な賞賛を受けてまんざらでもなさそうなデュランだったが、シュナの勢いに少し圧され気味になる。
自分の質問攻め癖が出てしまったことに気がついたシュナは、ぐっと堪えて飲み込んだ。
《ごめんなさい。今は乗れるかどうかが先よね。でも、でもね。もしうまく乗せられて、それでうまく飛べたら、たくさん聞きたいことがあるの。答えてくれる?》
《もちろんだよ》
《じゃあ、早く乗ってみて! 早く早く!》
デュランはぷっと笑い声を漏らしてから、もう一度シュナの身体に手を掛ける。
《行くよ……せーのっ!》
どさり、と背中に何かが乗っかった感触はある。
しかし、それで息が苦しくなるとか、身体が地面に押しつけられて動けなくなってしまうようなことはない。
《……乗った! 乗れたわ、デュラン!》
ピイピイ鳴いている竜の上で、騎士は多少のポジション調整をしているようだ。何度か身体をずらしている気配がしてから、一点で落ち着く。ポンポンと首元を叩かれてまたシュナは嬉しい声を上げた。
《平気そう? 重たくない?》
《平気! デュランって案外、とっても軽いのね!》
《それはそれで複雑な気分になる言葉だ……ちょっと、歩くのはいいけど、ゆっくり!》
《だんだんわかってきたの。これが歩く。これが羽ばたく。デュラン! わたくしこれなら本当に飛べるかもしれないわ!》
《ストップストップ! 落ちる! シュナ、それはさすがに俺が落ちる――おいこらこのっ、はしゃぎすぎだ!》
一歩踏み出し、一つやることができてシュナの次への期待はとどまるところを知らない。早速上がった気分のままに跳ね回ろうとしている竜の上で、しばらく騎士は奮戦することになった。
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