迷宮 毒湖の間

 次のエリアへ足を踏み入れると、慣れた浮遊感が体を包む。

 落下自体は初めてではなく、今更驚きはしない。

 不測の事態に備え、念のため鎧も完全装備の状態で挑んでいた。


 だが、今までとは異なる感覚に、わずかに体が硬直したのも確かだ。


 地面はない。踏ん張ることのできる硬い床の感触はない。しかし、足に、腕に、動かそうとする体に奇妙な抵抗感があって、加えて視界一面に真っ白な光景が広がる。かと言えば全くまぶしくはない。


(何も見えな――)


 だからデュランは混乱した。

 そして混乱した直後、背中から突き飛ばされる。


 前につんのめりそうになるが、やっぱり奇妙な全身への圧力は変わらない。鎧に守られているから痛みは感じずに済んでいるが、ずっと四方八方から圧迫されているような体感を覚えている。


 ごばっと息を吐いた瞬間、また視界が白くなって、そこでピンときた。


(――水! 水中!)


 ならば大水の間か毒湖の間だ。水中の動きだ、とわかれば姿勢も立て直しやすい。


 竜騎士として探索していた昔も、鎧を得て一人で探索するようになっていた最近も、たとえば空中を移動していたらエリアが変わっても次のエリアの空中へ、地上を移動していたら次のエリアへの地上へ、という移動パターンが多い。


 地上を歩いた先が間髪入れずに水の中、というパターンは経験がなく、それで一瞬状況がわからなくなったのだ。


 振り返ると、自分の周りに大きな泡のような膜を張っているユディス=レフォリア=カルディの背中が目に入る。


 彼女が目を向けている先、こちらに向かってくる巨大な魚影が見えた。


 おそらくは人食魚――それも一噛みでこちらの体半分を持って行けそうなほど大きい。


 女神官が杖を振ると、魚影に向かって光が素早く放たれた。

 着弾と共に魔物が吠え、逃げ出していく。

 うまく急所に当てられたか、弱点を突いたのだろう。


 だが喜んでばかりもいられない。

 デュランは咄嗟の気配に素早く身を屈めた。

 一瞬の後、元いた場所を矛がかすめる。


 体勢を直して確認すれば、半人半魚の人外が、ぎょろりと目を動かし、三叉矛を構え直した。


 マーマン――これも水マップ特有の魔物だ。


 数度の突きを体を捻ってかわし、隙が見えたところで三叉の根元をつかみ、勢いよく引っ張る。引き寄せたマーマンの体に、素早く振り抜いたナイフを横凪に払った。水中に鈍い血色が広がり、矛から力が抜けたことを確認して投げ捨てる。


(これは――あまりよくない)


 一人でも迷宮探索が可能な特級冒険者とは言え、苦手な物も存在する。


 端的に言って、デュランと水マップは相性が悪い。正確には、鎧と水マップの相性が悪いのだ。


 これがもし竜に乗っている状態なら、文字通りたとえ火の中水の中、全く何をも恐れることはない。

 何しろ彼らは場により体を最適化するし、乗っている竜騎士にもその恩恵が与えられる。

 水中生物たちと同等以上の動きをすることが可能で、呼吸の心配もせずに済む。


 しかし鎧の方はそこまで楽には行かない。

 顔まで覆っていれば少なくとも溺れ死ぬ事はない。それは確かに、まず潜る時どう空気を確保するか考えなければいけない他の冒険者に比べたら、大きなアドバンテージなのだろう。


 だがいかな脅威を寄せ付けぬ無双の鎧とて、空中や水中に積極的に飛び込んでいって大立ちまわりをする、そういうことはいささか設計者の想定外となる部分なのだろう。


 地上ならばいつも軽々大物取りに使っている大剣が、水中ではむしろ邪魔者だ。

 そもそも抜く動作に余分な力と時間がかかりすぎる上、大剣を持っている状態では泳ぎにくい。

 先ほどもだから、背の大剣は抜かずに、別に持ってきていたナイフで敵を片付けたのだ。


 だから普段の彼も、どうしても水の中に用事がある場合はあらかじめそれ用に装備を整え直し――たとえば迷宮内部で拾ってきた武器から水の中でも使いやすいものを手に潜るとか――挑んでいた。


 しかし、今回は予測よりワンテンポ速く水中に送られてしまったがゆえ、後手に回ってしまっている。


(ひとまず、水面――一度地面に出て、落ち着いて)


 移動は不便、攻撃手段が限られる、加えて魔物は出現し、うっかりと防御を誤れば毒にやられる。長居していていいことはない。見下ろしてもまだ下があるほどの深さならなおさら。


(カルディ、一度上へ――)


 呼びかけようとしてはっとした。水中は地上のように音が響かない。意思疎通も困難になる。


 彼女も深層探索の経験済み、実力のある冒険者だ。

 ここは一度地上を目指すべき、という意見は一致するはずであるが、そもそも注意を引くことさえ難しい。


 幸運にも彼女もデュランに何か言うことがあったのか、あるいは別の勘か、こちらを向いてくれたようである。上方を指差せば、大きな頷きが返ってきた。


 手足を動かし、浮上方向に移動すると、横を泡に包まれた彼女がゆっくりとついてくる――かと思った瞬間、くるりと彼女が進行方向を変えた。


 何を迎え撃とうとしているのか、振り返ったデュランは思わずその相手を確認して舌打ちした。


 今の状態で会いたくない魔物ベストファイブに入るかもしれない――バジリスクだ。巨大な蛇の魔物で、水場だけでなく難易度の高い場ならどこにでも出現する。


 巨体の割にしなやかに動くこと、その牙や尾の先端、背びれの棘に猛毒を持つことも厄介だが、バジリスク最大の脅威は目だ。

 この魔物は視線で呪いをかける。目が合った相手を動けなくしてしまうのである。


 幸い、相手に睨まれただけでは発動せず、目が合ったという条件下でのみ作動するが、対策を打たねば即座に窮地に追いやられる面倒な相手であることには変わりない。


 デュランの鎧ならば睨まれて即動けなくなるということはないが、体が非常に重たくなる感覚に苛まれる。完全な無効化はできない。


(ただでさえ動きにくい、この水中で……)


 バジリスクは通常一人で戦おうとすれば、視線の呪いのために非常に攻略が難しい。

 チーム戦ならば、注意を引いて逃げ続ける担当と、心臓を貫いてトドメを刺す、おとり役と攻撃役に別れるのが定石である。


 しかし水中のデュランでは満足におとり役をできるほど素早くは動けず、かといって短剣やナイフではバジリスクの硬く厚い皮膚を貫いて心臓まで傷を与えられるか怪しい。仮に一対一で逃げられない状況だったとしても、なんとかして距離を取り、体勢を立て直してから挑まなければ勝機は薄い。


 それが女神官にもわかっているのだろう、ちらっとこちらに目をくれると、行け、とほのかに光を放つ水面を杖で示した。


わたくしが相手をします。貴方は地上へ)


 彼女は術士だ、あちらからこちらの頭に直接意思を伝えることなら容易らしい。

 デュランは大きく腕を振って返事を返し、水をかく腕に力を込める。



 幸い、別れた所に各個で強力な魔物が襲ってくるほどまでの不運には恵まれなかった。


 まず水上に顔を出したデュランは、次いで上がることのできる場を探し、一息つく。


(水上は見渡してもずっと水面が続くのみ――大水じゃない、毒湖の方だな。それにしてもいつに増して水が多い。ところどころ、こういった上がれる場所はあるみたいだけど、言ってしまえばそれだけだ。となるとおそらく、次の場への入り口は水中……潜水は避けられない、か)


 手持ちの装備を考えても、毒湖の間での戦闘は圧倒的にデメリットが大きく、極力避けるべきだ。過酷な状況での訓練ならばともかく、今はあくまでより深い階層へ移動することが優先である。


(やはりカルディに一度上がってきてもらって魔物避けを施してもらうか。しかし彼女もあれだけ連続で術を使い続けて、大丈夫なのか? 先ほど少し休んだとは言え――)


 うつむいていたデュランは、不意の気配にばっと立ち上がって構えた。


 少し離れた場所に水柱が立ち上がる。

 大きな蛇の胴体がのたうって、それに弾かれるように誰かの体が投げ出され、水の中に落ちた。


 考えるより先に体が動く。飛び込んだデュランが泳いでいくと、はたして沈んでいくのはユディス=レフォリア=カルディだ。


 水中で彼女の腹部からもくもくと黒い煙のようなものが立ち上るのを見て、デュランは鎧の下で呻いた。


(噛まれたのか!)


 だが最悪の最悪、にはならずに済んだらしい。


 バジリスクが水面に躍り出たのは最期の断末魔、負傷したユディスを追ってくることも、デュランに標的を変えることもなかった。


 ゆっくりと落ちていく巨体を背に、騎士は神官を先ほどの水面まで連れてくる。


「カルディ、息はできるか!」

「不覚……というより限界ですね。さすがに無理が祟りました」


 仰向けに横たえられた彼女の顔はげっそりと青く、目の下には濃い隈が浮き上がっていた。


 素早く装備品の中からポーションを取り出したデュランは、しかし振りかけようとした手を他でもない神官自身から止められる。


「お待ちください……」

「信仰の問題か? それとも離脱症状経験者?」

「いえ。、それは取っておいてください……と」


 いらだちを抑えての問いに対する答えは、随分とまた斜め上を行く。


 虚を突かれたデュランの顔を、弱々しい皮肉の笑みで女は見上げた。


「いいですか、閣下。傷自体は大した深さではありませんが、ご存じの通り非常にたちの悪い相手でした。臣はこれから毒で死にます」

「あのな――!」


 笑えない冗談でも言うつもりか、と肩を怒らせたデュランは、わずかなひっかかりにそのまま停止する。


「死ぬでしょうが、その後……」


 彼の戸惑いに微笑して応じ、そのまま枢機卿は呆気なく息を拭き取った。


 彼女の声が消え入り、目から光が消え、全身から力が抜ける。


 呆然と見下ろしたデュランは、首筋に触れた。じっとそのまま待機する。たっぷり一分、二分、三分――もっと時間をかけたかもしれない。


 それだけ待っても、指先から何の振動も返ってこなかった。完全に脈が止まっている。ユディス=レフォリア=カルディは死んだ。


 けれどその事実を受け止め、飲み込もうとした瞬間のことだった。

 鼓動を止めたはずの体に、びくんと大きな震えが走る。脊髄反射で手が引っ込んだ。本能がこれは触れてはいけないものだと警告する。


 神官は大きく目を見開き、彼女の全身の筋肉が緊張した。大きく息を吸い込み――そしてカルディは素早く身を屈めると、腹を押さえて勢いよく嘔吐する。


 介抱しに行くべきか、それとも……。


 たった今自分で息が止まったのを確認したばかりの体が息を吹き返している。

 異様な雰囲気に気圧されたように立ち尽くしていると、一通り全部胃の中の物を出し終えたらしい彼女が口元を拭って振り返った。


「お見苦しい所をお見せしました」

「いや、見苦しいというか……」


 かける言葉がない。疑問は多々あるが、何を今の彼女に言えばいいのかわからない。


 言葉を探したまま息を止めている竜騎士に、血色の悪いまま女神官はしゃらりと杖を鳴らし、再び皮肉っぽい笑みを浮かべた。


「言ったでしょう。、と。……臣も呪われ仲間ですよ。一度だけでは済まない死の呪いを、女神から頂きましたので」




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