秘密持ち お迎えが来た
何しろ大勢が一緒になって祈りを捧げられるような建物だ、入り口から入ってきたデュランと一番前の列にいたシュナとの間にはかなりの距離があった。駆け抜ける時が、この通路の距離がもどかしくて仕方ない。焦るように動かす足が、ふっともつれた。ちょうどその瞬間、あちらからもつかつか歩いてきていた騎士が大きく足を踏み出し、倒れ込みそうな所を受け止める。
ぎゅっと抱きしめられると、その瞬間安堵と温もりが体一杯に広がる。片手は背中に、もう片方の手は頭に回したデュランが、ポンポンと優しく叩きながら小さく呟く。
「全く……お騒がせだね。どこで迷ってたの? 心配したよ、お転婆さん」
シュナはろくに返事をすることができない。
(嬉しい、嬉しい、嬉しい……!)
色々と考えなければいけないことが全部飛んで、幸福感に満たされていた。
自分に足りていなかった物はこれなのだと痛烈に感じる。
が、二人の世界に浸っていられたのはほんの一瞬だった。
「静粛に――静粛に!」
広がりかけたざわめきを、前に出ている神官達が声を張り上げて制そうとする。また状況を一つ動かしたのは、その中にあっても一際通る凜とした声だった。
「――以上を以て、本日の朝の礼拝を終了致します。速やかに退場なさい。怠慢は許しません」
冷ややかな枢機卿の声が響き渡ると、喧噪が一瞬でしんとする。枢機卿がさっと周囲を見渡すと、目が合った順に慌てて動き出し、高位神官であろう者達が先導して礼拝堂の中の人間達の退出を促す。飾りだと思っていた壁の一部が開き、正面の入り口以外からぞろぞろと人の群れが押し出されていく。
その大きな流れに逆らうように通路を歩いてくる緋色の衣装はよく目立った。
デュランの動きを感じてシュナは顔を上げ、振り返る。
――ユディス=レフォリア=カルディの冷たい眼差しに、自分の体が凍り付くように固まるのを感じた。枢機卿はちらりと周囲を一瞥し、人が少なくなってきたところでこつ、と手にしている杖の先端を床に当て、重々しく口を開く。
「困りますよ、閣下。規律を乱すのは」
シュナは不安の眼差しを未だ自分を抱え込んでいる青年の方に向けた。カルディが睨み付けているのはそちらだ。ちょっと頭の冷えてきた娘には、それなりに非常識をとがめられても仕方ないのではなかろうかという彼の登場の仕方にようやく思い至り、恥ずかしさがこみ上げてくる。
(そうよ、一瞬全てを忘れていたけれど、礼拝の途中だったのに――あんなに人のいる中で! ものすごく目立っていたわ、怒られて当然だわ!)
あたふたしながら青くなっている彼女だが、デュランの方は落ち着いたものだった。
「すまない、カルディ。気が急いてしまった」
「獅子は普段悠然と構えていますが、いざ狩りが始まれば迅速に獲物を仕留めるとか――とは言え、何事にも限度というものがござりましょう。侮られるのは不愉快です」
「そんなつもりはない。保護していただいて感謝している。ただこちらとしても、昨夜のうちに連絡をいただいても良かったのだが」
「夜更けにご多忙の領主様の眠りを妨げるのは悪しきこと、またそれほどの緊急性もないと考慮致しましたが――それとも何か他に思うところがおありか」
「貴方の腕について疑った事はない。ただ、この子は少し複雑な事情を抱えている。なるべく安全で中立な場にいる必要がある」
「安全? 中立? なるほど。ならばそも監督不行き届きというものではないのでしょうか。保護者の義務について主張するなら、なぜ夜中に一人で歩かせるようなことをしていたのです。既に申し上げましたが、
言葉の意味がなんとなくしかわからなくても空気が確実に悪くなっていっていることはすぐに感じ取れる。しかもデュランが責められているのは自分のせいだ。
どうしよう――と小さくなったまま二人を見比べていたシュナは、響き渡った音に飛び上がりかけた。音源の方に目を向ければ、ほとんど人の捌けた礼拝堂にまだ残っていたカルディの弟子――ルファタ=レフォリオ=プルシが、自分の持っていた杖で勢いよく床を突いて注意を引きつけたらしい。
「カルディ=
両手を組み、少年ははきはきと言った。最初は師を、それから今度はデュランを見てから深々と頭を下げる。
「閣下におかれましても、何卒再びこの身に試練を超える時を与えることをお許しくださいませんでしょうか」
張り詰めていた空気がたわんだような気配。はあ、とため息を吐いたカルディの顔からは多少険が取れていた。デュランからも、未だ緊張は感じられるが、怖い雰囲気は失せた気がする。
「……そうですね。臣も予定外の事で少々慌てていたようです。ご無礼をお許しください、閣下。そしてお急ぎの用事がないのでしたら、一休みしていかれてはいかがです」
「いえ、こちらこそ……カルディの仰る通りです。以後同じ事のないように気をつけていきたい。あまり長居はできませんが、少しなら」
「では、そのように」
カルディは軽く会釈すると、さっさとどこかに向かって歩き出す。
「こちらに」
弟子に促されるたシュナがデュランを見上げると、彼は微笑み、頷き返した。
「ごめんね、トゥラ……少し焦りすぎたかもしれない。でも、大丈夫だ。お茶をいただいたら、帰ろう」
こくこく縦に首を振ってから大人しく手を引かれたシュナは、じっと先を行く少年の後ろ姿を見つめる。
(……たぶん、今のは。二人が喧嘩をしそうになったのを、うまくなだめたのよね。本当に、しっかりした方だわ)
自分も見習わねば、と思っていた彼女はふと内心首を傾げる。あれほど堂々としていた少年が、今は傍らの師を怯えたような目で見上げているからだ。戸を開けて礼拝堂を出る瞬間、小さな神官の声が聞こえてきた。
「プルシ、感謝しています。だからそう背筋を曲げるのはおよし」
「――はいっ、
ぴしりとした師の言葉をもらうと、彼はぱっと顔を輝かせた。なんとなく一通りのやりとりを見守ってからデュランの方を向くと、先ほどの枢機卿と同じように息を吐き出している。
「……俺もしっかりしないとな」
(デュランだっていつも頑張っているわ! わたくし知っているもの)
ぎゅっと握っている手に力を込めると、彼は少し驚いたようにこちらを向いてから、笑った。
お茶、と言ったが、法国の茶とは茶葉を用いた物ではなく豆を挽いた物のほうが主流らしい。本来はもっと温かな地域――例えば王国だとかギルディア領でないと採れない材料なのだが、術を用いることである程度国内生産が可能になった。当代の
そんな話を、世間話の要領でデュランと交わしながらカルディは豆茶を振る舞ってくれた。一時はどうなることかと言うほどキリキリしていた空間だったが、茶の時は案外和やかに時が進んでいる。
一口味見したシュナが苦みに表情を変えると、「香りを楽しむ飲み物なんだよ」とこっそりデュランが教えてくれる。そういう彼はどうなんだろうとこっそり観察していたら、優雅に香りを楽しんだ後顔色一つ変えずに飲み干していた。見回してみると神官二人も――豆茶を入れてきたプルシまで同じようにしており、シュナのカップにだけいつまでも濃い茶色の液体が残り続ける。
「……飲めなかったら残していいんだからね?」
一瞬「じゃあ俺が」と言ってくるかと身構えたシュナだったが、先ほどカルディにちょっと怒られた事が利いているのか、それとも空気を読んでいるのか、デュランはそんな風に小さく囁いてきた。
「まあ……癖がありますからね。僕も十歳までは全く飲めませんでした」
「大丈夫です。飲食の好みがありすぎるのは怠慢でしょうが、どうしても体に合わぬものというのも存在しますから」
口々に周囲からなだめられるようなことを言われると、逆に残すのも負けたような気になってくるのが人の心というものである。
最初はちびちび片付けていたシュナは、最後には一息にえいやっと飲み干した。口の中に広がる苦みにぎゅっと目を閉じて堪えていると、頑張ったことを労うようにデュランが膝をぎゅっと握りしめた手に自分の大きな手を重ねてくる。
「……そろそろ、お暇します。重ね重ね、今回のことは感謝します。正式なお礼は後ほど」
「いえ。奉仕は望むところですから」
立ち上がったデュランに聞き慣れてきたフレーズを返したカルディは、ふと見送りの最後にじっと彼を見つめて言う。
「……大事にされているのですね」
「もちろん」
シュナの肩を抱き寄せてすぐさま真顔で答えたデュランに、言われた方としてはなんとも身の置き所がなくうつむき顔を隠す。
「ごきげんよう、閣下。それに無垢なる人」
「ではまた、カルディ。プルシも」
「はい、閣下。星の祝福がありますように」
お辞儀をして神殿を後にしたシュナは、ふと首を傾げた。
(……カルディが星の光がどうの、って挨拶をしなかったのは、なぜかしら?)
この数日で聞き慣れていたがゆえにすぐに気がついた素朴な疑問だが、すぐそんなことには構っていられなくなった。
「……さて」
用意していたらしい馬車にシュナを座らせてから、デュランはすとんと向かい側の席に腰を下ろしで両腕を組む。
馬車の扉が閉まった瞬間露骨に変わった空気に、あ、さっきまでのはよそ行きモードだったんだ……! と瞬時に理解したシュナがピンと姿勢を伸ばすと、御曹司は整っていると評判の顔に、とびきり爽やかな微笑みを浮かべてみせた。
「それで? この数日……というか一週間以上? どこで何をしていたんですか、トゥラさん」
(さん……!)
いや怒られることぐらいは当然予想していたが、こういう方向で来るのは予想外だ。すごい。笑ってるし声は爽やかなのになぜか怒ってるのがわかる。
(油断していた……最初が優しかったからてっきりもう大丈夫かと……違うのね、あれは人前だから抑えていたのね! わたくしったら本当に物知らず……!)
対人関係が圧倒的に不足している元引きこもりは、去ったと思ったら始まってすらいなかった修羅場の予感に震え上がったのだった。
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