恋乙女 舞踏会に挑む 前編

 それを見た瞬間、ほぼ反射的にシュナはくるりと踵を返し、逃げの姿勢になった。


 が、この一週間猛特訓してきたと言え、基本的にさほど運動事に長けていると言えない彼女が取り押さえられるのは早かった。


 そもそも屋内だ、逃げられる所なんてほぼない。


(はーなーしーてー!)

「観念なさいませお嬢様! というか試着してたときは大人しかったのに!?」

「半ば魂飛んでたもの、きっとこれが初めてまともに認識した瞬間なのよ。おかわいい。間違えた。おかわいそうに。おっと失敬、よだれを拭いて参りますわね」

「ご安心ください! テーマは王道清楚エロかわモテオーラでございます!」


 コレットを筆頭とするメイド達がかしましく言ったが、ぐっと握られた握りこぶしに娘は思わず白目を剥いている。


 おうど……なんだろう耳が拒絶反応を示したのかいまいち全容が聞き取れなかったが、少なくとも安息とは程遠い響きだったことだけは容易に理解できた。


(ねえ、わたくしはこれから舞踏会に行くのよね? 踊りに行くのよね? 侯爵様と踊るだけでいいって言っていたじゃない、違うの!?)


 鬼気迫る周囲の様子にただならぬ物を感じ、今更ながらささやかな抵抗を試みるシュナだったが、


「化粧が崩れる、泣かない!」


 と途中で経過を見つつ監督にも来た侯爵夫人に一喝されると泣き言が全部引っ込んだ。


 ……そう、嘆くのはやめたが、代わりにも色々言うべきことがあるではないか。


(だってどうしてよりにもよって――これ、覚えているわ、前にデュランに肌が多く見えるからダメって言ったドレス――はうっ!?)


 考えている途中で奇声さながら息を呑んだのは、ギュッとコルセットを引き絞られたせいだ。


「腰の細さを強調するのも大事ですが! それよりもっと切実な事情でして! ここを絞らないと! ポロリの危険性が増しますので! いやん! お覚悟を!」


 力を入れられた拍子に思わずよろめき、ちょうどその先にあった寝台の柱につかまった。そしてすぐ、そこにすがりつくことになった。


 さながら気分は嵐の甲板で吹き荒れる風の中必死に飛ばされるまいとしている船員、といったところだろうか。


 コレットの鼻息が荒いのがまずもって怖い。そしてそれを周囲が止めないという事実が、ひしひし後からじんわり怖い。


(第一、そもそもはだける危険性を考慮しなければいけないデザインに問題があるのでは――!)


 と内心全力で主張していても、胸元のカットがキュートポイント(……だそうだ)のドレスが交換されるわけではなく。


 気が遠くなってきたところでようやく締め付け具合が落ち着いたかと思えば、そこからさらに取り囲まれ手を取られ髪をいじられドレスに針を入れられ……。


「よーし、できたっ!」

「完璧です!」

「お似合いです!」


 わあっと一斉に歓声を上げたメイド達、そして監督係はとても満足そうだから、きっと出来はいいのだろう。


 しかし肝心の当人と言えば、せっかく引っ込んだ涙がまた出てきそうな心持ちである。


 呼吸が苦しいと言うより、何かこう心が叫びたがっている。


(喋らせて! わたくしに、今! 喋らせて!!)


 これほど痛烈に言語の重要性を感じた瞬間があっただろうか。

 そして言葉がない人間の不利を知った時があっただろうか。


 初めての舞踏会、というロマンあふれるイベントの準備段階、まさに乙女が心ときめかせる瞬間のはずなのに、なぜか既に気持ちが手負いの獣だ。


 ここから更に本番があるとか信じたくない。今ちょうど軽度の呼吸困難だからふっとそのまま気を遠くしたい。


「ほらっ、見てください。どこに出しても恥ずかしくないお姫様ですよ!」


 せっかくできあがったのだから、なんてきゃいきゃいと顔をつきあわせていたメイド達が今度は何をするのかと思ったら、ずるずる大きな鏡を引きずって、シュナの前に持ってきた。


 気力がごっそり削られているシュナは大人しく促されるまま自分の姿をのぞき込んだが、はっと目を丸くした。


 背中に流れる部分を残しつつも編み込みとティアラがあしらわれた髪に、痣の痕跡をほとんど隠しきった化粧、首に何気なく収まっている豪奢なネックレス――それらだけでも充分に心引かれる物があるが、やはりこの場の主役は服だ。


 レースの刺繍や、おそらく宝石だろう、きらきら輝く石で彩られたドレスは、淡い銀色の光を放つ。


 その色合いが、かつての記憶を呼び起こさせた。


 忘れもしない十七歳の誕生日の贈り物。

 今着ているドレスに比べれば、質は落ちるのかもしれない。こんなに細かい模様も、たくさんの飾りもアクセサリも、何一つなかった。

 けれどあの時のシュナにとっては一番の贅沢品だったし、何よりの宝物だった。


 もう立派なレディーだ、と目を細めた父が見繕ってくれたのも……そう、思い出した。


 銀色。

 闇の中に仄かに灯る、冷たくも優しさを孕む双眼。

 シュナにそっくりな姿をしている竜が、ただ一点のみ、娘と異なっている所。


(銀は……お母様の色、だったのね。だから……)


 ではきっと、あれは彼にとっても特別な意味を持つ服、だったのではないか。

 逃亡中、どんなにか苦労して見つけてきたのか。

 お母様にそっくりだ、と微笑んだ彼の言葉の意味を今更に推し量ると、張り裂けそうな程胸が痛む。



 幸と言うべきか不幸と言うべきか、思い出に浸っていられた時間はそう長くなかった。


 周囲は大人しくなってぼーっと考え込んでいる娘が、それほど仕上がりを気に入ったのだろうと解釈したようだ。


 さあ魅入っていないで、と背中を押され、シュナは慌てて足を踏み出す。


 泣かない、と再度言われ、鼻をすすってぐっと気持ちを全て飲み込んだ。


 足にはもう、迷いがなかった。




 ――と、せっかく気合いを入れていざ! 後はもうできることをするだけ! と気合い充分に出陣しようとした娘だったのだが、落ちというかケチというか、間にもう一つ、事件が差し挟まれた。


「女性らしさを強調しつつ、愛らしさも忘れず、華やかでありながらクラシック。……ま、たまにはこういう正統派に強欲なのも一興でしょう。申し分ありませんよ、トゥラ。後は楽しみなさい」


「お、トゥラちゃん! うんうん、やっぱり似合ってるねー可愛いねー。本当におじさんが相手でいいのかなー、ふふふ、これぞ役得って奴なのかなー、むふふ、ハア、このまま幸せな気分で今日終われないかなー……」


 後援者兼講師兼保護者であるファフニルカ侯爵一家の夫妻は、ドレスアップの仕上がりを見て好意的な感想を口々に述べた。


 ここまでは順調だった。


 だから問題となったのは息子である。


 夫人はトゥラに寄せたのか寒色で薄い色合いのドレスに身を包み、伯爵もほぼ同色で上下をそろえている。


 ではデュランはどうするのかと思ったら、彼だけ黒の衣装でぴっちりと固めていた。刺繍は銀色だから、全体的になんだかピリッと閉まった印象だ。


 赤い髪に金色の目、二つの鮮やかな色合いが際立つ。見慣れた鎧も黒色だし、やっぱりよく似合っているな、かっこいいな、なんて髪型もいつもと違う彼にドキドキ胸を高鳴らせていたシュナは、自分が観察に忙しかったので相手の異変に気がつくのにやや遅れた。


 いつもはもう少し崩した印象の強い彼がこうもきっちり決めていると、似合っていることに感心するのと同時に、なんだかおかしさもこみ上げてきて、思わずちょっと笑いを零しかけ、慌ててごまかそうと咳払いする。


 その辺でようやくおや、と首を捻った。


 静かだ。静かすぎる。


 不審に思ってもう一度デュランの顔に視線を戻すと、まさかの真顔だった。いつもどこかしら笑みを浮かべているから逆に珍しい。


(……そういえば、前にダメだって言っていたドレスだものね。気に入らなかったのかしら……)


 怒られるかな、と不安に感じつつちょっと覚悟もした彼女だったが、ふっと視線をそらした彼は父――を通り過ぎて母にじっと視線を注ぐ。


「詰めが甘い。こざかしくもさらりと紛れ込ませたつもりだったのかもしれませんが、あたくしが最終チェックをしないわけがないでしょう。もちろん、ストッキングの方だって知っていますよ」


 シシリアはきっと息子が何を言いたいか察したのだろう、簡潔にそう答えた。


 シュナには何の暗号かさっぱりだったが、デュランにはそれで通じたらしい。両手で顔を覆い、何かうめき声を上げている。


「お前、案外かなり注文多い男よな。いや案外でもないのか。誰とも長続きせんのはそういうせいだったのかなって、ちょっとパパ理解できたよ」


 いつもならさっさと応じる父の言葉も、どうやら今弱っている時にはトドメになったらしい。


「あの……ちょっと落ち着いてきますので、戻ってくるまで放っておいてください……」


 聞いたこともないほど低い声を上げた男は、どんより重たい空気を背負い、恐ろしい顔のまま大股で消えてしまった。


 あっけにとられた後オロオロしたシュナだが、なぜか周囲に流れているのは緊張ではなく生暖かい空気なのである。


「ちと遊びすぎたかの。グレたらどうする?」

「本番までには調整してきますよ。プロですから」

「プロ……うんまあ我々、ある意味プロには違いないのかな……? うん……」


 キョロキョロしている娘と目が合った侯爵は、ウィンクしてから肩をすくめた。


「気にせんでええ、トゥラちゃん。……今はまだ、のう」


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