若竜 砂の間を飛び、水浴びの試練を被る

 大木の間を上に向かって飛んでいき、絡み合った大きな枝の間を抜けて光の中に出ると、また景色が変わる。


 文字通り大きな木々がぽつぽつとそびえ立ち、ある程度緑に満ちていた上部の空間には、一転して砂と石の大地が広がっていた。よくよく思い出してみれば、先ほど大木の間にいたとき上方から所々小さな砂の滝が流れてきていた。あれはここから落ちてきていたのだ、とシュナは感嘆の声を漏らす。


 白い砂の中には古ぼけた柱や建物の屋根らしき構造をした形の物が転がっていた。どこからか吹いてくる風で時折砂が巻き上がり、倒壊した遙か昔の建築物の姿を晒したり、あるいは逆に覆い隠したりする。


 大木の間と違ってここは開けていた。光の差し込んでくる先は遠く、薄もやの中に隠れていて見えない。


《砂の間だ。良かった、今日はまあまあ普通の日だ》

《まあまあ普通の日って?》


 飛びながらシュナが長い首を曲げて背中を見ると、騎士はくいっと眉を跳ね上げた。


《大木の間は砂の間と、砂の間はその先の待合所と繋がっている――のが、普通の日。だけどここは迷宮、迷いの宮殿だ。普通に歩いていたはずが、思いもよらない変な場所に飛ばされる。そういうことだって、しょっちゅうある》

《今日はちゃんと大木の間の上に行ったら砂の間に出られたから、まあまあ普通の日ってことね?》

《そういうこと。もう少し進んだら、鐘楼塔――大きな塔状の建物が見えてくるはずだ。そこまで行こう》


 正面を指差されて、シュナは一度まっすぐ顔を向けてから、上を向いて問いかける。


《今の場所から真上に行っちゃ駄目なの? あのモヤモヤの中に入るのは?》

《あれがこれまた曲者でさ。入っても煙だか埃だかわからないものに包まれるだけで、それ以上は上がれないんだ。なんだかよくわからないけど、見えない壁に押し阻まれているみたいな? しかも諦めて出てきた時、砂の間にもう一回帰ってこられるとは限らなくて、また変な場所に飛ばされる可能性がある》

《じゃあ、デュランの知ってる、そのショウロウトウに向かう方がいいのね》

《そうなんだ。砂の間は魔物の出現率も比較的少ない。たぶんこのまま行けるか……まあ、最悪ガーゴイルがまた出てきてもなんとかなるさ! 君と俺はいいコンビだし》

《それに、今日はまあまあいい日だから?》

《そう!》


 砂と瓦礫の広がる上で翼を羽ばたかせながら、シュナは笑い声を上げた。デュランもふっと微笑みを浮かべたのだろう。ぽんぽんと優しく首を叩かれる。そこでふと、彼女は首を傾げた。


《ね、もしかして、デュラン。わたくしの所に来たのは、思いもよらなかったこと?》

《そっ……ええと、まあ……想定外だったことはね? 確かなんですけれども、ええ……はい》


 少し前に、竜騎士はいかにも自分の意思で奥深くまで潜ってきましたという顔をして説明をしていたが、実態は不可抗力の賜、というかミスの連続で落下事故を起こしまくった結果なんかよくわからない場所まで迷い込んでしまった、というのがシュナのいた場所にたどり着いた真相である。


 早速取り繕ったかっこよさの化けの皮を剥がされそうになってしどろもどろになっている彼の下で、シュナは静かな声を上げた。


《さっきの所は大木の間。今は砂の間。それじゃあね、わたくしがいたところって、なんだったのかしら?》

《……ええと、シュナ。君はあそこにいた時より前のこととかは、覚えていないんだっけ》


 シュナはゆるゆると頭を振った。残念そうに否定の意思を伝えるようにも、嫌な思い出を振り払おうとしているかのようにも見える動きだ。


《気がついたら、あそこにいたの》

《そっか……大木の間や砂の間は、比較的迷宮内部でも場が安定していて何度も通る場所だからそういう名前がついているけれど、その冒険限りでしか入れないような小部屋も迷宮には数多く存在する。君のいたところは、どちらかと言うとそういう場所だと思う》


 デュランが黙り込むと、シュナも喋らない。ばさり、ばさりと時折羽ばたく音だけが響き渡る。

 なんだか成り行き上、当たり前のように一緒に行動している二人だが、冷静に考えれば疑問だらけの関係だ。


 とりわけ大きいのが、シュナ自身に対する謎。

 落ちついた時にふと思い出される疑念、あの部屋はなんだったのか――それはすぐに、あの場所にいたシュナは何者だったのか、という問いと結びつく。


 しかし肝心の彼女がその答えを知らなければ、デュランが知っているはずもない。

 若い竜騎士がなぜシュナにここまで親切なのかも(いや、自分は物知らずだから色々と間違えている可能性はあるが、少なくともデュランがシュナに多少「普通」の度を超すぐらい親切であろうという推測は、間違っていないはずなのだ)、ゴタゴタが落ち着いて思考を紡ぐ時間ができれば本当は考慮しなければいけないことのようにも思えた。


(でも、なぜかしら。この人は大丈夫。この人はわたくしの味方になってくれる。そういう自信が、確信がある。なぜと言われたら、答えられることではないのだけど……)


 騎士がシュナに対して無性に好意的であるように、シュナもまた自分が騎士に対して最初から奇妙に好意的である自覚がある。一体デュランの何にそこまで惹かれるのか?


《シュナ、見えてきたぞ。もう少し近づいたら、窓から中に入るんだ。……あれ、そういえば君、窓ってわかる? とりあえず、建物の横に穴が空いているから、そこから中に入ってほしいんだけど……》


 うーん、と唸り声すら上げて長考に入ろうとしたシュナだが、デュランの声で我に返る。


《塔? 窓? あれね。わかるわ、大丈夫。任せて!》


 砂煙のなかに蜃気楼のように浮かぶ大きな八角形の塔の姿を、シュナも今ははっきり見ることができる。

 もう少し距離を詰めると、側面にぽつぽつと空いている四角の穴の中から建物内部への侵入が可能そうだった。


 内部は空洞になっており、がらんどうの巨大な建築物をひたすら上に向かって飛んでいけば、どうやら最上階に当たる場所に何かがつり下がっている。


《……鐘?》

《そう。だから鐘楼塔。たぶん錆びきっているし、実際に鳴っているのが見たことはないけどね。……そこからまた外に出て》


 鐘の横にはまた建物の外に繋がる空いた場所があり、シュナはデュランのナビゲートに従って進んでいく。


 今度出てきた光景の主役はどうやら岩だ。聞こえてくるのは……水の流れる音、だろうか。

 なぜか砂の間よりこちらの方が暗い。砂の間の光は一体どこから降り注いでいたのだろう? と考えているシュナの耳に、デュランの嬉しそうな声が届く。


《よし、ここも大丈夫。問題なく待合所にたどり着けそうだ。出口も近い》

《待合所って、何?》

《竜と人が待ち合わせする所なんだ。ここだけは迷宮神水じゃなくてただの水が流れて川を作ってる。貴重な迷宮内部の安らぎポイント。……ま、欲を言えばもう少し迷宮の深層にこういう所があるとさらに探索が楽なんだけど、飲み水が安定して確保できるってだけでも感謝しないとな》


 騎士は竜に、間もなく発見した水場の近くで降りるように誘導してくる。


 透明の水が小さな滝とため池のような湖を作っている場所だった。


 シュナから飛び降りたデュランは、歓声を上げながら水に突進し、両手ですくって飲んでから顔を洗い、それからおもむろに服を脱ぎ出す――。


《デュラン!?》

《ん? 何?》

《水を飲むのと顔を洗うのはいいと思うけど! ど、どうして服を脱ぐの!?》

《いや……ついでに水浴びしようかなって。色々あったし》


 それは確かに、彼はここに来るまで迷宮で散々色んな物まみれになっていたし、まあ、こう、さっぱりしたい気持ちがわからないとは言わない。むしろシュナだってさっぱりしたい。


 が、さすがにこれはまずかろうと世間知らずなりに危機感を覚える。

 思い出してしまえば彼女の絶対的行動規範、お父様ことファリオンだって、


「いいかいシュナ。他人に裸を見せるのは、とてもはしたなくて失礼なことなんだよ。レディーはそんなことしない。……まあ、将来的にこう、ものすごく親密になりたい人相手になら、許しても……いや、やっぱり駄目だよ、シュナ。お父様にも見せちゃ駄目だ。まして、他の人に見られるのも、他の人の裸を見るのも駄目だからね。特に男は駄目だよ。男は皆ケダモノだから駄目だよ。そんな人がいたら、お父様が許さないからね。お父様、本気で怒るからね」


 ……なんてことを、彼にしては妙に圧のある笑顔で、言っていたし。確か十六歳の誕生日に。


 既に素早く鎧を脱ぎ捨て上着を脱ぎ捨て上半身は下着姿(推定)になっている男に、見た目竜、中身は(たぶんまだ一応)世間知らずの姫はわたわた視線を泳がせながらなおも言いつのる。


《あ――あのね! 危ないんじゃないかしら! だってほら、ここは何が起こるかわからない迷宮なのでしょう!? も、もちろんわたくしは見張りをするけれど、でもっ、あの……ちょっと、聞いているの!?》

《大丈夫だよ。安らぎポイントって言ったでしょ。滝の中、光る石が見えない? あれがある場所には魔物が出ないか、最悪出ても襲ってこないんだ。心配することないって》


 そう言っている間にデュランは既に上半身裸になり、たぶん下半身も……下着なんだろうなあれは見たことないけど、そうか男の人の下着ってああなっているんだな、いやだから見てはいけない、なんて好奇心と真面目の間で激しい葛藤をしているシュナの抵抗空しく、ついに全ての布が取り払われた。


《…………》


 なるほどこういうとき人(竜?)の思考は無になるんだな、とシュナは実体験した。

 そしてやっぱり自分は未知への好奇心には勝てないのだな、ということも悟った。

 瞳はしっかり男の裸体を上から下まで忙しく観察に動いている。だって初めて見る物なんだもの、興味深いじゃないか。


 そうか男の人の胸板って本当に平たいんだな、とか、あれ全部筋肉なんだろうかすごい、とか、身体中に傷がついてる怖い、とか、足の間のあれはなんだろう、とか、おそらく表情は無になっているのだが頭は結構忙しい。

 そういえば今気がついた。竜ってかなり暗闇でも目が利くらしい。割とこう、しっかりいろいろなものが見える。たぶんきっとおそらく絶対、見えてはいけないものまで。こんな形で知りたくなかった。


 いや。ええと。だって、その、今の自分は竜だし。

 これははしたないの勘定に入らないはずだ。不足の非常事態だ。たぶん父も許してくれる。許してくれないと困る。

 というかもっと言えば、竜形態でも人の理論がそのまま適用されるなら、自分だって終始全裸ということになってしまうじゃないか。だからやっぱりセーフだ。

 そう、全力で言い訳を頭の中に並べている。シュナはこの短期間の間にすっかり相方のノリに釣られるようになってしまったらしい。


《シュナ? なんか遠くない? 一緒においでよ、さっぱりするよ。なんでそんな岩陰から隠れてのぞき見するみたいにしてるのさ。……あ、もしかして珍しい? いいよ、近くで見ても。俺、鍛えてるから大丈夫だから。それとも何、まさか恥ずかしがってる? シャイだなー。まあ、そんなところも可愛いけど――》


 シュナはブンブン頭を振った。全力で拒絶の意思である。

 どんなに爽やかにデュランに誘われようが、接近は徹底して避けた。距離は保ったし、一切言葉も返さない。小刻みにプルプル震え、ひたすら事が終わるのを耐えて過ごす。

 それが今のシュナにできた、精一杯の自衛であり自重であった。

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