恋乙女 ドレスに戦慄する
誰にとっても平等な物がある。時間だ。
生きている以上、何をしていようがどうなろうが時は流れる。
予定があれば、いつかはその日が訪れる。
締め切りがあれば、確実に納期はやってくる。
当人の体感として、ダンスのお手前の程は確かに上達したと言える。
ダンスする相手の足を踏む回数は劇的に減ったし、しゃんと姿勢を伸ばして立ち続けることに以前ほど辛さを感じなくなった。
ただし踏む回数がゼロになりましたとまでは行かなかったし、やはり立ち続けているだけでもだんだんプルプル膝が笑ってくることは確かなのである。
最終的な出来具合は、シュナの自己評価では、せいぜい頑張れば一応見られる程度にはなっていると思います、というレベルだ。
そしてその体感は周囲の評価ともさほどずれていなかったらしい。
前日、関係者各位がずらりと揃った中での最終チェックという過酷な試練をなんとか乗りこなしてみせたトゥラに、
「ま、及第点には達したでしょう。後は何が起きても、『皆様どうかなさって? わたくし、何も悪いことなんてしておりませんけれど』という顔をしていればあちらからすごすご引いていくことでしょう」
と侯爵夫人はどことなく達成感が浮かんでいるような気がするすまし顔で言い、
「そんなに真剣に悩まんでも大丈夫じゃよ。最悪人目が集まってる所で転んだところで、人間死にゃせん。出ました! 顔見せました! って所が重要であって、他はできれば良いぐらいなのだからの。シシーの圧に耐えられたのなら行ける行ける、その他の小娘なんぞ全然怖くないから」
と侯爵はからから笑って手を振り、
「大丈夫? お腹痛い? 頭痛がする? 吐き気? なるほど、全部だね。大変だ! これは仕方ないよ、トゥラ体調不良なんだから部屋に籠もっているしか――」
と積極的に逃げの手を講じようとした侯爵子息は、夫妻に順にひっぱたかれて途中で黙り込んだ。
無言で頭をさすっているデュランに、シュナの後ろからそそそっとメイドのコレットが歩み寄っていったかと思うと、
「そういうことするからお触り禁止になるんですよ」
なんて耳打ちして戻ってきた。
いや、口元に手を当てて顔を寄せる仕草ではあったのだが、その場の全員が聞き取れるほどの声量は果たして耳打ちと言えるのだろうか。
言われた方は頭に置いていた片手を両手に増やし、がっくり膝を突いていた。
(わたくしではなくてデュランが体調不良なのでは……?)
「さ、晩飯にしよう!」
「ええ、そうですね。腹が減っては戦はできませんから」
熱でもあるのかな、と心配そうな目を向けたのはトゥラ一人だけだった。
夫妻は息子に特に手を差し伸べるでもなく、くるりと背を向けると、娘をグイグイ引っ張っていく。
その後夕食の席には、きちんと立ち直ったらしい侯爵子息の顔も見られたが、もぐもぐと肉を咀嚼しながらシュナは釈然としない思いを抱えていた。
(気のせいではないと思うの……デュラン、わたくしの舞踏会デビューに誰よりも後ろ向きだわ)
特訓に身が入った理由は、危機感のみではない。途中からはどこか、デュランに対する対抗意識のような物が芽生えていた。
そもそも計画からして無茶が過ぎるのだ、やれと言われて尻込みしてしまうのは仕方ないと思う。
しかし、ではやらなくていい、と言われるとそれはそれで不満が残る。
できなくて当然、できないのが当たり前、のように評価されているのだろうか、と思うと、なんとも悲しくなると同時に怒りがこみ上げてくるのだ。
考えてくれるのはありがたい。守ってくれるつもりなのは嬉しい。だが……。
(わたくしがしてほしいのは、過剰な保護ではなくて、一緒にいてくれること……それだけなのに)
そこまで考えて彼女はふるふる首を振った。
(そもそもわたくしは、至らぬ点ばかりの身。最近、デュランを見ていると妙な気持ちになってしまって、冷静でいられないことも確か。それなのにこの人にだけ、勝手に歯がゆさを覚えたり、注文をつけたりするのは……きっと筋違いというものだわ。今だって充分恵まれているのだもの、これ以上を望むなんて――)
これ以上。そう考えたところでふと手が止まった。
(それもおかしいのではないかしら。わたくしが今のデュランに不満を覚えると言うことは、違う風になりたいと思ってるってこと? 一緒にいるだけでいい……そのはずではなかったの? これ以上ってなに? 一体何を……)
こっそり視線を動かすと、ちょうどばっちり目が合ってしまい、慌てて皿の上に舞い戻った。頭の中のつながりかけていた何かの線も、驚いた拍子にぶつりと切れてしまっている。
もう既に切り分け終わった肉に執拗にナイフを滑らせているが、頭が真っ白になっている本人にはそこまで気が回らない。
彼は少し何か言いたそうにトゥラの方を眺めていたが、結局ため息を吐き、席を立ち上がった。
「おや。もう下がるのか?」
「早めに寝る。皆の言う通り、なんか最近調子が変みたいだし」
おやすみの挨拶をして去って行く音に、シュナはちょっぴり罪悪感を覚えていた。
(……わたくしのせいなのかしら。ずっと、デュランのしてほしいと思っている通りにできていないから。そもそもあの人はわたくしにどうしてほしいの? ああ、こんなことを考えてしまうなんて、自意識過剰なのかしら……)
いつの間にか食器から手を離し、両手で頬を押さえたまま考え込んでいる娘を見て、侯爵は傍らの夫人に真顔で言った。
「母さん。これ絶対嵐が来る。王城揺れちゃう。儂も揺らぎたくなっちゃう。どうしよう。ここは良心と義務感に従って胃を痛めればいいのかな。それとも本能のままに胸を高鳴らせながら正座して待ってればいいのかな」
「修羅場に悩む己に浸るのは結構ですが、仕事はきっちりこなしてくださいませね」
「フフフ……本当にぶれないなあ我が妻は。好き。愛してるシシリア」
「お黙り。愛情は成果で証明なさって」
「そんな冷たい素振りで、なんだかんだ過程もしっかり見てくれる君が愛おしくてたまらな……あ、はいすみませんそろそろ黙ります、ごめんなさい明日話してくれないのはマジで業務に支障出るからやめて」
何かが起こる気配に気が高ぶっているのか、いつもより領主は若干ハイテンションらしい。
他に色々忙しいことのある娘には、夫妻のじゃれ合う背景音は右から左に流されて記憶にはとどまらないのだった。
さて、前夜の葛藤はどこへやら、寝台に入って目を閉じて開けたら当日の朝が来た。
健康的な己の身体に感謝すべきか、もう少し緊張していなければと叱咤するべきか悩ましいところだ。
「実は全部夢でしたなんてことはないかしら。予定が変更されたとか、やっぱりなかったことにというのでもいいけれど……」とこっそり心の片隅で念じたシュナだったが、慌ただしく入ってきたメイドがコレットだけでなかったのを見ると戦慄した。
身体が震える。武者震い。そんな勇ましく前向きなものではない。単純に恐怖である。だって不安要素はあっても安心できる要素がないではないか。
でもここまで来たらやるしかない。もうやるしかないのだ。
と、勇ましく己を奮い立たせていたシュナは、メイド達の持ってきた本日の勝負服を見た瞬間早くも心が挫けかけ、声なき絶叫を上げることになった。
(待って――それを着るの? それを着て踊るの!? わたくし、聞いていないわ!)
二度見しても念のため三度見しても現実は変わらなかった。
そこには、胸元のハート型の切れ込みが特徴的で、首から肩、腕、果ては背中までを全面的にさらけ出していく……そんな、(シュナにとっては)かなり攻めの姿勢であるデザインのドレスが、両腕を広げて小娘を待ち構えていたのであった。
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