迷宮 試練の間 中編

 亜人がわざとらしく足音を立てる背後で、灼熱の空間と試練の間とをつなげていた道が速やかに閉じていく。


 狼の混ざり物である男は、最初赤髪の青年を見て舌舐めずりした。すぐに体勢を立て直した女神官が斜線に、そして視線の間に割って入ってきて杖を構えると、今度はそちらに向かって愛想の良い顔を向ける。


「や、ユディちゃん。元気?」

「おかげさまで、人生で最も自重せずに済んでいる所です」

「そう、それは良かった。で、化け物仲間同士、もちろん仲良くしてくれるんだよね?」

「いいですよ。今日は存分に。貴方が動かなくなるまで」

「なるほど、珍しくがっつり好戦的だこと」


 再び全身を鎧で覆い隠したデュランはユディスの隣まで出ようとするが、背を向けたままの彼女がさりげなく手を広げ足をずらし、出てくることを許さない。困惑の眼差しを向けても、こちらにはちらと一瞥すらくれようとしなかった。


 そんな二人に向かって、ザシャは微笑みを浮かべ続けている。


「ねえ君、どうしてそんなに僕を嫌うのさ? ちょっと調べたんだけど、僕たちの共通点って多いんだよ――?」


 もったいぶった抑揚をつけた囁きは、明らかな挑発を孕んでいた。鎧の下で、デュランの血がざっと音を立てて引く。



 惨めなゼラン孤児の女レフォリア

 それは彼女に対する、考えられうる限り最大級の侮辱になるだろう。

 畏怖の念を内包する「禁術使い」の呼称よりももっと酷い。



 神聖ラグマ法国の姓名は、意味を知っている者が聞けばそれだけで相手が何者か理解することができるようになっている。彼らの名は順に、洗礼名、出身、階級を意味する。


 例えばユディス=レフォリア=カルディならば、成人の際に改めてつけられた名前がユディス、末尾はそのまま枢機卿カルディ


 そして間の出身地を示すレフォリアとは、レフォリエルという街で育った女性の事を示す。男ならばレフォリオ。彼女の弟子、ルファタ=レフォリオ=プルシはすなわち、同郷の司祭を意味している。


 さて、彼らの出身レフォリエルとは、俗に養子の街と呼ばれていた。もっと言えば、孤児みなしごの街。


 一応公式には、レフォリエルは学徒の街である。聖堂ともいささか異なる構造をした建物は巨大な学び舎だ。この街に――この一つの学園都市に集められる子供達は、いずれも親をなくしたか、あるいは親に捨てられたか、だ。


 神聖ラグマ法国は、夏には井戸が涸れ、冬には豪雪が人里を襲い、草木の芽吹きにくい赤茶けた大地が広がる国である。


 呪術を用いねば生きていくだけでも厳しい環境は、周期的に人の犠牲を求めた。

 老人は自ら山に分け入り、子供は親の手を引かれ――そう多くはない蓄えと引き換えに、大人に引き渡されて故郷を後にする。


 運が悪い子供らは、手鎖をつけられ、南に連れ去られる。王国の人間は、見た目は美しいが反面打たれ弱くて倒れやすい。地味な見た目が多いが、頑丈で辛抱強く、加えて従順な性格をしていることが多い法国の子供は、これはこれで領のあちこちに需要があるのだった。


 そして運のいい子供達は、レフォリエルに集められてくる。

 そろいの制服を纏って一緒に育てられ、適性を明らかにされ、いずれは階級に振り分けられてそれぞれの道を歩んでいく。


 デュランはユディスの過去を知らない。初めてこの地にやってきた彼女は、まだ少女の面影を顔に残す年頃だった。けれどその時、既に枢機卿の座を法王に賜っており、そしてどの大人よりも静かな決意に満ちあふれていた。それが彼女の最も古い過去であり、誰もその先を聞いたことはない。


 ある程度知識があれば、レフォリア、の名を持つ時点で、過去の話はまず話題に出さない。それよりも、レフォリアの名を持ちながら若年の身にして枢機卿に上り詰めた事に注目する。



 ――だが。


「――哀れで惨めな善人諸君。君たちはなぜ、いつも僕を仲間はずれにしたがるのさ? 誰だって正しく生きたい。その正しさ、それがほんの少し、僕たちはズレているだけ」


 おそらくザシャは、その前のユディスの事も知っているのだ。鞭のグリップを指の腹でなぞりながら、態度が、口ぶりが、表情が、その上で、「澄まし顔をしたお前の本質はこちら寄りだろう?」と雄弁に語っているのだ。


 ――言い返したい。少なくとも、彼女が貶された事に対して抗議したい。けれど、あくまでも落ち着いた様子の神官のたたずまいを見ていると、一瞬でも頭に血を上らせた自分が大層思慮の浅い人間に思えた。


 ユディス=レフォリア=カルディはじっと亜人を見つめ、相手が歌い終わったのを確かめてから唇に弧を描いた。それは冷たい三日月に、あるいは研ぎ澄まされた刃の先によく似ている。


「いいえ、違いますとも。わたくし達と貴方は、違う」

「へえ。何が?」

「レフォリエル育ちのユディスは……いいえ、は、仰る通り、正しさの奴隷でした。最後までそうかもしれない。けれど、貴方。貴方は? 貴方が知っているのは、ただ他人の正しさの壊し方、それだけ――」


 ニヤニヤと品のない笑みを浮かべていた男の顔色が、少し変わったように見えた。

 口元を上げたまま、目を細める。それは軽蔑の表情によく似ていた。けれど単に軽んじているよりは無関心に近く、それでいて不快を滲ませながらも、どこかにまだ悦楽がわずか尾を引き線を残していた。


「――そんなものが、なぜ星の恩寵を授かりし市民と同等である、などと? けれど、そうですね……認めましょう。ええ、認めましょう。臣と貴方は、同じものなのかもしれない――」


 くるりとユディス=レフォリア=カルディが、長い杖を回し、持ち直し、構え直して身を屈める。


「――ならば。今宵、全ての怪物けものの光を消し去りましょう。お覚悟を、悪魔の落とし子よ」


 返答は言葉ではなかった。


 誘われるように足を出した亜人が、手を広げ、くっと手首を返した。


 重たい一撃だった。真横に払われた黒線が、不可視の壁を破壊する。

 けれど今度のユディスは押される事なく踏みとどまった。今度壊されたのは一枚目の壁に過ぎない。何重にも異なる層の壁を展開した彼女は、最初襲い来る打撃を受けるのみだった。


 三度目を受ける直前、無造作に杖を持つ手を突き出し、小さく口の中に詠唱を唱える。

 すると鞭は勢いよくしなって主の元に戻っていき、ザシャの立っていた辺りに破砕音と土埃の煙を作り上げた。


 ユディスは止まらない。走り出した彼女を追うように、煙の中から男が飛び出した。女の背に、今度は降り注ぐがごとき鞭の雨が襲来する。彼女の周りがあっという間に黒く染まったが、亜人の表情は明るくない。手応えが感じられないのだろう。


 再び彼が手首を返し、鞭を呼び戻すのと同時、別の黒が亜人に飛び込んだ。


 飛び込む突きを螺旋で絡め取り、脇に逸らして亜人は目を輝かせる。


「やっほ、デュランちゃん――」


 だがすぐに顔をしかめた。騎士の後ろから光の球が複数飛び込んで来たせいだ。


 背後から送られる、味方を巻き込む勢いの追撃を、けれどデュランはそのまま受け、むしろ踏み込みと合わせて相手を押しにかかる。体勢が崩れた亜人に一気にたたみかけようとした彼だったが、直感で顔を反らせた。首のあった位置をシャッと音を立てて短剣が刈り取る。


 応じるようにデュランも短剣を引き抜くと、続けざまに刃の打ち合う音が響き、そしてすぐに金属が折れる甲高い音が響き渡った。


 折れたのはデュランの短剣だ。大剣の方は、ザシャが鞭を絡ませているからろくに動かせない。勝ち誇った顔で突き込まれた相手の切っ先を、残された柄で受け流し、わずかに残った根元の破片で指を狙う。

 籠手だの手袋だのは見えなかったが、何かしら細工はしていたのだろう。親指が落ちる代わりに耳障りな鈍い音が響く。

 しかしおかげで、人よりもより優れた聴力にはこたえたらしい。一瞬、本当にわずかな間、削がれた集中の隙間を縫い、柄を握ったままの手刀で手から短剣をたたき落とす。


 その拍子に、今度こそこちらの剣もバキリと音を立ててひび割れ、砕け散った。お互い短い得物を失った男達は、もつれ合うように組み合いかけ、手を払い、掴まれそうになってはうまく逃れ、にらみ合う。


 不意に、がくりとデュランが膝を突いた。同時にザシャも同じく姿勢を崩す。鞭を絡ませたままの剣が、地面に飲み込まれるように沈んでいく――と同時に、獣の咆吼が耳に飛び込んで来た。


  • Twitterで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る