地上/王城 予感
百年前、女神イシュリタスは帝都滅亡の折、地上侵略のために大きな穴を開いた。
穴は地上のあらゆる生命を飲み込み、代わりに魔物を吐き出し続けた。
なぜ人が滅び果てたはずの場所の状況がある程度わかるのかと言えば、これは元々帝都の縁を巡回するように生活していた、流浪の民ミガ族の記録による。
崩壊を始めた直後から、帝都は外界から遮断された。
不可視の壁が、空も海も大地も全て、帝都を中心に球状に広がり、包み込んだのである。
それが他の場所への被害拡大を防いだが、代わりに内側に閉じ込められた人間達に大いなる絶望を与えた。
ミガ族はちょうどその境界にあたる場所に当時位置しており、内部に取り込まれた者と外部に残された者で、なんとか連絡を取り合おうと試みたらしい。
壁越しに、かろうじて会話は可能だった。だが物が受け渡せず、武器も食料も差し入れてやれない。
危険は承知だが、その場にいても状況は変わらない。
勇敢なミガ族の戦士達は、帝都の中心部に向かった。
だが、結局食料も水も手に入れられなかった。
空気も大地も水も汚染され、動く屍が街を徘徊し、時折竜がやってきては頭上から全てを浄化する光を放ち、変わり果てた骸共に終焉の安息をもたらしていく……。
戻ってきた者はそのようなことを語った。
帰還するごとに数は減っていき、三日目の晩にはとうとう誰も帰ってこなかった。
それから明けて四日目未明――夜明けと共に、真昼のような明るい陽が帝都上空に広がり、ふつりとかき消えた。侵入を拒んでいた球状の壁と共に。
同族の姿を今か今かと待ち焦がれていたミガ族達はすぐに偵察の鳥を放したが、かつての栄光の地は不毛の毒沼と化しており、直接の探索すら厳しいことを悟った。
だが幸いなことに、日を経るごとに汚染は弱まっていくようだった。
一月ほど経って、これならば様子も見に行ける――とちょうど腰を上げた彼らの前に、赤毛の男が現れた。
目立つ髪色の割にどうにも顔の印象が薄く、明らかに身の丈以上のピッカピカな鎧に居心地悪そうに着られている。その割に一癖も二癖もある――というか、各地から追い出されてきたような連中ばかりをここまで率いてきた男は、ミガ族から一通り話を聞くと、一瞬怯んだように黙った。
若造が怖じ気づいたのか、と内心揶揄しかけた流浪の民の前で、彼は頭を掻いたかと思えば盛大にため息と、なんとも危機感に欠ける言葉を吐き出した。
――いやあ。そりゃあ、なんとも面倒くさそうだ。
いささかのんびりしすぎてはいるが、まるで絶望とはかけ離れた――むしろ気のせいでなければ、結構わくわくしていそうな声で。
「いやあ、めんどくさいことになりそうなんだよなあ……」
そして約百年後、同じ赤毛、同じく薄い顔の印象を特徴とする男が頭を掻きながらぼやいた。
途端に周囲の人間から視線が飛んできて、迷宮領領主はうひー、と気の抜けた悲鳴を漏らす。
「閣下……」
「あーはいはいわかってます、そういうこと言うなってね! 今の所順調なんだから変な伏線を入れるなってね! わかってますよぉ!」
護衛の騎士もメイドも、ダナンがバタバタと手を動かすとおのおのため息を吐き出した。
全員とは言い切れないが、少なくとも主要な迷宮領の住人達は、既に避難を完了させていた。
大体北側から東側にかけての人間達は王城で受け持ち、南側から西側にかけての人間達は王国貴族の屋敷が担当しているらしい。
迷宮領北東に存在する城は、元々このような有事、砦として使用するために設計されてもいる。原理の方はわからないが、地下のような場所に見た目以上の広大な空間が用意され、一般市民はそこに移動していた。
戦いに心得のある者や騎士達は、所定の配置についている。
ちなみに王国側では、逗留している貴族達の館と、やはり同じように特殊な空間を用意し、そこに人々を押し込めているらしい。
これはさっさと王城を飛び出していった領主夫人シシリアが、夫からもぎ取っていった紋章を鍵にしている、仮想城下施設と同じような旧文明の遺産を利用しているようだった。
「ご先祖様々。でもできれば一生使いたくなかったなー、なーんて……」
「お館様」
「ヒョウッ!?」
ぐでーんと執務机に伸びようとしたところ、結構近く、しかも背後の方から呼びかけられて領主は飛び上がる。振り返れば鱗をつやつやと輝かせた亜人のイェルゼがそっと控えていた。
この堅物は元冒険者から城勤めという珍しい経歴の持ち主で、少し前に起こした不祥事で謹慎処分中のはずであった。ところが緊急事態の知らせが鳴り響くと、当たり前の顔をして領主の近くにはせ参じていた。
護衛の騎士達に睨み付けられれば、「部屋に戻った方が良いでしょうか。平時に戻ってから追加の謹慎を頂こうかと考えましたが、非常時においてもあれは有効なものでしょうか」とあくまで淡々と言う。
この男は生真面目なのだが、どうにも口数が少なく、また一度こうと決めたら動かない頑固者のきらいがある。実際、「なんであんなことしたの」と領主がいくら問いただしても、預かりの少女に酒を飲ませる計画をした犯人の名は、とうとう最後まで口を割らなかった。
さてそんな彼は元々人間関係に長けているとは言いづらい。本人はいつでも静かに落ち着いているが、特にこの非常時、相手の神経を逆なでさせることもあろう。他の所に派遣する任務を授けようものなら、いかにもいざこざの元になりそうな気配を感知した侯爵は、「いいから座って……いや座るのは儂だ、お前はいつも通り騎士やってなさい」と命じ、今に至る。
そしてこの男、他のどの護衛騎士にも増して気配を殺すのが得意なのだった。動悸と共に領主はそのことを思い出し、噛みしめる。
「おっ……驚かさないでよね、マルちゃん!」
「は、善処します。またその呼び名はおやめくださいと、再三申し上げておりますが」
「知らんわ。ただでさえ酷使しがちな儂の心臓に悪いことするような奴はマルちゃんで構わんわマルちゃんめが」
「お館様の健康具合と図太さは城勤め一同保証いたします、ご案じ召されますな」
「そんなこと言う君も結構図太いですよ、マルちゃん?」
メイドなど下働き連中は「あーはいはいまた始まった」とやりとりを聞き流す姿勢に入っているが、騎士達は亜人に向かって目を細めている。
「一体何をお気になされているのですか。奥方様ですか」
ところが空気を読んでいるのかいないのか……たぶん全く読んでいない男がド直球な質問を投げかけると、結構突っ立っている連中も気になっていた事ではあったのか、途端に目をそらして咳払いを始めた。口笛を吹き始めた者すらいる。
領主はじとっと流し目を送ってから、ため息を吐き出す。
「いやね……もちろんシシィの方がどうなってるかは、そりゃ心配ですよ? お城に妻がいないと本当にやる気出ないなーとは、思ってますよ?」
「出してください。なくても絞り出してください。雑巾の要領で」
「やる気ってそういうものだったっけ?」
「大丈夫です、ご領主様は普段からやる気あまりないです、平常通りです」
「そっかー、そうだよねー」
「あまりおふざけが過ぎると、後で奥様に報告しますからね」
「やめて! シシィがいないからちょーっと緊張感なくなってるのは事実だけど、それを本人に言うと『あら旦那様、では普段からあたくしがいない状態を慣らして参りましょうね』とか言って最悪寝室が別になりかねない、本当にやめてよぉ、儂ずっとシシィと一緒に寝たいのぉ!」
「だったら真面目に仕事しろこの駄目領主!」
「そうだそうだっ!」
「やってるもーん! さっきから異常なしの報告の確認続けてるもーん!」
「もーんじゃないです!」
うっかり本音トークをしたら、それまで背景だった人間達が一斉に囀り出した。壁に耳あり障子に目ありとはよく言ったものだが、間髪入れずに口出ししてくるのはちょっと想定外である。あと騎士連中、大体が真面目な仕事人間ですという顔をしているのに、口を開くとどいつもこいつも好き勝手言ってくるじゃないか。
こいつらめ……と思っている領主だが、拳を振り上げていた護衛騎士がゆるゆる頭を振ってから目を合わせてくる。
「……それで。おっしゃる通りではありませんか。魔物の出現前に市民の避難は概ね完了しており、北西、中央市街地、南東に出現したそれぞれの穴には各員配置済み。既に迎撃成功の連絡すら徐々に届いています。迷宮の入り口が出現した場所は、建物の倒壊等が見られるようですが、今の所は人的被害なし。備えが報われ、異常はありません。それの何が不満なのです?」
じっと自分に向けられた部屋中の視線を見つめ返してから、領主はひときわ重たいため息を吐き出し、両手を組んだ。
「――そうさな。聞いていたのより軽すぎる。そして我々がすっかり安堵しきった頃に、寝首を掻きに来られたら嫌だなあ……。儂が嫌がらせをしようと思ったら、その程度の手間はかけるからの」
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