姫 涙する
表の図書室とは、城内の公的スペースに存在する空間のことだ。
城が侯爵一家の住む私的居住空間と公共施設のエリアに分かれるのは以前に説明された通り。
それと最初に図書室に案内されたとき、デュランが街の図書館と公共施設の図書室の存在をちらりと口にしていただろうか。
今までシュナが出入りしていたのは私的図書室で、今度許可が出たのが公的図書室の方。町の図書館に出かけるのは昨日の今日だから厳しいが、城内ならまあ……と侯爵一家の頂点に君臨しているだろう夫人は判断したらしい。
朝食は一人で食べたが、昼食は夫妻と一緒になった。
デュランの方は相変わらず忙しいらしいが――いや夫妻が忙しくないなんて事もないのだろうが――気にかけてもらっているのだから、感謝の気持ちを忘れずに、かつできれば期待に応えていきたい、とシュナは身を引き締める。
「城内とは言え基本的には出入り自由、公共の場。町の図書館よりは落ち着いた雰囲気であるはずですが、それでも多様な人が利用します。また先日問題を起こした例の方は冒険者の中でも特権階級。端折ってわかりやすく必要な所だけ伝えると、彼は公的な場ならほぼどこでも自在に出入り可能です。あたくし達の私的スペースなら遭遇は可能性は低いと考えていいでしょうが、表の図書室に行くのならその辺りのことはきちんと頭の片隅に入れておくことです。お供はつけますけど、だからって万全ではないことは、あなたも痛感したでしょうしね」
相変わらずきびきび上品に食事を片付けながら、すらすらと夫人はシュナに話しかけてくる。
シュナはクリームソースの絡められた白身魚と格闘しつつ、神妙に頷いた。彩り豊かな野菜の皆様には一度脇にどいていただいている。魚は肉より幾分扱いやすい、と思っているのは、彼女がまだ骨付き魚に挑戦したことがないためだろう。何ならシュナの中ではまだ、水の中で泳いでいる魚と切り身が結びついていない部分もある。
(――これは会心の出来と言っていいのではないかしら!)
無事、綺麗に切り分けられて喜んでいるらしい娘を、侯爵はわかりやすくデレっと表情をゆるめ、夫人は厳しい表情の中ほんのわずか目元を緩めて見守っている。
「デュランにはこういうのがなかったからなあ……なんかこう、頑張ります! みたいなのが。あいつ全部さらっとそつなくこなすから。いや迷宮関連、竜関連ではいつも必死だけど、そうじゃなくてもっと人間界に興味を持ってほしいというか……。最近変わってきてパパちょっと嬉しい……」
なんて目元を拭っている公爵の横で、それにしても、と夫人がため息を吐いた。
「表に出ること、デュランは嫌がるでしょうね。まあ、行き先は決まっていますし、城内ですから、昨日のようなことは起こらないと思いますが……」
「過保護だからなあ。『なんで俺に言ってくれなかったの!?』とか、『えっじゃあ俺ついていく、やだよ一人で行動させたくない』なんて後でうるさいかもしれん。まあ気持ちはわかる。実際早速事故が起きたからな。気持ちはとてもよくわかる」
「けれど今回、そもそもの原因が自分の官能小説をあの場所に置きっぱなしにしていたことですからね。自業自得ではないですか」
あれってデュランの本だったのか、あと官能小説って言うのか。
皿の上を順に綺麗に片付けながら、シュナの(余計な)知識は充実していく。
「我が息子ながら頭が痛い……別に所持しているのは構いませんけどね。なぜもっと見えない場所に隠しておかないのでしょう?」
「いやシシー、さすがに本命は部屋にあると思うぞ。図書室に移したのはマイブームじゃないけど手放すのは惜しいって奴なのではないかなあ。それに別の本の後ろに隠してあった辺り一応努力は認められるではないか、結局すぐに見つかってるところが笑えるが」
「……それをあたくしやトゥラに聞かせてどうするのです。旦那様は間抜けですか?」
「フフッ……もっと言って」
「トゥラ、ちゃんと食べ切れましたね、よいことです。お代わりはどうしますか? ……大丈夫ですか」
「スルーか。これは今日一日続くパターンだな、知ってる。そんな君が大好きだよシシー」
夫人は眉一つ動かさず、侯爵はへらへら笑っている。
たぶんこれはこれで仲が良いのだろうが、人の世界の結びつきとは不思議なものだとシュナは思うのだった。
さて、それから少し時間が経って念願の図書室である。
今回のシュナは本日のシュナ担当メイドである女性と、護衛の騎士とやらを伴っていた。
昼食を終えたシュナが早速目的地に向かおうとすると、廊下に見慣れぬ――いや何度かすれ違っていたような気がする――浅黒い肌の男が立っていた。
「侯爵閣下よりご命令を受けて参りました。バルド=オグリス=ゲレイドと申します。本日護衛を務めさせていただきますが、特にこちらは気にせず、私のことは影とでも」
シュナの手を取ってそう挨拶した騎士は、今まで彼女が会ってきた騎士よりも幾分か……というか大分寡黙な印象を抱かせた。愛想の微笑みもないし、余計な会話を一切しない。最初の宣言通り、シュナが歩くと影のように付き従う。よく見れば結構整った顔立ちをしているのだが、とっつきにくいことこの上ない。
(デュランやリーデレット様、それにこの前お会いしたクルト様は、わたくしに話しかけたりお互い談話したりでずっと楽しそうだったけど……)
驚いたし、正直若干やりにくさは覚えたが、どちらが正しいというよりはスタンスの違いなのだろう。そんな風にシュナは思い、順応を試みる。
表の図書室は、なるほどシュナが今まで利用していた図書室よりも更に広い。その分人も多くて少々圧倒されそうだ。
メイドが先導して、受付のような場所に連れて行ってくれる。どうやらそこにいる人が司書で、本の管理をしているらしい。本を探す手伝いをしてくれるほか、貸し借りの管理等も行っているそうな。シュナに応じたのは最も年配の男性司書らしく、真っ白な頭に髭、それからしわくちゃの顔に思わずしげしげ魅入ってしまう。
(貸し借りの記録……そうか、そういうものもあるのね。確かに、私的な図書室なら利用する人も限られてくるけれど。ここは色々な人が出入りするものね。誰にいつ何を貸したとか記録をつけておかないと、どの本がここにあるのかわからなくなってしまうのだわ)
感心しているシュナの前で、メイドが希望の本の傾向を述べると、司書は受付から立ち上がり、図書室の中を勝手知ったる顔で進んでいく。
それにしても不思議な空間だ。城内で人が集まっている場所は大概賑やかで活気に溢れているが、この空間だけは静かで、話す時も囁きかけるように、本を嗜む人々の邪魔をしないように配慮している。
いくつか本を渡されて、「どれか気になったものはありますか?」と微笑みかけられたシュナは最初嬉しい顔を、それからすぐに悲しい顔になった。
(どれも面白そうだけど……今探したいのは少し違うの)
困ったような彼女の態度に、何度か棚を往復した司書とメイドだったが、そのうちお互い顔を見合わせて首を傾げた。
「……もしかしてお嬢様、何か特定のお探しの本がおありですか?」
シュナがぱっと顔を輝かせると、意図を確かめられてほっとしたような顔のメイドが老爺に顔を映す。年かさの司書はふうむ、と声を上げた。
「しかし言葉の通じぬ方のお探しの本、ですか。ホホホ、久々に難題が参りましたな。腕が鳴りまするぞ」
それから再び、本棚から本を持ってきて並べてはシュナの指さした本を確認し、それに合わせてまた本を入れ替えては並べ直し……という作業が繰り返された。
分厚い本から薄い本に、挿絵が少ない物から多い物、やがて絵本に、そして絵本の中にようやく見覚えのある物を見つけ、シュナは「これ!」と強く主張した。
「ふむふむ……迷宮冒険譚の一つでしょうか。なるほど、なるほど。では迷宮を題材にした絵本を持って参りましょうか」
感謝の意をいつも通り抱擁で示したシュナは(後ろでそれまで存在を消していた騎士がなんだかわざとらしい咳払いをしたので非常に軽いものにとどまったが)、いそいそと読書スペースに移動する。
ちなみに彼女は自分で本を持っていこうとしたが、横からすっと手が伸びてきたかと思ったら護衛の騎士に取られていた。
こういう時デュランなら「トゥラ、重たいから持ってあげる」とか爽やかな笑みと共にさらりと言うのだろう、なんてなぜかちょっと思ってしまった。
(別に全ての人がへらへらぺらぺらしている必要はないと思うけれど、表情が硬すぎる言葉が少なすぎるというのも、何を考えているのかわからないのが少し困るところね)
なんてちょっと思いつつ、けれどたぶん好意で持ってくれているので、それはありがたくお気持ちをいただいておくことにする。
そういえばシュナが本を読んでいる間、くっついてきているメイドと騎士はどうするつもりなのだろうと思ったら、メイドの方は自分用の本を用意していたが、騎士はどうも特にそういう用意もないらしい。護衛、と言うぐらいなのだから、考えてみれば気を許している間に何か起きれば問題、常に対象について気を配り、集中している必要があるのかもしれない。
(デュランは自分の用事も済ませながらついでにわたくしのことも連れて行ってくれる、という時が多いからあまり気にしていなかったけど……なんだかずっと見られていると思うと緊張するわ。侯爵閣下からご命令を受けたと言うことは、きっとこの方は本来そちらでお勤めをしている。ということは、わたくしのことも侯爵閣下や侯爵夫人に報告する――なんてことも、もしかしてお仕事の中に入っているのかしら)
昨日のように、知らない人からいきなりおかしな絡み方をされるのは困るが、これはこれで息が詰まる。何が一番問題かって、シュナには彼らの誰にも言えない秘密があり、それを探られるのは困る、という部分だ。
(……考えることがたくさん。人って大変)
考え込みすぎると頭痛に発展しそうだったので、ほどほどにして目の前の資料を漁ることにした。
パラパラと絵本をめくっていくと、昨日の夜デュランが読み聞かせをしていたのと同じ内容の文が目にとまる。
じっくり一冊読んでから、次の本を開く。何度か繰り返すと、四冊目ほどにまた痣のある男の記述が出てきた。彼が竜と一緒に迷宮の中を冒険する様子が生き生きと描かれていて、シュナは静かに考え込む。
(全部を鵜呑みにはできないけれど……きっとこれは、お父様のことだ)
記憶にある父の言葉と、絵本の内容を組み合わせる。
王家の血を引いていて、追放された。
迷宮で冒険をした。
そこで迷宮の女神イシュリタス――すなわち彼にとってのシュリであり、シュナの母親と出会い、願い事をした。
彼がなぜ身を隠さなければいけなかったのか。なぜあの時追われていたのか。それはなんとなく、おぼろげながら見えてきたような気がする。けれど――。
絵本をめくるうち、シュナは自分の手が止まっていることに気がつく。
(――あれ。どうして)
指先が震えていることに気がついたのと、視界が滲んだのは同時。
はっと気がついて本をどけ、間一髪紙の上に涙が落ちるのは避けられた。
「――お嬢様、どうされました?」
気がついたメイドが駆け寄ってきてハンカチを差し出す。
護衛の騎士もこちらを見ていた。しかし彼らに何でもないと答えようとするのに、目から気持ちが溢れて止まらない。ハンカチを受け取るとますます悪化した。
あの日、十八歳の誕生日、本来ならここに書かれていたようなことは父からシュナに直接語られるはずだった。彼がどうやって生きてきて、迷宮で何をして、母に何を願い、何を対価に差し出したのか。こんな風に、人の目に怯えながら、人の手に恐縮しながら、嘘か本当か分からない伝承に縋るまでもなく、直接教えてくれたはずだ。
(どうして死んじゃったの?)
それは父自身に対すると共に、あの日彼の命を絶った者達への言葉でもあった。
(痣。呪い。予言。迷宮。至宝。たとえもし……もしもお父様に、追われる理由があったとしても。迷宮で見つけた何かが、外の人にとって何か許せない物だったのだとしても。わたくしのたった一人のお父様だったのよ。なぜあの日、殺されなければならなかったの!)
わかっている。彼女の悲しみに、怒りに応えられる者はいない。
仮にもし実行犯や関係者が生きていたとして、謝罪がほしいわけではない。そんなものには何の意味もない。
ただ、父が恋しかった。今生きている父に会いたかった。なぜなぜ、を何の迷いもなくぶつけられた人。大きな身体で包み込んで、絵本を読み聞かせてくれた人。
――ドレス、よく似合っているよ。お母様にそっくりだ。
目を細めて言っていた。悲しそうに、懐かしそうに、そしてとても嬉しそうに。
約束を果たしてくれるはずだった。誰かがあとほんの少し、彼に優しかったなら、シュナは全てを彼から伝えられたはずだった。
塔の中、シュナはずっと一人だった。けれど迎えて見送る彼も、いつも、いつだって一人だった。いつも寂しそうだと思っていた。シュナの知らない世界をたくさん知っていた。
あの人が今、どうしようもなく恋しくて、恋しくて――。
けれどいない。もうどこにもいない。二度と会えないのだ。わかっていたことのはずなのに、何もわかっていなかった。
泣いている。奈落の底。世界の果て。永遠の淵。調子外れの歌を止めて、女は嘆きを口から零す。共鳴する。想いが、感情が。
――ただ、星空の下で笑っていてほしかった。わたしの夢、わたしの愛する人よ……。
胸の内に芽生えた誰かの気持ちの分まで、シュナの心は溢れ出して止まりそうになかった。
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