身元不明 初めての紅茶と父の顔

 緊張の面持ちでごくりと喉を飲み込み、茶色い液体に目を落とした。


(飲めるのかしら……)


 シュナが一人だけこっそりびくびくしているのも無理はない。

 何しろ彼女は十八年間、黄金色の液体のみ与えられて育ってきた。

 父親であるファリオンは他の選択肢を示さなかった。お薬だけが彼女が口に入れてよい物だった。


「もしかして、飲んだことない? ほら、香りを楽しむところから……」

「無理はしなくても大丈夫よ。お水がいいかしら? お白湯? ああ、それとも、念のためエチケット袋を用意しておいた方が安全かしら。安心してください、お医者さんは吐かせ方も心得てますからね」

「いや、あの、吐くこと前提で挑むぐらいなら、やめさせた方が……」

「あっ、あっ、ひょっとしてお嬢様、ストレート駄目ですか? ご心配なく! ミルクもお砂糖も、準備して参りましたから! ちょいと失礼……あ、若様、先生、細かいマナーは目をつぶっててくださいね」


 シュナが困ったような顔で渡されたカップを両手に躊躇していると、気がついた三人が顔を見合わせてから、各々世話を焼いてこようとする。


 デュランはカップに顔を近づけて手で仰ぎ、漂う空気を鼻に吸い込ませるような動きをして見せた。

 白服の女性は鞄を漁って、ガサガサ鳴る黒い袋を取り出し、パン、パン! と強度を確かめるように広げて音を鳴らしている。

 黒服白エプロンの若い女性は、シュナの手元からカップを回収すると、白い液体と四角い塊をいくつか放り込み、くるくるスプーンでかき回してからまた戻してきた。


「ささっ、どうぞ!」


 ……確かにデュランの真似をしてみると、ふわりといい香りを感じたような気がする。さすがにここまでされて、口をつけないのも失礼な気がした。


(ひ、一口……変な味がしたり、気持ち悪くなったりしたら、すぐ、やめればいいのだわ……!)


 それでもまだおっかなびっくりしていると、デュランがそっと手の中のカップを持ち上げてから、口元に持っていき、見えやすいようにちょっと傾けてから口に含む。シュナが飲み方がわからないと思って、お手本を見せてくれているのだろうか。それとも、なおも警戒感の消えない彼女に毒は入っていないと安心させるためだろうか。


 最後に一度深呼吸し、思い切ってぐいっと煽った。


(……あまい……?)


 舌に広がる味は不快な物ではない。目を潤ませたまま視線を上げると、三者三様にシュナを見守っている。


「その、駄目そうだったら、無理しなくていいからね……?」

「吐きそうなときは目で訴えてくださいね。大丈夫ですよ、お医者さんは慣れてますから! どんと来い!」

「ファイトです、お嬢様! お上手ですよ、あとはごっくんとやるだけです! それいけっ、倒せっ!」

「お前は一体何と戦っているつもりなんだ!?」


 黒服白エプロンがぐっと握りこぶしを見せてくるのに思わず吹き出しそうになり、慌てて堪えようとしたら喉が鳴った。

 温かい物が、喉を通って腹に落ちていく感覚。


(……飲んじゃった)


 途方に暮れた顔の彼女を、息を呑んで見守っていた三人が、何も起こらないのを確認して、ほーっと長い息を吐いた。


「大丈夫……かな……?」

「ご安心ください。たとえもしこの後大丈夫じゃなくなっても、ここにはプロがいますから結果的に大丈夫にしますよ、若様」

「わあ、頼もしい……のか……?」


 白服がにこやかに言う姿に、デュランはどこか引きつった笑みを返している。

 どうしよう、と思ってきょろきょろしているシュナに、黒服白エプロンが話しかけてきた。


「どうですか、お嬢様? ミルクティー、美味しいでしょう? ささ、気に入ったのでしたらもう一口!」


 勧められるまま二度、三度とちびちび口をつけて、シュナはコップ一杯の飲み物を全て腹に収めた。

 ほんのりと、身体全体が温まったような気がする。


(そうだ……お薬はいつも、冷たかったのだわ。あの塔はいつも、寒かった……)


 未知の体験への興奮と喜びが湧いたのは一瞬、過去の記憶にしんみりしている彼女の前では、紅茶セットがさりげなく片付けられていく。黒服白エプロンが下がるのを見守っていたデュランが、そっと鞄をしまってどうやら帰り支度を始めようとしている白服に声を掛けた。


「そうだ、先生。それと、あの、彼女の顔の傷は……?」

「ああ、こちらですか? 若様、これは先天性のものです。少し皮膚の色が違うだけ、痛みもないですし、生活に何ら影響を与える物でもない。ただ、まあ……大人になるとなくなることが多いんですけどね。彼女の場合、残るタイプだったようです」

(……傷?)


 覚えのない単語にいぶかしげな表情になり、自分の顔をなぞるようにぺたぺた触り始めた彼女の様子を見て、引っ込んでいこうとした黒服白エプロンが戻ってきた。服から取り出したのは手鏡だ。


「あの、よろしければ、どうぞ……」

(ありがとう)


 シュナは喋れない代わりににっこり微笑んでから両手で受け取り、小さな鏡面を覗き込む。


 ――思わず、かなり大きな声を上げてしまった。


「うー!?」

(え、え……どうして!?)


 他の人が目を丸くして見つめているが、構っている場合ではない。指でなぞると、鏡の中の女は同じように顔の輪郭に指を這わせる。ということは確かに、この人はシュナ本人で間違いないはずだ。

 けれど映り込んでいる顔の造形は、シュナが知っていた、シュナであるはずの形と異なっている。

 黒い髪、黒い目に、左目を中心として顔の半分に広がるような――醜い痣。

 確かにこの姿も見知ってはいる。十八年間、自分の次に見慣れていた顔ではある。



 ファリオンは男だったし、今のシュナよりは年上だったろうから幾分か老けてはいたが、彼をもう少し若くして女性にしたら――きっと今のシュナの顔になっていたのではないか、そんな気がする。


(そうか。お父様って案外垂れ目だったのね。元のわたくしって、吊り目だったのだわ。目の色は同じだけど、形は違っていたのね。眉の形は元からお父様譲りだったのかしら、あまり変わりないわ。鼻はどうかしら、もう少し細かった気がするけれど……髪は色も質も全然違うわ! お父様の髪ってちょっと癖っ毛!)


 新たな発見もあってしげしげ魅入ってしまうが、それにしても謎が増えるばかりで一向に解決の糸口が見つからないのは困ったものだ。竜になって人になったと思ったら、今度は顔が父に変わっていたなんて。


(本当に、一体何が起きているの?)


 困惑しても尋ねられる相手がいなければ、そもそも尋ねるための言葉さえ今は奪われている。


 シュナはふと、ぼんやり夢うつつに聞いた言葉を思い出す。


 ――側にいるよ。たとえ、目には見えなくても。いつだって、近くにいる……。


(お父様、夢の中でそう仰っていた……)


 そこで一度、はっとする。

 心配そうに見守る三者に、なんでもない、大丈夫というように笑顔を浮かべてごまかして、黒服白エプロンに手鏡を返す。

 けれどすぐに、シュナの頭は今までの情報をまとめ、推測を巡らせようとする。


(そういえば、わたくし……そうよ、最初に人に戻ったときは、ちゃんと元の姿をしていたの、嵐の中で見たわ! でもその時、考えたのだわ。このままでは、シュナだとわかってしまうのではないか。わたくしの元の髪、鱗の色と全く一緒なんだもの。わたくしがシュナとわかる方がいいのか、わからない方がいいのか、どちらがいいのだろうって、思って……そうしたら。ううん、その少し前、迷宮を出て……確か、痛くなってからずっと、おかしな声がずっと、頭の中で聞こえていたわ。何て言っていた? ちゃんと思い出せない……)


「では、私はこれで。後はお若い二人で……」

「違う!」

「からかっただけじゃないですか、いつもみたいに受け流せばいいのに、変な若様ですね」


 そこでシュナの意識は現実に呼び戻された。

 顔を上げると、白服の女性が出て行くところらしく……デュランはなぜかちょっと顔を赤くしている。


「では、お嬢様。また経過を見に来るかもしれませんが、後は若様にお任せしますので。お大事に」


 首を傾げている彼女に向かって扉からひらひら手を振って、女性はいなくなった。

 気がつけば、黒服白エプロンの方も退出しているらしい。

 部屋にデュランと二人だけ取り残されて、彼女はぱちぱち黒い目を瞬かせた。


「……さてと」


 妙に静かになった空間で、デュランが咳払いをしてからベッドの近くに戻ってきた。

 真面目な顔で手を握られると、シュナもまたぴんと背を伸ばし、じっと騎士の金色の目を見つめ返した。

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