若竜 言葉を奏でる

 しばらく声を上げて笑っていた鎧の男は、竜が目を丸くしたまま彼の様子を見守っているのに気がつくと、咳払いした。それでも笑顔は絶やさない。


 父もけして怖い顔をしていたわけではないのに、随分と印象が違う。それはけして、彼らの見た目や色合いが違うとか、それだけの問題ではないように感じられた。

 どうしてだろう、と考えていた彼女は、この若者が笑うときには真っ白な歯がのぞくことが多いようだと気がつく。父は目尻を下げているだけの笑い方が多かった。一方、赤毛の青年は声を出さない時も、口を開いて表情を作っているのだ。だから明るく開放的な印象になるのだろうか。


 密かな発見に自分で感心していた彼女だが、やがて相手もまたこちらをずっと見ていたことに気がつくと、なんだか居心地が悪くなる。


(……なぜかしら? わたくし、別に悪いことをしたわけじゃないし、この人も嫌な感じはしなさそうなのに)


 何もかも初体験の彼女はひたすら状況に翻弄され続ける。青年は少し距離を置き、彼女の顔から首、身体、翼、尾に至るまで一通り視線を滑らせた。じっくり観察されてそわそわしていた竜は、彼に近寄られて再び手を伸ばされると、咄嗟に身体が反応してしまう。シャー! と鳴った音は、推測するに威嚇音だろう。


 しかしもう彼が動じる様子はなく、笑いながら彼女に近づき、首の辺りをポンポン叩く。


「悪い悪い。怪しい者じゃないんだ。怖がらないで。びっくりしたんだよな。まあ……その。俺もかなりびっくりしたけどね? というか、今日は本当にびっくり続きなんだけどね?」


 身体を硬直させた竜に軽率に触りまくりの若い男は、応答もないのに言葉をすらすらと続ける。どうも彼女の知っている常識的な人間に比べて、よく言えば気さく、悪く言えば随分調子が軽いような気がする。と言っても彼女の比較対象は一名しかいないので、とてつもなく偏りのある判断基準なのだが。


 相手が(おそらく緊張か恐怖で)固まったまま小刻みに身体を震わせていることに気がつくと、男は再び笛を軽く食んだ。


《初めまして、かわいこちゃん。驚かせてごめん。俺はデュラン。君は?》


 柔らかな音と共に、彼女の頭の中に言葉が浮かぶ。

 今までの状況や相手の行動から推測するに、もしかすると彼が吹く笛には、人の言葉を竜の言葉に変換する、そんな仕掛けでもあるのだろうか? 


(わたくし、わざわざ笛を吹かれなくても、貴方の言葉は問題なく聞き取れているみたいなのだけど……)


 笛越しでなくてもいいのに、とか、これは逆に笛を吹いていない時の呟きには応答しない方がいいのだろうか、とか、考える事がたくさんあって彼女は困惑する。しかし何度か同じように笛で語りかけられると、ついに根負け……というよりも、本来の彼女らしさが出てきて素直に疑問を口にした。


《かわいこちゃんって、なに?》


 聞いたことがあるようでない単語だ。自分の事なのだということと、おそらく相手の態度からして貶しているわけではないのだろうということは、文脈上理解できる。しかし、知らないことに対する興味が貪欲なのは、姿が人になろうが変わらない。見知らぬ相手に最初に返した言葉は未知への問いだった。


 彼女の喉から出てきたのは相変わらず竜の鳴き声なのだが、どうもちゃんと通じたらしい。

 一瞬、鎧の男はぽかんとしたような顔をした気がしたが、立ち直りは素早かった。


《君みたいな子のこと。それで、名前は?》


 正直、彼女から男に対する印象は今、困惑と警戒が主要要素、残りが好奇心と不審いったところだ。

 産まれてからこの方ほとんど父以外の人間と接してこなかった上に、慣れない竜の身体に変わってしまっている彼女には、自分がどうすればいいのかなんてわかるはずもない。このまま話していいのか、それとも実は今すぐ逃げ出すべきなのか、さらに他の選択肢があるのか。


 随分長い間悩んでいたが、やはり相手が少なくとも嫌な人物には思えないのと、あちらがせっかく名前を教えてくれたのにこちらがだんまりというのも無礼な気がして、沈黙の後ぽつりと小さく答える。


《……シュナ。名前は、シュナ》


 その瞬間、自分の喉の辺りがかっと熱を帯びる。しかし、そちらに反応するよりも、今か今かと待ち続けていた相手が喜色満面に応じる方が早い。


《シュナ――シュナ。そうか、シュナ。素敵な名前だ》


 笛で、そして次は、普通に人間の言葉で。

 男は何度も、シュナ、シュナ、と繰り返している。


 ますます強くなるそわそわ感に耐えきれなくなった彼女は、対抗するように口を開く。


《あなたは、デュラン?》


 お返しというわけではないが、父以外で初めてまともに喋ろうとしている相手なのだ。元々好奇心旺盛な彼女のこと、興味が湧かないわけがない。

 途端に赤髪の男、デュランは目を輝かせた。彼の金色の目がきらきら光るとなかなか眩しい。


《そう。俺はデュラン。デュラン=ドルシア=エド=ファフニルカ。竜騎士だ》


 胸を張り、誇らしげに再び名乗ってみせたが、なぜかそこで急に自信が失せたらしい。言葉が切れたかと思えば、独り言でブツブツ言っている。


「竜騎士……うん、たぶんまだ、ギリギリ竜騎士のはず……今日きっとおそらく、注釈がつかない方の竜騎士に戻れる、はず……」


(デュラン。デュラン=ドルシア=エド=ファフニルカ……噛みそうな名前! どうしてこんなに長いのかしら。そもそもわたくし、今本当に聞き取れていたのかしら。ちゃんと覚えられていないと、折角こんなに丁寧に教えてくれたのだもの、間違えたらとても失礼よね)


 幸か不幸か、シュナは直前の情報を覚えることに一生懸命になっていた。しばらくフルネームを必死に頭の中で繰り返していたため、彼のいかにも情けない独り言を、耳にはしていても意味を真面目に理解するところまで認識のレベルが上がってこない。


 けれど覚え切れたと満足したところで、ふと彼の口にした別の言葉に思考が巡った。


(そういえば、やっぱりあの笛は吹いていると竜と話ができるようになるものなのかしら。あちらの言葉が竜の言葉になるだけじゃなくて、わたくしの言葉だってちゃんと聞き取っているものね。それに今、この人は自分の事を竜騎士って言ったの? 竜騎士って……竜に乗る騎士様のこと? 馬に乗るみたいに?)


 脳裏に蘇る騎士達の光景に一瞬ぶわっと鳥肌を立てそうになった彼女だったが、鱗で覆われている竜にはそういう身体の機能はないらしい。ただし寒気はばっちり感じたので、早々に頭の中から忌まわしい過去は追い払うことにした。


 ブンブンと頭を振って嫌なことを忘れようとしている彼女に、シュナの名前を唱えることに満足したらしいデュランがまた笛を使って話しかけてくる。


《シュナ。それで、早速なんだけど、頼みたいことがあるんだ。実は今、非常に困っていて》

《なあに?》

《俺を乗せて、上に連れて行ってほしい》


 シュナは素直な性格をしており、困っている人を助けることにいちいち理屈をこねたり自分の労力を惜しむことはない。元々の気質もそうだし、父親が大事に育て上げた環境のせいもあるだろう。


 が、しかし。今この瞬間、彼女が真っ先に思った事は不安であった。


《……乗せる? わたくしが、あなたを?》

《えっと……ダメ、かな? 俺のこと、嫌?》


 青年の笑顔に陰が差したが、別のことで考えるのに忙しい彼女は気がつかない。

 竜は首を傾げ、いかにも不安そうに言った。


《そういうわけじゃないの。ただ、あなたを乗せたらわたくし、潰れちゃうんじゃないかしら? だってあなた、とても重たそうだもの》


 何とも言えない表情でデュランが固まったが、素直な彼女はさらに翼をパタパタと動かしながら、自分の疑問を口にする。


《それに、飛ぶってどうすればいいの? わたくし、わからないのだけど》


 世間知らずなシュナだが、なんとなくこの時は誰に説明されずとも知ることができた。

 人が本当にパニックになると、顔から表情が消えるのだということを。

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