姫 艶本をめくる
寝不足よりはよく寝る方がいい。
覚醒したシュナは、自分の記憶力と健康体を少し見直した。
幸運なことにこの日は講習などもなく自由日だ。
迷宮領では暦は七日で一つの区切りを迎え、一週間とカウントする。
最初の五日間が働く日であり平日と呼ばれる。後半の二日が休日。
平日は公的労働を優先させる日、休日は私的趣味や家族・友人との時間を充実させる日、なのだそうな。
シュナのマナー講習も、だからこの周期に合わせ、平日五日間は授業、休日二日間は休みとなる。
基本的に人々は平日と休日のリズムに準じて仕事や生活を行っている。もちろん数字通りに生活できない人、仕事の性質上ずっと毎日労働しなければいけない人もいるわけが、その場合は後でまとめて休日を取ることが推奨されているとか。
デュランは一週間ずっとシュナを(というかトゥラを)構いたがっている感じはあるが、だから平日は彼も自分の仕事優先なのである。
慣れない歩き回る作業に足が痛くなるかと思っていたが、どうやらプルシとやらが肩の治療をしてくれた際、さらりとそちらにも癒やしを施してくれていたらしい。
噂に聞いていた筋肉痛や靴擦れなども特になく、彼女は喜びの声を上げた。
「お嬢様、今日はどう過ごしましょう? お疲れの可能性を考えて予定は何も入れてないのですけれど……」
今日のメイドはコレットではなくもう少し年配の女性だった。
「ええっいいですよそんな別に、あたしお嬢様から一年中離れませんけどぉ!?」
なんて叫んでいたコレットもまた今日は休日らしい。
彼女だって家族があるのだ、確か下に弟妹が大勢いるとかいつか話していたことがあったから、その人達と過ごしているのかもしれない。
父一人しか身寄りのいなかったシュナにとっては眩しいばかりの話だ。
同じ人が担当してくれた方がもちろん落ち着くしありがたいが、これもきっと修行の一つ、訓練のうちと思ってシュナは見慣れぬ女性達の手を受け入れている。
(あんなに厳重な見張りをつけられるのも、きっとわたくしが頼りないせいなのだもの。もっともっと、勉強して、運動して、たくさん食べて……お話は自分からはできないから、人と会って、色んな所に自分の足で行けるにしないと)
と言うわけで、彼女はメイド達に今日の行き先は図書室であると動作で示した。
城に来てから結構時間が経つ、文字を指差すのはアウトでも、例えば絵や地図を示すのはセーフなど、少しずつシュナも周囲の人間も意思疎通の方法を工夫している。
朝食は珍しく一人だった。休日なのに、なにやら皆予定が入ったとかで忙しくしているらしい。
(昨日、わたくしが騒ぎを起こしたから……と言うのは、自意識過剰かしら)
しょんぼりしかけたシュナだが、首を振って気を取り直す。
直接注意されたなら改めれば良いが、邪推して勝手に小さくなるのは、何か違う気がする。
(皆、わたくしよりずっと物知りで、わたくしには思いも寄らないことをたくさん思いつく方々で、大勢の人に頼られているのだもの。わたくしのことで手を煩わせているのだとしたら申し訳ないけれど、それでわたくしが萎縮してもいいことなんてないわ。わたくしは、わたくしのできることを、一つずつ!)
それにしても一人で食卓につくのは随分と寂しい。
塔の中ではこれが当たり前だったはずが、最近はずっと誰かに構われていたからなんだか突然置いていかれたような気分だ。
たくさん食べて身体を作る! と気合いを入れていたはずが、いつも以上に食欲がなくなったようだった。久々に皿の上に食事が残っている光景を見て、ため息を吐く。
(仕方ないわ。それならたくさん頭を使って、お腹を空かせればいいのよ)
動くと決めている時のシュナは前向きだ。ただでさえ普段動きたくても動けない時が長いのだ、せっかく与えられた機会をくよくよ悩んで動けずにいるのはもったいなく感じてしまうのである。
いつも通りの侯爵一家私用図書室を勢いよく開けて、キョロキョロと見回す。
(痣のある王子様のお話……だったかしら。デュランが持っていたのは子ども向けの絵本だったみたい)
最初はずらりと並んだ本に圧倒されるばかりだが、少しずつコツを覚えてきた。
図書室というのは規則性に基づいて本が収納されている。
ジャンルごと、シリーズごと、タイトル順……わかってしまえば、探したい本の傾向からある程度どの棚にありそうだ、という目星をつけることが可能。
暇なときは大体図書室にいるシュナならば、目的の本にたどり着く事など造作もない。
――と、思っていたのだが。
(ぜ、全然見つからない……!)
さすがに楽観視しすぎていたようだ。棚の見込みすらつけられず、シュナは豪華な絨毯の上に座り込んでしょんぼりとうなだれた。
と言うのも、どうも前から薄々感じてはいたが、デュランに最初に連れてこられたこの図書室に置いてある本は、なんというか――読み慣れた人向けで揃えられている感じがあるのだ。
挿絵のある優しい文体の本よりも、小難しい専門書が揃っている感じ、というか。図鑑はあれど、絵本はない。
(侯爵家の個人的な図書室って言っていたものね。子ども向けの本はあまり置いていないみたい)
しかしデュラン本人が昨日絵本を持ち歩いていたし、その前になると――学者先生と呼ばれていただろうか、その人がシュナの絵本を抱えていたことだってあったではないか。
そういえばあの本の行方も知りたいところだ。数時間格闘していてなんとなくわかったのは、この場にシュナが今一番求めている種類の本はなさそう、という事実のみである。
(ちょっと疲れた……もうすぐお昼の時間ね。また午後に作戦を練るとして、少し息抜きしてもいいかしら)
さすがにこの楽園の中、探してばかりで何も読めないというのも悲しい。いつもの図鑑や辞書、侯爵夫人手配の授業でもらったような教科書の類に目を通すのもいいが、どうせなんだからまた違う雰囲気の書でリフレッシュしたい気分もある。
疲れて下に向けていた目がふと見覚えのある背表紙にたどり着いた。
シュナが今、いくつかの本を出し入れしていた際に、奥側にしまい込まれていた背表紙が見えるようになったらしい。
華やかな装丁が目を引くそれをよいしょっと取り出したところで思い出した。
最初に図書室にやってきて、真っ先に手を伸ばしたらデュランに止められてしまった本だ。
表紙には綺麗な男女の絵が描かれていて、何かの物語の本だと思う。
(君にはまだ早い、とか言っていた気がするけれど……こんなに綺麗だし、他の本に比べてキラキラしているのに、中身は難しいのかしら)
首を傾げながら何ページが読んでみる。
……普通に読める。話し言葉は容易に聞き取れるが、読み文字にはちょっと苦戦するシュナにも特に苦なく内容が頭に入ってくる。
物語で、会話が多目だからだろうか。
(この先に何かある……とか……?)
パラパラとめくったシュナは感嘆の声を漏らした。
華やかな様子が描かれた挿絵があったからだ。
恐らく貴族のパーティーのシーンを描いていて、ピックアップされている男女は表紙と同じ顔立ちをしている。
たぶんこの人達が主役なのだろう。
(高貴なお姫様と、騎士様のお話みたいだけど……?)
美麗な絵にうきうきしながら数ページめくるとまた挿絵に当たった。
しかし今度は笑顔が固まり、シュナは眉をひそめた。
(あら……? これ、下着に見えるけれど……)
その前の絵はきらきら輝いていたのに今度は一転してぐっと背景が暗い。
たぶんどこかの部屋で、ベッドの上で寄り添った姫と騎士は……気のせいでなければ下着姿に見える。
おかしいな、と思ってちらっと文を追いかけてみると……フォローどころかさらに脱いでいる。
(どういう状況なの……?)
脱ぐのはアウト、脱がせるのもアウト。
と言った父も、記憶の中では母を脱がせていたような。
物語の男女はお互いの身体に触れながら次々と服を剥ぎ取っていく。
未知との遭遇に首を捻りつつ再びシュナがページをめくった時、彼女を呼ぶ声が耳に入った。
「お嬢様。昼食のお時間です、よ……」
にこやかに入ってきたメイドが、シュナがめくっている本を見た瞬間硬直する。
顔を上げていたシュナは首を傾げ、手元に目を戻した。
しかし本の内容をきちんと認識することはできなかった。
何か肌色の物が見えた瞬間、シュパンッ! と勢いよく音を立てて本がメイドに閉じられたからである。
「お嬢様? あの、そういう本に、ご興味を持たれるのは? 仕方ないというか、ええ。ある意味健全ではあると思いますけども? でも、やっぱり物事には順番という物がございましてね? いきなりこれから手を出すのは、まだ早いと思うんです。もうちょっとこう、健全な少女向け小説で慣らしてから、大人の世界に――」
……コレットならいつものことだが、このメイドはもう少し年がいっていることもあって物静かにニコニコしているタイプだった。
それがものすごく焦って早口に言い募っているのを見ると、やっぱり自分は何かこう、見てはいけない物を見たんだな、ということは理解できる。デュランといい彼女といい、一体何にそんなに動揺しているのかは謎だが。
(……というかたぶん、裸よね。お父様の仰っていた通り、裸がいけないのだと思うわ。でもそれならデュランは、わたくしの前で軽率に脱いだことももっと恥じ入るべきだと思うの。そもそもどうして、裸っていけないのかしら? 恥ずかしいし、見たくもない見せたくもないとは思うけど、言ってしまえば別にただ恥ずかしいだけよね? そういえばお父様、ものすごく親密な人ならいいかもとかも言っていたような……どうして? なぜ? そうでない人と何が違うの?)
新たな疑問で首を傾げていたシュナだが、やはり何もしないより失敗しても行動するべきなのである。何か察したらしいメイドが、
「この図書室の蔵書はお嬢様の好みとは少し違いますものね。もっと広い皆様がいる方に参りましょう。あちらなら司書さんもいらっしゃいますし、もっとライトな恋愛小説が置いてありますから」
……と言うわけで。
奇しくも彼女は、表の図書室への訪問権を手に入れることになったのであった。
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