恋乙女 手帳を貰う

 最大の課題をなんとかこなしたシュナは、再び人間としての時間に忙殺されていた。


 ある程度身の安全が確保されてくると、抱えている都合上どうしても考えることを避けられない「今度はいつ迷宮に戻ろう」という悩みの方はあっさり解決した。


 というのもひとしきりのお話を済ませた侯爵閣下が、


「ところで儂の懐から取り出したりますは……じゃじゃーん! トゥラちゃんパーフェクト予定表なのだー!」


 なんてもったいぶりながら、掌サイズの小さな本のような物を持ち出してきたのだ。


「いつの間にそんなものを!? しかもなんてセンスのないネーミングなんだ……!」


 と驚いたり呻いたりしている息子を無視し、ファフニルカ家の父はそそそっと娘に歩み寄って手に持たせる。


「トゥラちゃんは、手帳は知っているかの? うんうん、知っているならよかった。これはね、まあ……その。手帳みたいなものだ。本来の形から、色々改造してはいるがのう」


(知っているわ! お父様も持っていらしたもの。小さな日記帳みたいなものでしょう? すぐ取り出せる所にしまっておいて、いろいろなことを書き留めておくものだったはず……)


 シュナは目を輝かせ、いそいそと手の中の物をひっくり返したりなぞってみたりページをめくったりと興味深く観察する。


 受け取った小本は、どうやらカバーで覆われているらしい。素材は何だろう。木ではないし、布ともまた違う気がする。革だろうか? 柄は花模様でかわいらしいが、丈夫そうだ。


 記憶にあった父の物より大分ページの枚数が少ないらしく、まためくったページには何かが既に書き込まれていた。


(……暦?)


 じっとのぞき込んだ彼女が、見たことのあるデザインだと首を傾げていると、今度は侯爵夫人が近づいてきて雑に夫を追い払い、細く長い指でページを指し示す。


「講義にもあったはず、暦の読み方はもうわかっていますね。今日がここ。赤丸で囲まれている日は、あなたにしかできない大事なことがあるので、こちらにいてほしい、という意味です」


 夫人の指を追ってシュナはさっと目を滑らせる。最初の赤い丸は……大体一週間後、だろうか?


「青い丸が囲まれている日は、城にいることを推奨する日です。赤丸の日に比べて重要度は落ちますが、できればやはりこちらにいてほしい。何も印がない日は、いなくても大丈夫」


 すっとシシリアの目が手帳から顔に移ってきたので、シュナは思わず反射的にピンと背を伸ばし、緊張が勢い余ってつま先立ちになる。


「デュラン曰く。あなたは迷宮からやってきた人間で、定期的に戻る必要があるそう、ですね。この先もあちらに行く予定がある、とか――やはりそれで間違いないのですね、デュラン」


 確かにトゥラはシュナの知り合いで定期的に会いに行っているようだ、と言うところまで理解を進めていた彼なら、そんな風に考えるかもしれない。しかし夫人の口からすらすら述べられると、ちょっとした衝撃である。


(いつの間に話していたの!?)


 夫人が会話の矛先を向けるのと同時、シュナもまたぱっとデュランの方に顔を向ければ、父親と何やら小突き合って囁き交わしていた彼はすぐに気がついて咳払いした。


「――ああ、えー、うん。はい。そうです、この先も迷宮に戻る予定があるけど、都度ちゃんと帰ってくる……あれ? それでいいんだよね、トゥラ?」


(……間違ってはいないと思うけれど)


 なんとなーく、責めるような目でデュランを見つめてしまうことがやめられない。彼も彼で、ぽかんとするでもなくきょとんとするでもなく、気まずそうに目をそらしたからたぶんシュナのこのモヤモヤした気持ちは充分感じ取っているのだろう。


 まあシュナが彼らを見ていない時間なんていくらでもあるし、家族なのだ、それは当然話もする。


 けれどトゥラのことについて、思っていた以上にこの家族の間では結構な議論がなされているのではないかということに思い至り、シュナはそれをどう解釈すればいいのか混乱する。心穏やかではいられない。


(というより、守るよ、と言っておいて……いえ、きっとこの方達に相談するのは、正しいのでしょうけれど! でもなんだかわたくしの知らない間に、わたくしの知らない内緒話をたくさんするのは……ちょっと、ずるいのではないかしら!)


 そこまで思ってから、ふと自分だって竜達とデュランのいないところでデュランについて話しているし、何なら竜達のデュラン評だって聞いていたことがあると思い出した。


 しかしやはりどこか釈然としない。自分が一体何をそんなに気にしているのかもわからなくなってきた。


 というかちょっと困ったようにしているデュランの顔を見ていたら、なんだか怒るのが馬鹿らしくなってきたのだ。


(おかしなわたくし……変ね、なんだか気分の移り変わりが激しいわ。すぐむっとしたり、でも次の瞬間にはなくなっていたり……)


「――トゥラ。そう言ったわけで、この予定で進めていくつもりですが。何か今の時点で不都合などはありますか」


 シシリアの声でようやく我に返ったシュナは飛び上がり――そして明らかに聞いていなかった反応をしてしまったことにさっと顔色をなくしたが、侯爵夫人は怒るでもなくもう一度同じ事を繰り返し話してくれる。


 今度こそ神妙に聞き入りながら、シュナは彼らの気遣いと工夫に驚嘆した。


 確かにこうしてあらかじめあちらの都合がわかっているのなら、迷宮に戻った後も、次の予定に向けて滞在時間を調整できる。と、思う。


 エゼレクスはあからさまに迷宮を出て行くことを渋っていたが、何日までに絶対に戻ってこいなんてことは言われなかったはずだ。


 一度目は家出同然だったから阿鼻叫喚だったが、二度目の外出について、竜達のシュナを送り出す態度は「家恋しくなったら帰っておいで」といった雰囲気が強かったように思える。


(でも今度は、エゼレクスにもその辺りのことを確認しておいた方がいいわ。この手帳、迷宮には持って行けないのかしら……)


 カバーには人のシュナ(つまりはトゥラ)の手首に引っかかる程度の小さな輪っかがついている。


 人の時の持ち歩きにも便利だし、竜の時も上手にこの部分を咥えればなんとかならないか。


(でも、欲を掻かずにトゥラの寝室に置いていくべき……でも、持って行かないとあちらで予定が確認できないもの。ああだけど、竜の身体だと小さすぎるわ……)


 せっかくもらったのだから、と考え込んでいるシュナから少し離れた所では、ふう、と一息吐いた夫人に夫と息子が近づいてきた。双方、互いに対するどつき合いに飽きたのだろう。


「そりゃ、元々ある程度俺の考察も話してたけどさ……準備よすぎない? どうしたの、あれ」

「元々は講義の予定確認と、ついでに本が好きだからちょっとしたサプライズプレゼントということで用意していた物だが……よかったの、気に入ってくれたようで」

「ええ。上手に使ってくれるといいのですけれど」


 夫妻は素直に喜んでいるが、一人息子の方は、(前に髪飾りをあげたときより食いつきよくないか……?)とやや複雑な胸中である。


 うーんうーん、と声なきうなり声が聞こえてきそうな少女を見守りながら、侯爵夫妻は話を続けている。


「まあ元々儚いから人前に滅多に出られない希少種美少女って設定になってるし、実際美少女だし、ここだけの本音、あの赤丸のついた王国の予定の所、全部蹴ってもいいんじゃないかなと」

「一応言っておきますが、それで最も苦労するのは旦那様でございますからね」

「そうだぞ。あとついでに俺にも来るからマジでやめて。主にサフィーリアに美辞麗句で当てこすられる」

「ふっふっふ。儂の特技、聞いているようで聞き流しているようで実はちゃんと聞いていないこともない会話スキルの出番だな」


 妻と息子は冷たい目をしたが、現当主の交渉能力自体に否やは唱えなかった。


 ニコニコ笑顔でゆるふわ下手に出ながら会話の主導権を握り続けるのがダナンの話し方だ。むしろこの特技があったからシシリアが結婚に応じた説まである。


「適材適所ではありますか……言葉が話せなければ、何かあった時言い負かすこともできませんし。懸念要素には限りありませんね」

「うん、あの、真面目な話ね。シシーはなんとかなるって言うけど、儂割と真剣にやりたくないんだよね、舞踏会……一応参加者絞ったけど、まあ最悪一曲踊って適当に引っ込むしかないよね。足が痛いとかなんとか。そうね、靴もね。本当に痛くなっちゃう可能性高いしね。間に合わせないとね……」


 トゥラのいかにも長時間立っていたら痛みを訴えそうな小さな足を見て、目頭の辺りを押さえつつ愁いに満ちた声を上げる。


 そんな父親に、けろりと息子が言った。


「大丈夫だよ、俺がずっと側を離れないから」


 しかしデュランの予想に反して、両親の反応は渋かった。


 いつもこういう場面なら「まあそうね、うちの息子ならそつなくやるから大丈夫ですよね知ってる」という顔になるのに……渋いというか、呆れられている気がするというか。


「母さんや。これも懸念要素の一つと愚息がご理解なされるのは、いつになると思われます? まあ喜ばしいには喜ばしいのだろうが。ほんっと長かったよね、童貞卒業はあっさりこなしたくせに、いつまで経っても甲斐性が芽生えなくて。そんなところで儂との親子関係を示さなくてもいいと、父は夜ごと涙に枕を濡らし……」

「――てはいないでしょう、詐称行為はおやめなさいまし。旦那様、あたくし、このことについてはもう何も言わないと決めましたの。結局は本人の自覚が出てこなければどうにもなりませんから」

「そうは言ってもシシーさん。……これだよ? これ」


 親指で示され顎をしゃくられたデュランは、「ん? 何?」と首を傾げている。おかしな寝癖でもついているのかと頭を探ったが、そうでもなさそうだ。

 シシリアがぱっと扇子を開き、目を伏せた。慣れている者なら知っている。ため息を隠す仕草だ。


「ではたとえば、あたくしか旦那様が指摘したとして。素直に認めて丸く収まるとでもお思い?」

「逆ギレする未来しか見えないよね。ちがいますー、そんな不純な動機じゃありませんー、騎士道精神ですー……ハア。男なんてどうせ皆煩悩の塊のくせに取り繕いやがって」

「もう少し好意的に解釈なさいませ。推測ですが……初めてのことですから、案外わからないのでは」

「そんな遅咲きの思春期みたいなこと言われても、パパちょっとどういう顔すればいいのか……しかも自分のパターンが全く参考にならないから本当どうすればいいのか……」

「……あのさ。二人とも、さっきから一体何の話を?」

「お前、後で覚えてなさいよね! そんな澄ましたハンサムスマイルしていられるも今のうちだけなんだからね! バカ!」

「だから何の話なんだ!?」


 なぜいつの間にか自分が責められる流れになっているのか。

 全く心当たりがなく混乱している領主子息は、助けを求めるかのように居候の娘に目を向けたが……残念だが未だに手帳をのぞき込んで真剣な目をしている。あまりこちらに構っている余裕はなさそうである。


 なんとなくしょんぼりしているが、彼女が視線に気がついてふと顔を上げるとぱっと笑顔になる。


 そんな未来のファフニルカ侯爵を見た現侯爵夫妻は、二人とも重たい頭を押さえて小さく唸っていた。



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